市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第5講

本   論

はじめに ― 用語について

 本論に入る前に、本書で使う用語についてお断りしておきます。本書では、福音の史的展開を記述するにあたって、福音にかかわる事態の呼び方や人名・地名などの固有名詞の表記において、基本的には新共同訳の用語に従っていますが、本書の主張を明確にするために、本書独自の用語を使うこともあります。その独自の用語の主要なものについて、はじめに解説をつけておきます。

福音 福音告知 福音活動 

 本書の主題である「福音」という用語は、はじめから前提して使用していますが、その内容の歴史的変遷を本書全体で探求する前に、その基本的な内容の提示を「序論1」で、そしてその歴史的多様性の輪郭を「序論2」で描いておきました。「福音」と訳されているギリシア語原語は《エウアンゲリオン》ですが、この語には告知された内容を指す場合と、告知する活動を指す場合があります。新約聖書の用例の中、大部分の用例では告知される内容を指しますが、告知する行為ないし働きを指す場合もあります(コリントU二・一二、八・一八、フィリピ四・三、四・一五など)。新約聖書には、福音を告知する行為を《エウアンゲリゾマイ》(福音する)という動詞で指す場合もあります。
 もともと、キリストにおいて神が成し遂げられた救いの出来事を告知する働きは、新約聖書では《ケーリュッソー》(告げ知らせる)という動詞で描かれました。この動詞は、皇帝や王の布告を市民に告げ知らせるために大声でふれ回った《ケーリュクス》(伝令官)の働きを指す語でしたが、それがキリストの出来事を世に告げ知らせる働きを指すのに用いられるようになったものです。そして、告知される内容または告知する行為が《ケーリュグマ》と呼ばれるようになります。この《ケーリュグマ》という名詞は、ローマ一六・二五、コリントT一・二一、二・四、一五・一四、テトス一・三などで用いられ、新共同訳ではいずれも「宣教」と訳されています(ただし、テモテU四・一七では「福音」、マタイ一二・四一とルカ一一・三二では「説教」と訳されています)。「宣教」とか「説教」という日本語は、「教え」を宣べ伝えるとか説くという意味ですが、「教え」とは学んで聴き従う対象であり、出来事を告げ知らせるという意味とはやや違ってきます。それで本書では、「宣教」という用語は避けて、本来の内容にできるだけ近い表現として、福音を告知する働きを指すのに「福音告知」という用語を用いることにします。そして、告知される内容を「福音」という名詞で指すことにします。また、継続的な福音を告知する働きを「福音活動」と呼び、またある地域での、ある程度のまとまりのある福音活動の流れを「福音運動」と呼ぶこともあります。

キリスト信仰

 福音を告げ知らせるということは、キリストにおいて成し遂げられた神の救いの働きを告知することです。短く表現すれば、キリストを告知することだと言えます。福音を信じるとは、福音が告知するキリストを信じ、そのキリストに自分の存在と救済を委ねて生きるようになることです。このような意味で、福音が告げ知らせるキリストに自分の全存在を委ね、キリストに属する者として生きる生き方を、パウロは「キリストの信仰」《ヘー・ピスティス・トゥー・クリストゥー》と言っています。当然それは「キリストを信じる」こと(キリストを対象とする信仰)が含まれますが、それにとどまらず、ここに述べたように、自分の全存在をキリストに委ね、キリストに属する者として、キリストと合わせられて生きる人間の在り方を指しています。それは、キリストが主体として働き、人間の内に形成されるキリストに合わせられた在り方を指します。このような意味の「キリストの信仰」を、わたしは「キリスト信仰」という表現で呼んでいます。「キリスト信仰」は、キリストを内容とする信仰と説明してもよいかもしれません。

共同体

 新約聖書は、キリスト信仰の者たちが形成する集団とかグループを《エクレーシア》という語で指しています。このギリシア語はもともとギリシアの都市国家で、都市としての意志を決定するために招集された、投票権を持つ市民の集会を指していました。それが旧約聖書のギリシア語訳で、神の民を指すヘブライ語《カハール》(会衆)の訳語として用いられるようになり、最初期のキリスト信仰の人たちが自分たちの集団を指すのに用いるようになったものです。このキリスト信者の集団を指す《エクレーシア》というギリシア語は、新共同訳(そしてほとんどの日本語訳)で「教会」と訳されていますが、本書では「教会」という用語は使わないで、「共同体」と呼んでいます。「共同体」という語は人間のあらゆる種類の集団を指しますから、キリスト信仰の者たちの集団を指すときには、「キリスト信仰共同体」とか「キリスト者共同体」と呼ぶべきですが、本書では初めからキリスト信仰の者たちの集団を問題にしていることが明らかな場合には、たんに「共同体」という呼び方でキリスト者の共同体を指して用いています。
 「教会」という日本語は、現在の社会で使われるときには、一定の教義と祭儀、そして聖職制度をもった宗教集団を指しています。そのような意義内容を担っている用語を、最初期のキリスト信仰の人たちの集団に用いることは、彼らの集団もそのようなもの(制度的宗教集団)と誤解させ、その集団の理解を歪める危険があります。本書が扱う時代では、キリスト信仰の人たちの集団は、まだそのような教義・祭儀・聖職制度をもった制度的「教会」ではありませんでした。最初期のキリスト信仰の民が、ローマ社会で教義・祭儀・聖職制度をもつ確固たる社会制度としての「キリスト教会」として現れてくるのは三世紀とか四世紀になってからであり(この過程は本書の終章で扱うことになります)、本書が扱う一世紀ではまだそのような「キリスト教会」ではありません。
 新約聖書に出てくる《エクレーシア》という用語には二つの使い方があります。一つは、実際に複数のキリスト者が集まって形成する各個の集会を指す場合です。最初期には信者は個人の家に集まり、主イエスに対する礼拝を捧げていましたから、「誰それの家にある《エクレーシア》(単数形)」とか、「(どこそこの)地域にある諸《エクレーシア》(複数形)」というような形で用いられる場合です。このような場合には、《エクレーシア》は「集会」と訳されるのが適切です。パウロは《エクレーシア》という語をこのような意味で用いています。もう一つは、《ヘー・エクレーシア》と定冠詞つき単数形で、キリスト信仰の民の総体を指す場合です。これは、コロサイ書やエフェソ書など、パウロ以後にパウロの名で書かれた書簡に出てくる用例ですが、これらの書簡では《エクレーシア》という語はいつも単数形で、キリストの民の総体を指しています。これらの書簡のわたしの訳では「御民」と訳してあります。
 ところで、キリスト信仰の民の集団形成には、さまざまな段階があり、小は家庭の集会から、大はキリストの民の総体を指す《エクレーシア》まで、その間に一定地域の諸集会が一つのグループを形成している場合とか、特定の指導者のもとに一定数の信者が緩やかな交わりを形成している場合など、様々な形とか内容の集団があります。それらを一括して呼ぶ名称として、本書では「共同体」を用いています。「共同体」という用語はどのような種類の人間集団も指すことができる曖昧な用語ですが、実際にこの時期のキリスト者の共同体は流動的で、実に様々な内容の交わりでしたから、かえってこのような曖昧な用語の方が適切になります。たとえば、「エルサレム共同体」というのは、イエスの復活後、イエスをメシア・キリストと告知した使徒たちを中心に、彼らの福音告知活動で信仰に入ったユダヤ人たちの集団を指しますが、それがどのような形で交わりをもっていたのかは問わないで、そのエルサレム在住のユダヤ人のキリスト信仰の人々のグループ全体を指しています。「アンティオキア共同体」も、ユダヤ人のキリスト信者と異邦人のキリスト信者が、どのような集団を形成していたのか、またその集団相互の関係も問わないで、アンティオキアで活動していたキリスト信者の全体を指しています。「マタイ共同体」というのは、マタイ福音書を生み出すユダヤ人信者のグループを指していますが、それがどのような形の集団であったのかは分かりません。「ヨハネ共同体」も、ヨハネと呼ばれる指導者の福音活動によって形成され、その中からヨハネ福音書を生み出す信者のグループを指しています。

バプテスマ

 なお、新共同訳では「バプテスマ」とふりがなをつけた「洗礼」という用語を使っていますが、本書では新共同訳を引用するときも、口語訳がしているように「バプテスマ」という用語に統一します。「洗礼」という用語は、教会儀礼の用語になっているので、新約聖書の段階で用いるのは問題です。新約聖書では、《バプテスマ》という名詞も、「浸す」という原意をもつ《バプティゾー》という動詞の意味合いを保持して用いられている場合が多いので、その意味合いの響きを保持するために、「洗礼」という儀礼的用語ではなく、「バプテスマ」という仮名表記を用います。

 その他本書では、本書の主張を明確にするために、慣例的な用語とは違う表現を用いることがありますが、そのような個々の用例については、その都度解説をつけて用いるようにします。