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補論2 「処女降誕」信仰について

誕生物語の告知としての処女降誕

 マタイとルカの両誕生物語は、その物語の筋は全く違っていて、とうてい一つにまとめることはできませんが、「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という基本的な事実では一致し、また処女であるマリアからお生まれになったという告知で一致しています。この処女が懐胎して出産したという福音書の告知は、現代の科学的世界観に合わないとして、多くの人が福音書を虚構の物語として拒否する理由になっています。あるいは、誕生物語を福音書の中に保持しようとする人たちは、これを神話論で説明し去ろうとします。たしかに、処女が懐胎するということは、わたしたちの日常の体験ではないことです。しかし、日常の体験にないということは、それが絶対に無いことの科学的証明にはなりません。かえって現代の科学の進歩は、今まで日常生活の常識ではありえなかったことの存在を見せてくれています。たしかに、現代の科学は処女懐胎がありうることを証明してはいません。しかし、現代の生命科学の進歩は、それがありうることを予感させます。
 処女懐胎は科学の問題ではなく、信仰の問題です。前項で見たように、誕生物語は復活物語の変奏です。神がイエスを死人の中から復活させたと信じている人々の共同体で、イエスの誕生がその神の働きによる出来事として賛美され、物語られているのです。死人を復活させた神が、どうして処女を懐胎させることはできないとすることができるでしょうか。「神にできないことは何一つない」のです。イエスの復活を否定する人は、当然処女懐胎を否定します。イエスの復活を信じる人は、その復活信仰の一部として、あるいは復活物語の変奏として、誕生物語の処女懐胎を信じます。
 復活信仰が先にあって、その帰結の一つとして処女降誕の信仰が来ます。順序は逆でありません。そのことは、先に前項の「最初期の福音活動における誕生物語の位置」で述べたように、イエスの復活を信じて信仰に入った信仰者も、最初期の前期にはイエスを普通の誕生の人と考えていたのであり、その人たちにも聖霊は豊かに注がれ働いていたという事実が示しています。後期になっても、マタイ福音書とルカ福音書の処女降誕の告知に接していない多くの人たちも同様です。
 マリアは最初期のエルサレム共同体に加わっています(使徒一・一四)。マリアの問題は後で項を改めて扱いますが、エルサレム共同体での生活の中でマリアはイエスの出生にかかわる秘密を漏らし始めたのではないかと推測されます。ヨセフと婚約していたマリアが、ヨセフの家に入って正式に結婚生活に入る前に懐胎していて世間から疑いの目で見られていて、ヨセフがマリアを受け入れることをためらったことがマタイ福音書(一・一八〜二一)に伝えられています。聖霊によって懐妊したなどと言っても誰が信じてくれるでしょうか。周囲のユダヤ人が疑っていたことは、彼らがイエスのことを「彼はマリアの子ではないか」(マルコ六・三)と言っていたことにも示唆されています。ユダヤ教社会では(父親が亡くなっていても)父親の名で「誰それの子」と呼ぶのが普通であり、「マリアの子」という呼び方は父親が分からない私生児とする蔑称だとされています。マリアは世間の疑いと白眼視にじっと耐えて、イエス出生の秘密を胸に秘めて暮らしたと見られます。
 そのマリアが、イエスを復活者キリストと信じる共同体で、イエス出生時に体験した不思議な体験を語り始め、それが素材となって、イエスの復活を信じ賛美する共同体で語り伝えられ、(先に見たように)伝承の担い手たちと、著者のマタイやルカの状況や聖書信仰によって編集・構成され、現在の誕生物語が成立するに至ったものと見られます。成立に至るまでの伝承の過程や時期は、もはや確定することはできません。

キリスト教成立過程における誕生物語の位置

 福音運動のかなり後期に至って、マタイ(おそらく一世紀末)とルカ(おそらく二世紀初頭)の誕生物語が成立し、処女降誕の信仰が徐々にキリスト信仰共同体の中に浸透していきます。こうして処女降誕の信仰は二世紀に入って共同体に浸透するのですが、その二世紀初頭から三世紀初頭までの百年は、福音によって召し集められた信仰共同体が制度的な「キリスト教会」となり、キリストの福音がローマ社会に新しい一つの「宗教」(レリギオ)としての「キリスト教」をもたらすことになる世紀となりました。その間の消息については、別著『福音の史的展開U』の「終章 キリストの福音からキリスト教へ」でやや詳しく論じましたので、それを見ていただくことにして、ここでは処女降誕信仰の問題に限定して見ておきます。以下の論述は、用語においても内容においても、そこでの記述を前提しています。
 この「キリストの福音」が「キリスト教」という「宗教」に変容していく過程は、共同体が内部の「グノーシス主義」との激しい論争の過程を経て「正統主義」を確立し、「カトリック教会」となっていく過程でした。「グノーシス主義」というのは、当時のヘレニズム世界に浸透し始めていたグノーシス思想によってキリスト信仰を解釈して表現したキリスト教です。グノーシス思想は、《コスモス》(世界、全存在界)を善と美の源泉とする本流のギリシア思想に反抗して、《コスモス》を悪として、《コスモス》を超えることによる救済を説く思想です。このようなグノーシス思想によって信仰を解釈した人たち(主に知識階級の人たち)は、使徒たちが告知した福音の内容を初歩的なものとし、それを超える深い《グノーシス》(知識、洞察)で魂が救われると説きました。その主張に、使徒たちから伝えられた福音の伝統が危機にさらされていると感じた共同体の指導者たちが、その主張を異端であると攻撃して激しく論争します。そのような使徒的伝承の継承を主張する派が大勢を制し、「正統派」となります。そして、この正統信仰を言い表す正統派教会が「カトリック教会」として、キリスト教をローマ世界に確立することになります。
 このグノーシス主義との論争を経て、(おそらく二世紀末に)正統派の信仰が「信条」としてまとめられます。それが、後の「使徒信条」と呼ばれるキリスト教の基礎信条の前身となる「ローマ信条」です。その御子キリストについての条項に「おとめマリアから生まれ」という文言が入ってきます。これは、正統派が権威ある啓示の書であるとした四福音書の二つ、それも重視されて第一の位置に置かれたマタイ福音書と、グノーシス主義者として最も強く非難されたマルキオンに対抗して書かれたルカ福音書の両方が告知する処女降誕の信仰が、信条として公式に内外に言い表され、カトリック教会の信仰内容になったことを意味します。
 先に見たように、最初期前期の福音告知には、処女降誕の告知は含まれていませんでした。後期においても、その末期にマタイとルカの両福音書が成立し、その福音書に接した一部の人が処女降誕の告知を聞いただけですから、最初期(最初のほぼ百年間)は、ほとんどの信仰者はイエスの誕生の次第については知りませんでした。それでも、この最初期こそすべての信仰者に最も強く聖霊の働きが見られ、福音が最も力強く進展したのでした。
 この事実から、誤解を恐れず端的に言うと、「処女降誕の信仰は福音に属さず、キリスト教に属することである」と言うことができると思います。こう言うと、「では、使徒信条の永遠の命を信ずとか、聖なる公同の教会を信ず、というのも福音に属するものでないと言うのか」という反論が出るかもしれません。それについては、それらの用語の福音(新約聖書)における用法と、信条における方法の違いを含めて、多くの議論が必要になります。それについては、拙著『福音の史的展開』全体がお答えしていると思います。ここでは、処女降誕信仰の位置づけに限定して、本書の立場を述べておきます。
 この「補論(1、2)」で見たように、処女降誕とか受肉の信仰は復活信仰を逆方向に言い表した変奏であり、復活信仰共同体においても初めて成立する信仰です。これを共同体外部の人たちに、これがキリスト教だと押しつけることは、彼らを反発させるだけです。キリストの福音に生きる共同体は、外の世界に向かっては「キリストの福音」を告知することが使命です。イエスが復活によってキリストまた主《キュリオス》として立てられたこと、この主イエス・キリストを信じて受け入れる者は、その贖罪の十字架の死によって罪の支配から解放され、神の霊である聖霊が与えられ、生まれながらの命とは違う別種の命に生きるようになることを告知すればよいのです。この福音を信じる者たちの共同体の内部において、復活物語のバリエイションである誕生物語を聞き、キリストの降誕を神に感謝し、それによって神を賛美すればよいのです。この誕生物語の位置づけを見誤ってはなりません。

現ローマ教皇ベネディクト一六世であるJ・ラツィンガーは、近年上下二巻からなる「ナザレのイエス」を刊行しました。第一巻(二〇〇六年刊行)はヨルダン川におけるイエスの洗礼からペトロの告白とイエスの変容までを扱っています。その序言で、ラツィンガーは「第二巻においてイエスの幼児期の物語を扱うことができればと思っております」と書いていましたが、刊行された第二巻(二〇一一年刊行)はエルサレム入京から復活までを扱っており、誕生物語は触れられていません。そのことについてラツィンガーは序言(英訳版)の最後でこう述べています。「ここで述べたように、イエスの姿、言葉、行動を理解しようとする本書の基本にある意図からすれば、幼児期物語は直接に本書の視野に入らないものであることは明らかです。しかしながら、第一巻の序言でした約束を果たすために、この主題についてのささやかな論稿を用意するつもりでいます。もしそれをする力が与えられるならばですが」と書いています。この『ルカ福音書講解』で、わたしはラツィンガーのこの著作から多くの示唆を受け、参考にさせてもらいました。しかし、誕生物語については、彼の「この主題ついての論稿」がまだ発表されていませんので、参考にすることができませんでした。ラツィンガーはその著作について、教皇としての教導権の行使ではなく、個人の著作であることを強調して、自由に批判するように呼びかけています。しかし、現教皇の著作ですから、現在のローマカトリック教会の見解を代表するものと見ることはできるので、期待して待っていましたが、二〇一二年現在刊行はまだです。
 たしかに、イエスの姿、言葉、行動を理解し、そのイエスを世に提示しようとする意図からすれば、誕生物語は「直接の視野に入らない」のは、その通りであり、マルコ福音書やヨハネ福音書がしているように、洗礼者ヨハネの活動から始めるのは正当です。しかし、本書はルカ福音書を講解しているのですから、その中の初めの二章を省略することはできません。ただ、それは復活に至るイエスの全生涯を読んだ後に味わい読むべき部分として、最後に置いた次第です。

新約聖書におけるマリア

 ここでルカの誕生物語の主役であるマリアに関わる問題を取り上げておきます。イエスの母となったマリアは、使徒信条に「おとめマリアから生まれ」と名があげられて以来、その後のキリスト教史に巨大な影響を与えて来ました。
 すでに古代教会において、イエスの神性と人性をめぐる激しい論争の余波がマリアに及び、神であるイエスを生んだのであるから「神の母」と呼ぶべきであるという主張に対して、人でもあるキリストの母であるから「キリストの母」と呼ぶべきだとしたネストリウスが異端として追放されるなど、マリアについても教理論争が起こりました。その後、中世の教会ではマリアが「神の母」として崇められ、教会堂にマリアの画像や像が満ちるようになり、マリアに向かって祈りがささげられるようになります。東方のギリシア正教会ではマリアのイコン(聖画)が崇められ、西方のローマカトリック教会では祭壇に幼児のキリストを抱いたマリア像が安置されます。東方ギリシア正教会では、偶像礼拝になるとしてイコンを破棄すべしという「イコノクラスム」(聖像破壊)の運動が起こり、教会が激震に襲われますが、結局イコン容認派が勝利して現在に至っています。カトリック教会は、今も教会堂に入ると、これはキリスト教ではなくマリア教の教会かと思わせるような様子です。さすがに宗教改革の流れを汲む諸教会には、このような聖画や聖像はありませんが、それでも音楽には「アベ・マリア」などマリアを賛美する気風は残っており、マリア崇拝は現在に至るまでキリスト教の敬虔の一つの形として続いています。
 このキリスト教におけるマリア崇拝の歴史は、宗教史的に見て極めて興味深い現象ですが、ここではそれに立ち入ることはできません。ここでは新約聖書においてマリアがどう描かれているかをみて、マリアに対するキリスト者の姿勢を考える参考にしたいと思います。
 誕生物語におけるマリア、とくにマタイの誕生物語とルカの誕生物語における違ったマリアの姿については、すでにこの講解で述べました。ここではイエスがガリラヤで「神の支配」を告知する公の活動をされた時期のマリアの姿を見ましょう。
 一般にこの時期のマリアとイエスの兄弟たちは、イエスの使命と活動を理解することができず、イエスの福音活動を止めようとしたと理解されています。この通説とも言える理解は、おもにマルコ福音書の三章二一節と三一節の解釈に基づいています。原文二一節の「彼と一緒にいる者たち」という句が、三一節の「イエスの母と兄弟たち」と理由なく結びつけられて、「身内の人たち」と訳されています。この「彼と一緒にいる者たち」という句は、イエスがいつも一緒におらせるために選ばれた弟子たちを指すと理解すべきで、ここは「共にいる者たちはイエスを引き止めようとした」と訳すべきです。むしろ、ヨハネ福音書二章一二節に基づいて、母マリアと兄弟たちは弟子たちと一緒に、イエスのガリラヤ巡回伝道に同行したと見るべきです。ということは、マリアはイエスの活動に無理解で批判的であったのではなく、わが子イエスの特別な使命をある程度予感していたのではないかと考えられます。もっともその理解や期待は、弟子たちのそれと同じく、ユダヤ教のメシア待望の枠内のことでしょうが。
 マリアがある程度イエスの使命を理解して巡回伝道活動に同行したことは、イエスの最後の過越祭でのエルサレム行きに同行している事実(ヨハネ一九・二五〜二七)と、イエスの復活後弟子たちと一緒にエルサレムに移住して、来臨される「人の子」を待ち望む共同体に加わっているという事実(使徒一・一四)からも推察されます。

マリアがイエスの巡回伝道に同行したことについては、拙著『ルカ福音書講解T』366頁の「巡回伝道に同行する母と兄弟」の項、とくに367頁の注記を参照してください。イエスの兄弟がイエスに批判的であったことのもう一つの論拠とされるヨハネ七・五についても、この注記をごらんください。

 このように、イエスの使命をある程度理解あるいは予感して、イエスの巡回伝道に同行する母マリアに対して、イエスはどのような態度をとられたのでしょうか。最初に出てくるのがカナの婚宴です。婚宴の途中でぶどう酒がなくなったことを知ったマリアは、そのことをイエスに知らせます。そのマリアにイエスは、「婦人よ、それがあなたとわたしに何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」とお答えになった、と伝えられています(ヨハネ二・四)。このお言葉は、イエスが「わたしの時」と呼ばれる、神から委ねられた使命を全うされる時に思いを集中しておられて、地上の人間的な繋がりを超えておられることを示しています。その思いが、「婦人よ」という呼びかけに表れています。それでもマリアは、途方に暮れている世話役に、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っています。これは、マリアがイエスを、神から与えられた特別の使命にふさわしい特別の力を与えられている者と信じていることを示しています。事実、イエスはこの時水をぶどう酒に変えて、ご自身が神から来た者であることを指し示す「しるし」を行い、その栄光を顕されます。
 共観福音書では、イエスが福音を説いておられるところに来た母マリアと兄弟が群衆に遮られて近づけなかったとき、母と兄弟の来訪を告げた人にイエスが、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(八・二一)とお答えになった、と伝えられています。この記事は三つの共観福音書のすべてにありますが、マルコ(三・三四)では「周りに座っている人々を見回して」、マタイでは「弟子たちの方を指して」、こう言われたとなっています。すなわち、「神の言葉を聞いて行う人」というのは、福音を聞いてそれに身を委ねて生きる人、イエスの弟子たちのことを指しています。この記事も、イエスを信じて生きる者たちの共同体は、地上の肉親の絆を超える別次元のものであることを指し示しています。

この記事には母と兄弟がイエスを「取り押さえに来た」という説明はなく、この記事はむしろ母と兄弟がイエスの福音活動の場に居合わせた、すなわち同行していたことの根拠となります。

 もう一つ、マリアに関する記事が福音書にあります。イエスが群衆に福音を語っておられたとき、ある女が「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と声高らかに言ったのに対して、イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とお答えになったという記事です。これはルカ福音書(一一・二七〜二八)だけにあるルカの特殊記事であり、女性に優しいルカらしい記事です。たしかに、イエスの地上の働きの時期にこのような出来事があったのでしょう。しかし、ルカがこの記事を福音書の中に置いたのは、当時共同体の中に行われるようになっていたマリアの特別扱いを戒める意図もあったのではないかと推察されます。すなわち、マリアは最初期のエルサレム共同体に加わっていますが(使徒一・一四)、神の子と信じ崇めるイエスの生母として、マリアを特別扱いすることは避けられなかったと推察されます。とくに「主の兄弟ヤコブ」、すなわちマリアの息子の一人がエルサレム共同体を指導する立場になってからは、マリアも共同体の中枢部にいたと推察されます。このようにイエスとの肉親関係が重視される傾向に対して、パウロ系のルカはそれに対する歯止めの必要を感じたのではないかと思われます。
 福音書でイエスの母マリアが言及されるのは、十字架上のイエスが愛弟子ヨハネに母を委ねられたという記事(ヨハネ一九・二六〜二七)が最後です。ところが、共観福音書では十字架の場面に出てくる女性たちの中に母マリアの姿はありません。だいたい福音書に母のマリアの名が出てくるのは、誕生物語を別にすれば、「あれはマリアの子ではないか」という箇所だけで、他ではすべて「母」という呼び方で言及されています。その母として言及されるのも以上に見たような僅かの事例で、福音は肉親関係とは無関係であることを語るものだけで、母マリアが最初期の福音告知において重要な関心事ではなかったことを示唆しています。

十字架の前にいた女性については、拙著 『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解U』197頁の「イエスの母と愛弟子」の項を参照してください。その項で述べたように、イエスの生母マリアを委ねられた愛弟子ヨハネは、ユダヤ戦争の災禍を避けてエフェソに移住したと考えられますが、そのさいマリアを伴って行き、マリアは晩年をエフェソで過ごし、エフェソで没したと考えられます。それらの出来事の年代については、同書の299頁「エフェソへの移住」の項、とくに同じ頁の注記を参照してください。

 このように新約聖書に基づいてマリアを理解するかぎり、その後のキリスト教史における「マリア崇拝」は異常と言わざるをえません。たしかに、マリアはイエスの生母として敬愛すべき女性です。誕生物語を復活物語の変奏として聞くとき、救い主イエスの生母となるように選ばれたマリアに対して、天使とともに「めでたし、恵まれた女性よ」と挨拶し、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と聖霊が預言したように、わたしたちは「アベ・マリア」を歌うでしょう。また、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と御言葉にひれ伏したマリアを、信徒の範として仰ぐでしょう。しかし、マリアを教理で「神の母」とし、その像を祭壇に置き、マリアに祈りを捧げること、さらにマリアだけは原罪を免れていたとか、生涯無垢の処女であり、死の床から直接昇天したことなどを教義として強制し、それと違った信仰を言い表す者を異端として追放するようなことは、あってはならないことです。先に述べたように、処女降誕を主要な告知とする誕生物語は、福音に属する項目ではなく、「キリスト教」に属する事柄です。わたしたちキリストの福音に生きる者は、福音によって「キリスト教」を相対化し、「キリスト教」が形成した「マリア崇拝」を克服していかなければならないと思います。

福音による「キリスト教」の相対化の問題は、拙著『福音の史的展開U』の「終章・キリストの福音からキリスト教へ」を参照してください。

【追記】

 本講「第二三章 ルカの誕生物語」をもって「ルカ福音書講解」のすべてを完了します。これまで福音書の講解においては、その福音書全体の講解が終わった後に、その福音書の使信と特色、位置、意義などを要約する項を置いていましたが、ルカ福音書についてはさきに刊行した『福音の史的展開U』の第八章第二節の「諸国民への救いの福音 ― ルカ福音書」においてそれをしていますので、それを参照してくださるようにお願いします。