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第一節 新約聖書文書の多様性

 新約聖書各文書の多様性は、その成立事情が様々に違っていることによります。誰によって(=どのような立場の人物によって)、どこで(=どのような活動の舞台で、あるいは誰に向かって)、いつ(=福音の進展の過程のどのような段階で)書かれたかによって、その主張や内容や傾向が違ってくるのは当然です。しかし、その文書が、いつ、どこで、誰によって書かれたかは分からないことが多く、内容から推定せざるをえないことが多くあります。内容から推定される成立事情に応じて、その文書の傾向や主張の特殊性が理解できます。以下の成立事情はそれぞれ互いに重なっていますが、便宜上、著者と地域と時期に分けて考察します。

著者の立場による多様性

 まず著者の立場の違いから、文書の性格や主張が違ってきます。立場の違いでもっとも基本的なものは、著者がユダヤ人であるか異邦人であるかの違いです。ユダヤ人であるというのは、ユダヤ教徒であるという意味であり、ユダヤ教という宗教の枠内で思考し生活している人ということです。異邦人というのは、ユダヤ教以外の宗教的伝統を背景としており、ユダヤ教の枠に拘束されていない立場の人ということです。
 著者の宗教的立場の違いから、文書の性格や主張が違ってきます。たとえば、ユダヤ教の枠内にいるヤコブやマタイが書いた文書は、ユダヤ教律法の順守を前提として、キリスト信仰を提示しています。これらの文書においては、キリストはまず何よりもイスラエルの民に約束されたメシヤであり、メシヤに所属する民はモーセ律法を完成する責任を負っています。それに対して、異邦のヘレニズム世界で異邦人によって書かれたと見られるコロサイ書やエフェソ書では、もはやユダヤ教律法は問題にならず、キリストはあくまでギリシア・ローマ世界の宇宙論的枠組みで語られており、キリストに属する者はその宇宙的・霊的キリストに満たされることが目標とされます。
 同じユダヤ人といっても、アラム語を用いているパレスチナのユダヤ人と、ギリシア語を用いているディアスポラ(離散)のユダヤ人では、その文化的背景の違いからユダヤ教との関わりにおいて違いがあります。新約聖書文書の著者の多くはユダヤ人ですが、この違いによって同じユダヤ人によって書かれた文書にも大きな違いが生まれてきています。
 たとえば、先に見たユダヤ教の立場で書かれたヤコブ書やマタイ福音書(マタイはギリシア語を用いるユダヤ人ですが、パレスチナの厳格派のユダヤ教学者です)と較べると、同じくユダヤ人ですが、ディアスポラのユダヤ人であるパウロが書いたものは決定的に違います。ユダヤ教律法の厳格な順守で「義人」と呼ばれるヤコブや、ユダヤ教律法学者のマタイがモーセ律法の順守を当然のこととしているのに対して、パウロは「律法の外で」の神の義を主張し、「キリストは律法の終わりとなった」と宣言します。
 もっとも、この違いはパウロがディアスポラ・ユダヤ人であるからではなく、主によって選ばれ、異邦人に福音を宣べ伝えるべく召されたことによる違いですが、しかしこのような召しは、パウロがディアスポラのユダヤ人でなければ起こりえなかったことであり、やはりユダヤ人の間での立場の違いが現れている場合と理解できます。
 同じくユダヤ人の著者によって書かれたものでも、成立の場所とか時期が、著者のユダヤ人としての立場以上に大きく文書の性格を決めている場合もあります。たとえば、ペトロ第一書簡はユダヤ人によって書かれたと推定されますが、その内容や性格は、その時代のローマや小アジアの異邦人信者の状況が大きく影響し、著者のユダヤ人としての立場はあまり表に出ていません。
 それに対して、成立したのは異邦人的な環境でありながら、ユダヤ人でなければ書けないような内容の文書もあります。たとえば、ヘブライ書はローマとの深いつながりの中で異邦世界で書かれたと推定されますが、キリストをユダヤ教祭儀の成就者として描いており、これはユダヤ教徒でなければ出てこない発想であり、書き方です。また、ヨハネ黙示録は、エフェソを中心とする小アジアの異邦人諸集会を対象として書かれていますが、あの強烈な黙示思想的描写は、ユダヤ教黙示文学に親しんできたパレスチナ・ユダヤ人しか書けません。これらの文書は、著者のユダヤ人としての立場を鮮烈に示しています。

成立の場の違いによる多様性

 ここで「成立の場」というのは、地理的な場所とか地域というだけでなく、福音告知の流れの質を含んでいます。初期の福音告知運動は、パレスチナとかシリアとかエーゲ海地域とかローマとかエジプトなどの各地域で進展しましたが、それぞれの地域での運動は、それぞれの地域固有の性格をもつ流れとして進展していきました。

パレスチナ・シリア

 まず、福音はエルサレムから始まり、周囲のユダヤからサマリアに及びます。また、ガリラヤもイエスの活動の舞台としてイエスの弟子たちが多くいたので、復活者イエスの使信は急速にガリラヤに広がったことでしょう。こうして、パレスチナが福音の展開の最初の舞台となります。パレスチナは、アラム語を話すユダヤ人の地域です。上流階級にはギリシア語を話すユダヤ人もいますが、民衆はアラム語を話すユダヤ人またはサマリア人であり、共にモーセ律法に従うユダヤ教徒とサマリア教徒の地域です。この地域で進展した信仰運動は、モーセ律法の枠内でイエスをメシヤと信じて、復活者イエスが「人の子」として来臨されるのを待ち望む黙示思想的なキリスト信仰です。 
 新約聖書の文書の中に、パレスチナで成立し、その信仰のユダヤ教的性格を純粋に示している文書はありません。エルサレムやパレスチナのキリスト信仰の系統に属するヤコブ書やユダ書にしても、それがギリシア語で書かれているという事実そのものが、ヘレニズム的環境で成立したことを示唆しており、純粋にパレスチナ成立の文書ということはできません。しかし、パレスチナはイエス伝承形成の場として重要です。パレスチナのユダヤ人によって担われ形成されたイエス伝承は、受難物語伝承や、イエスの語録伝承Qやたとえ集、奇跡物語伝承、黙示録的伝承(マルコ一三章)など、後の時代の福音書の形成に重要な役割を果たすことになります。
 パレスチナの北方にシリアがあります。アンティオキアを州都とするこの地域は、やはりアラム語を使うセム系の民が居住しています。アンティオキアや東方のエデッサなど大都市には多くのユダヤ人がいました。とくにユダヤ戦争の前後には、多くのユダヤ人が戦禍を逃れて移住して来ていました。福音は早くからこの地域に伝えられ、ペトロやパウロという代表的な使徒が活動していました。他にも多くの使徒たち(たとえばマタイやトマス)がシリアで活動したことが推察されます。すでにヘレニズム世界の大都市であったアンティオキアを州都とするシリアは、ギリシア文化とユダヤ教をはじめとする東方系の宗教とが複雑に混淆しており、この地域で福音は多様な発展を見せ、後にはグノーシス主義の発祥揺籃の地となります。
 パレスチナとシリアは、宗教史や伝承史の面では明確に区別できないので、一体として扱われるのが普通です。エルサレムとアンティオキアを二つの焦点とする楕円にたとえられるパレスチナ・シリア地域は、パレスチナ系の豊富なイエス伝承と、アンティオキアのヘレニズム的なキリスト告白が融合して、キリスト信仰の重要文書を多く生み出すことになります。
 その中で最も典型的な文書は、マタイ福音書です。この福音書を生み出した共同体は、パレスチナ・シリア地域で成立した「語録資料Q」を信仰の拠り所として奉じるユダヤ人の共同体であり、イエスを律法の成就者として宣言して、ファリサイ派以上の高度な律法順守を求める(マタイ五・一七〜二〇)など、ユダヤ教内のキリスト信仰の文書であることを示しています。しかし同時に、異邦人伝道に理解を持ち、積極的であったペトロを権威として成立したマルコ福音書を受け入れ、マルコ福音書の枠の中で、イエスをメシアとする自分たちの信仰を物語っています。しかも、それをギリシア語で物語っています。これは、マタイのユダヤ人共同体がユダヤ教の枠を出て、異邦世界に乗り出して行かざるをえない(エルサレム陥落以後の)状況を指し示していると考えられます。
 そのマルコ福音書ですが、四福音書の中で最初に成立したと見られるこの福音書は、成立の地域を特定することが困難です。伝統的には、ペトロの協力者であり通訳であったマルコが、ペトロが召された後ローマで書いたとされていますが、近年の研究者はユダヤ戦争の前後にシリアで成立したと見る人が多いようです。この福音書に関しては、成立の地域よりも、ペトロとの深いつながりと、一時期パウロの協力者でもあったという人的系統の方が、その性格を決める要素になっていると考えられます。書かれた場所がどこであれ、伝承の流れからするとマルコ福音書もパレスチナ・シリア地域に入れてよいと考えられ、マルコ・マタイの両福音書を一連のものとして、このパレスチナ・シリア地域の文書として扱ってよいでしょう。
 福音は、世界の各地に離散しているディアスポラのユダヤ人共同体を拠点にして、パレスチナ・シリア地域から当時の地中海世界に広く伝えられていきます。シリアから東に向かっては、エデッサなどパルティア王国の諸都市に伝えられます。この方面の伝道を担った使徒トマスはインドまで行ったと伝えられています。このトマス系の伝承から、イエスの語録を内容とする「トマス福音書」が生み出されています。この福音書では、トマスがイエスの双子の兄弟として、救いの秘義を受けた者であり、イエスの言葉の最も権威ある解釈者であるとされています。その内容は、同じイエスの語録集でも、(共通の語録もかなり含まれていますが)正典福音書に含まれる「語録資料Q」とは違っていて、かなりグノーシス主義に傾いています。シリアは、その他に「救い主の対話」など、後に「ナグ・ハマディ文書」に含まれるようになるグノーシス主義文書を多く生み出しています。

エジプト

 パレスチナからすぐ南にあるアフリカにも、ごく早い時期から福音が伝えられました。そのことは使徒言行録八章のエチオピアの高官の物語からもうかがえます。パレスチナの南に隣接するエジプトの州都アレクサンドリアは、当時地中海世界随一のヘレニズム文化の大都市であり、多くのユダヤ人が居住していて、エルサレムと密接な交流がありました。七十人訳ギリシア語聖書の成立や、ユダヤ人哲学者フィロンの活動に見られるように、アレクサンドリアはヘレニズム世界におけるユダヤ教の最重要拠点でした。エウセビオスの『教会史』は、マルコがエジプトに福音を伝え、アレクサンドリアの初代の司教になったと伝えていますが、この伝承は確認できません。ローマの場合と同じように、エルサレムとの密接な交流の中で、ごく初期から無名のユダヤ人信者たちによってアレクサンドリアに福音が伝えられていたと考えられます。
 アレクサンドリアには大規模で強力なユダヤ人共同体があり、そこに伝えられたキリスト信仰は、アレクサンドリアから徐々にエジプトの各地に浸透していきます。後にエジプトは、『ヘブル人福音書』など、ユダヤ教内キリスト信仰を示す多くの文書を生み出しています。また、エジプトで成立した「ヘルメス文書」に見られるように、もともとエジプトはグノーシス主義思想の盛んな土地柄です。そこにシリアからグノーシス主義的傾向の伝道者や文書が流入し、エジプトではグノーシス主義的なキリスト信仰が盛んになり、『エジプト人福音書』などのグノーシス主義文書が数多く生み出されます。これらのユダヤ教内キリスト信仰の文書や、グノーシス主義的な著作は、新約正典の形成過程で排除されたので、現在の新約聖書の中にはエジプトで成立したと見られる文書はありません。これらの排除された多くのグノーシス主義文書は、二〇世紀半ばになってナイル中流の砂漠に埋められた壺の中から発見されることになります(ナグ・ハマディ文書)。
 初期のキリスト教の形成に関しては、エジプト成立の多くの文書は重要な証言ですが、今回は新約聖書の文書に限定して考察したいので、エジプトについては、これだけにしておきます。

エーゲ海地域とローマ

 パレスチナ・シリアから発して急速に地中海世界に広まった福音の展開の中で、特に著しい進展を見せたのは、使徒パウロによって担われた西方への伝道活動です。パウロは回心後、十数年にわたってシリアのアンティオキアの集会で指導的な働きをしますが、五〇歳前後になって西方への独立の伝道活動を開始します。パウロの福音活動は、小アジアの南西部、エーゲ海東岸に面したアジア州、エーゲ海北岸のマケドニア州、さらにエーゲ海西岸のアカイア州に及びます。これらエーゲ海を取り囲む地域(以後これらの諸州を「エーゲ海地域」と呼びます)に、パウロとその一行(シラスやテモテやテトスら)の働きによって、キリストを信じる民の集会が形成されます。マケドニア州ではフィリピとテサロニケとベロアの集会、アカイア州ではコリントの集会、アジア州ではエフェソの集会を中心とし、コロサイなどエフェソ周辺の諸集会が形成され、パウロが去った後も活発に福音の活動を継続して進めます。
 パウロの福音によって形成されたこのエーゲ海地域の諸集会による福音活動は、その中から多くの文書を生み出し、新約聖書正典の中で多数を占めています。その中に、パウロ自身が書いたことが明らかな七書簡(ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書、テサロニケ書T、フィリピ書、フィレモン書)と、パウロの没後にパウロの名によって書かれた六書簡(テサロニケ書U、コロサイ書、エフェソ書、テモテ書TとU、テトス書)が含まれるのは当然です。しかし、後にパウロ書簡集としてまとめられることになるパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡の合わせて十三書簡)だけでなく、この地域は新約聖書の神学思想を形成する上で、きわめて重要な文書を生み出しています。
 エーゲ海地域の諸集会は、無割礼の福音を説いた異邦人への使徒パウロによって形成された集会ですから、ユダヤ人を含みながらも、大多数は異邦人(ギリシア人)信者であり、時と共に異邦人的性格が強くなっていきます。そのことはパウロ文書に明白に表れています。また、このエーゲ海地域はもともとギリシア文化の発祥揺籃の地であり、一世紀には政治的にはローマの属州となっていましたが、ギリシア文化の中心地であることは変わりませんでした。このような地域に成立し成長したキリストの民の共同体が生み出した文書が、ギリシア思想の影響を強く受けていることも当然です。もともとユダヤ教の中から生まれたキリストの福音が、ギリシア化されて当時のヘレニズム世界の信仰として成立していく過程は、この地域でもっとも典型的に見られることになります。
 この地域で、一世紀末に成立したと見られる福音書に、「ルカ福音書」があります。ルカ福音書は単独ではなく、使徒言行録と一連の著作として成立しました。ルカはこの二部作全体で、彼の時代にキリストの福音を提示していますので、広い意味ではこの二部作全体を「ルカによる福音書」と呼ぶべきでしょう。ルカは第一部の福音書を書くにあたって、マタイ福音書と同じくマルコ福音書を枠組みとして用い、同じイエスの語録集Qを使っていますが、マタイがユダヤ人に向かって書いているのに対して、ルカは異邦人に向かって書いています。そのため、マタイ福音書とは違う面が出てきています。ルカの二部作は、ヘレニズム世界に対する典型的な福音書となります。

ルカの二部作の成立の事情と特色や意義については、本書の下巻になる『福音の史的展開U』の第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」を参照してください。そこに詳しく書きましたので、ここではルカの二部作がこの地域の信仰を最終段階でまとめる著作として出現したことを指摘するにとどめます。

 このエーゲ海地域で成立したと見られる福音書がもう一つあります。ヨハネ福音書です。エイレナイオスに至る二世紀の教父たちの証言は圧倒的に、ヨハネ福音書の成立地としてエフェソを指し示しています。しかし、この福音書を生み出した共同体には、複雑な前史がありますので、この福音書を単純にエーゲ海地域所産の福音書とすることはできません。
 多くの研究者(とくにドイツの研究者)は、「ヨハネ福音書は、シリアに位置づけられるべき特殊な伝承の所産である」(ケスター)として、その成立地をパレスチナ・シリアのどこかに求めています。たしかに用いている伝承はパレスチナ・シリアのものですが、この事実はこの共同体が初期にはパレスチナ・シリア地域で活動してことを指し示しているだけで、その共同体が後期にはエフェソに移って、そこで福音書を成立させたことを否定する根拠にはなりません。イエスの弟子の一人(福音書の中で「イエスが愛された弟子」として登場する年若い弟子)が、その長い生涯のどこかで、パレスチナ・シリア地域からエフェソに移住して、エフェソ周辺に独特の共同体を形成し、そこでそれまでの伝承や説教がまとめられてヨハネ福音書が成立したと見るのが、もっとも自然な理解であろうと考えられます。それで、ヨハネ福音書は(おそらく一世紀末という遅い時期の)エーゲ海地域の福音理解の証言の一つと数えてもよいと考えられます。

ヨハネ共同体がエフェソに移住した時期については60年代から90年代まで諸説がありますが、ヘンゲルが推定しているように、ユダヤ戦争前の60年代前半ではないかと考えられます。ヨハネ福音書の成立については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』の附論『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』で詳しく見ましたので、それを参照してください。

 この地域で成立した重要な文書で、複雑な前史があることが想定されるものに、もう一つヨハネ黙示録があります。ヨハネ黙示録はエフェソ沖合のパトモス島で書かれ、エフェソ周辺のアジア州七つの集会に宛てられています。この黙示録がこの地域で成立し流布していたことは確実です。しかし、先にも指摘したように、このような強烈な黙示思想はパレスチナ起源であることを指し示しています。おそらく本書はパレスチナの黙示思想的な預言者集団が、ユダヤ戦争時のエルサレム攻防戦の悲惨な体験をした後、この地域に移住してきていて、ローマ帝国からの迫害の時代に(おそらくドミティアヌス帝の時代)、この預言者集団の指導者であるヨハネがパトモスに流刑になり、そこでこの黙示録を書いたと推定されます。それで、成立地はこのエーゲ海地域になりますが、伝承史的また思想的には、本書はパレスチナの黙示思想的なキリスト信仰の流れに属する文書としなければなりません。

ヨハネ黙示録の成立事情については、ヨハネ黙示録を扱った、拙著『パウロ以後のキリストの福音』第四章「来臨待望と黙示思想」を参照してください。この預言者集団がエルサレム攻防戦を体験した痕跡については、同書188頁の注記を参照してください。

 なおローマは、地理的にはエーゲ海地域には入りませんが、この地域との密接な交流から、新約聖書文書の成立史においてはこの地域の一部として扱うのが適切であると考えられます。ローマは帝国の首都として、帝国各地との交流が深く、とくにエーゲ海地域とは密接な交流があり、人の往来もきわめて頻繁でした。ローマにはユダヤ人も多数在住し、エルサレムを始め地中海世界のユダヤ人共同体と密接な接触をもっていました。そのような交流を通して、キリストの福音はかなり初期からローマのユダヤ人たちに伝えられていました。おそらくエーゲ海地域のユダヤ人信者によって、パウロ的な律法から自由なキリスト信仰が伝えられていたのではないかと推察されます。その結果、ユダヤ教会堂において律法をめぐる争いが起こり、不穏な情勢になったので、クラウディウス帝は49年にローマからすべてのユダヤ人を追放しています。
 クラウディウス帝の死によって追放令は解かれ(54年)、ユダヤ人たちはローマに戻ってきます。しかし、それまでに周囲の異邦人市民にも信者が増え、おそらくエーゲ海地域からの異邦人信者の来住もあり、パウロが56年にローマ書を書き送ったときには、ローマにはユダヤ人も異邦人も含む諸集会が活動していて、パウロはユダヤ人にも異邦人にも多くの同志の名をあげることができました(ローマ書一六章)。その後パウロは囚人としてローマに護送され、二年わたってローマの信者たちと接触し、福音を語ります。ローマにはペトロも来て伝道したと伝えられています。その結果、ローマにはパウロに近い人たちやペトロに近い人たちのグループ、またプリスキラ・アキラ夫妻の集会など、複数の集会が活動し、その中からキリスト信仰を証言する文書が生み出されることになります。
 ローマのキリスト者と集会は、帝国の首都にあるという立場からか、各地(とくに交流が密接なエーゲ海地域)の兄弟たちの状況に敏感で、各地の集会の問題に対応するために励ましや勧告の手紙を書き送っています。その典型は、95年にローマのクレメンスがコリントの集会に、集会内の争いに信仰をもって対処するように書き送った勧告の手紙(第一クレメンス書)です。迫害下にある小アジアの諸集会に、ペトロの名によって励ましの手紙を書いたペトロ第一書簡も、ローマのペトログループから出ていると見られます。同じくペトロの名をもって来臨待望の弛緩を警告するペトロ第二書簡も、ローマ成立と見られます。ヘブライ書は、ローマと深い関係がある人物によって書かれたと見られます(ヘブライ一三・二四)。ローマのクレメンスもこの書簡をよく知っており、直接間接に引用しています。
 帝国の首都として多くの指導的人物の来住・活躍があり、二世紀以降ローマはキリスト教関連の多くの文書を生み出すことになりますが、ここでは新約聖書正典の文書に限るため、これだけにしておきます。
 このように、エーゲ海地域は(ローマと併せて)新約聖書の大部分の文書を生み出した地域であり、新約聖書の時代とその後の福音の展開にとって、もっとも重要な地域となります。

地域別による多様性については、H・ケスター『新しい新約聖書概説・下 ― 初期キリスト教の歴史と文献』(永田竹司訳・新地書房)を参照してください。ケスターは、新約聖書正典に含まれる文書だけでなく、それ以外の外典まで広く含めて、初期のキリスト教文書を、1 パレスチナ・シリア、2 エジプト、3 小アジア・ギリシア・ローマ の三つの地域に分けて、それぞれの地域の特色を描き出しています。

成立時期による多様性

 新約聖書の各文書は、その成立の時期によってもその性格と内容が違ってきています。新約聖書の各文書が生み出された時期は、30年の福音告知の開始から二世紀初頭のほぼ一世紀ほどの期間になりますが、この期間はユダヤ戦争のクライマックスをなす70年のエルサレム陥落によって、その前の時期(以下「前期」と略記)とその後の時期(以下「後期」と略記)に二分されます。
 エルサレム陥落・神殿崩壊以前の時期には、ペトロを初めとするイエスの直弟子たちと、イエスの兄弟ヤコブが指導するエルサレム共同体が運動の中核を担っていました。エルサレム共同体は、指導層も成員もパレスチナのアラム語系のユダヤ人であり、ユダヤ教内キリスト信仰の共同体でした。ごく初期からギリシア語系のユダヤ人《ヘレーニスタイ》の活動により福音は異邦人にも伝えられ、アンティオキアには異邦人を含む共同体が成立していましたが、(エルサレム会議に見られるように)エルサレム共同体の指導的地位は変わりませんでした。無割礼の福音(ユダヤ教の外のキリスト信仰)を唱えて、広くヘレニズム世界に福音を伝えたパウロも、エルサレム共同体との一体性を維持する努力を怠りませんでした。
 ところが、ユダヤ戦争の直前に、主の兄弟ヤコブが殺害され、エルサレム共同体は戦禍を逃れてエルサレムから脱出し、辺境のペレヤに移ります。エルサレム陥落と神殿崩壊を境目にして、ユダヤ人のエルサレム共同体は福音運動の中核としての地位を失い、その影響力は急速になくなっていきます。また、この時期は使徒たちが世を去り、世代交代の時期となります。ペトロとパウロは60年代前半に殉教し、他の使徒たちも世を去る時期となります。この前期の指導層をなした使徒たちはすべてユダヤ人でしたが、後期になると使徒の後継者たちの時代となり、異邦人指導者が増えてきます。このような状況の変化は、それぞれの時期に成立した文書に反映されて、その内容や性格が違ってくることになります。
 パレスチナ・シリア地域では、成立時期の違いによる変化はあまり明確ではありません。それは、この地域で前期に成立したことが明確な新約聖書文書が少ないからです。この地域で形成されたイエス伝承の中で一部文書になったものがあったようです。イエスの語録を伝えた語録集は、ユダヤ戦争の前後にはギリシア語で書かれた文書となっていたようです。これは仮説上の文書ですが、「語録資料Q」と呼ばれ、マタイとルカが共通の資料として用いたとされています。この「語録資料Q」は、この地域の前期の信仰運動の終末的な性格をよく示しています。
 ヤコブ書は、ユダヤ教内キリスト信仰に立つエルサレム共同体の伝統を示しているとされ、「語録資料Q」と共通の語録を多く含むなど、前期の特色を示していますが、その成立の時期を確認することは困難です。後期になってからの成立の可能性も高いようです。ユダ書は、前期におけるパレスチナの黙示思想を色濃く反映していますが、これも前期の成立は可能性にとどまります。
 マルコ福音書がこの地域の成立とすると、成立時期はユダヤ戦争の直前または直後と考えられるので、この地域の前期の伝承を要約する位置にある福音書として見ることができます。先に見たように、この福音書の実際の成立地がどこであろうと、ペトロの伝承を引き継ぐ福音書ですから、この地域の前期に属する文書として、後期の文書との比較対象としてよいでしょう。
 この地域で成立時期が確かなのは、後期に成立したことが確実なマタイ福音書です。この福音書は後期の状況をよく反映し、その時期の特色を示しています。たとえば、「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」という(前期に形成された)語録資料のイエスの言葉を忠実に保存して(マタイ一〇・五〜六)、著者とその共同体がもともとユダヤ教内の運動であることを示しています。しかし同時に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という復活者イエスの命令を最後に置いています(マタイ二八・一九)。これは、この福音書が成立した後期においては、ユダヤ人信者の共同体であるマタイの共同体は、ユダヤ教共同体(会堂)から出て、厳しい対立(むしろ敵対的な断絶)状態にあり、異邦人世界に出て行かざるをえない状況にあったことを示しています。このような状況を反映して、マタイ福音書のイエスはイスラエルから退去される姿で描かれます(マタイ一二・一五など多数)。また、ユダヤ教会堂に対する非難と攻撃は、容赦のない激烈なものになっています(マタイ二三章)。

この時期(後期)にユダヤ教会堂がイエスを信じるユダヤ人に対して取った追放などの厳しい態度については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』357頁の「会堂からの追放決議」の項を参照してください。

 成立時期の違いによって内容と傾向が違うようになっていることがよく分かるのは、エーゲ海地域(ローマを含む)で成立した諸文書です。この地域では、前期には使徒パウロ真筆の七書簡があり、それがこの時期のキリスト信仰の質をよく証言しています。後期になると、パウロの後継者がパウロの名によって書いた六書簡(パウロ名書簡)があり、前期のパウロ書簡との比較によって違いがはっきりしてきます。たとえば、前期のパウロ書簡では、ユダヤ教律法との関係が大問題となっており、律法の行為ではなくキリストの信仰によって義とされるという主張が大きな部分を占めていました。ところが後期では、もはやユダヤ教律法との関係は問題でなくなり、パウロ名文書には律法という用語さえほとんど出てこなくなります。また、ユダヤ教徒として聖書の救済史的枠組みで思考しているパウロにおいては、復活はあくまでキリスト来臨という終末時に起こる将来の出来事でしたが、後期のコロサイ書やエフェソ書になると、救済史的な枠組みではなく宇宙論的枠組みでキリストが語られるようになり、キリストの来臨は語られなくなり、復活も過去形で語られるようになります。
 ルカの福音理解(神学思想)がパウロと違っていることが、よく問題になります。しかし、違うのは当然です。ルカの二部作は二世紀初頭に成立したと見られ、後期の福音の展開をまとめる位置にあります。マルコ福音書や「語録資料Q」などを受け入れて、前期の諸伝承を継承していますが、その神学思想は後期のものです。前期のパウロとは違ってくるのは当然です。
 この地域で後期に成立したヨハネ福音書も、前期のパレスチナ・シリアの伝承を継承しつつも、その基本的な思考の枠組みは、この地域の後期の諸文書と共通しているものがあります。また、ユダヤ教会堂との対立が決定的になったこの時期の状況をよく反映しています。
 前期から後期への進展は、大枠で見ますと、福音がユダヤ教の枠から出て、いよいよギリシア化されて、ヘレニズム世界の宗教になっていく過程であると言えます。

このパウロとパウロ以後のキリスト信仰の違いについて詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の終章「パウロとパウロ以後」を参照してください。