市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第57講

12 神殿での少年イエス(2章41〜52節)

 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭の慣習に従って都に上った。(二・四一〜四二)

 律法に忠実なユダヤ教徒として、ヨセフとマリアは毎年神殿で神を礼拝するためにエルサレムに上ります。律法には、ユダヤ人の成年男子は年に三度エルサレムに上って過越祭(=除酵祭)、七週祭、仮庵祭に参加しなければならない、とあります(申命記一六・一〜七)。女性の巡礼は義務づけられていませんが、ヨセフはマリアを伴って都に上ります。この記事には、毎年連れだって神殿に詣でたサムエルの両親の記事の影響があるのかもしれません(サムエル記上一章)。二人は他の祭りにもエルサレムへの巡礼をしたのでしょうが、ここで特に過越祭のために上ったとされているのは、このエピソードをイエスの受難と復活の物語への橋渡しとして置いているルカの著述意図(後述)から出ていると見られます。
 子供には巡礼の義務はありませんが、男子は十三歳の誕生日に成人式の儀式を受け、一人前のユダヤ教徒として律法のすべてを順守する義務を負います。従って巡礼にも参加しなければなりません。両親が「イエスが(十三歳ではなく)十二歳になったとき」に巡礼の旅に伴ったことについては、様々な説明がされています。翌年から始まる巡礼への準備として連れて行ったとか、当時の偉人伝が少年時代を語るとき十二歳のときのことをよく扱っていたから、というような説明が行われています。新共同訳は「十二歳になったときも」と訳して、両親がそれまでもずっとイエスを連れて巡礼したことを示唆して、この問題を避けています。日本語訳はみな「も」を入れていますが(文語訳、塚本訳、岩波版は入れていません)、主要な外国語訳で入れているものはありません。四二節文頭の《カイ》は、「もまた」ではなく、「そして」と素直に読むべきでしょう。

シュタウファーはイエスの誕生を前七年とし、後六年のキリニウスの人口調査のときは十二歳になっておられたことから、この時のエルサレムは祭りと人口登録が重なって極度の混雑にあり、大勢の巡礼者集団の中で、両親がイエスを見失ったとしています。

 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。(二・四三〜四五)

 過越祭はそれに続く除酵祭と合わせて祝われ、一週間続きました。巡礼者がエルサレムにいなければならないと律法が命じているのは、初めの二日間の過越祭ですが、敬虔なユダヤ教徒は「祭りの期間」ずっとエルサレムに滞在しました。ここでヨセフとマリアが帰途についたのは、この一週間の「祭りの期間」が終わったときであると推察されます。しかし、両親が初めの二日間で帰途につき、イエスはなお祭りが続くエルサレムに残っておられた可能性もあります。
 ガリラヤなどの遠い町からエルサレムに上る巡礼者は、道中の危険を避けるために大きな団体をなして旅をするのが普通であったようです。帰途も同じように団体で行動したので、大勢の群れの中で仲間を見失うことはよくあったようです。両親はイエスがエルサレムに残っていたのに気づかず、「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返し」ます。「見失う ― 捜す」のテーマはルカがよく用いるものですが(失われた銀貨、失われた羊など)、ここでは見失しなったイエスを捜すという形で、世から去り見失しなわれたイエスを捜すという後の受難復活物語が先取りされています(後述)。
 ここでイエスという名前の後に《ホ・パイス》という語が称号のように添えられているのが注目されます(《ホ》は定冠詞)。《パイス》は年若い男の子を指すギリシア語ですから、「少年イエス」という訳でよいのです。しかしギリシア語の《パイス》は、年若い男の奴隷や召使いという意味もあり、七十人訳ギリシア語聖書ではイザヤ書の「主の僕」の「僕」をこの《パイス》を用いて訳しています。それで、イエスをイザヤ書の「主の僕」の預言を成就するメシアであると信じた最初期のユダヤ教徒の共同体(エルサレム共同体)は、復活されたイエスを、この《パイス》という語を使って、「僕イエス」《イエスース・ホ・パイス》と呼んで崇めました(使徒三・一三、四・二七、四・三〇)。このように復活されたイエスを「僕イエス」と呼んで礼拝した最初期のエルサレム共同体のユダヤ人たちが、十二歳のイエスのエピソードを語り伝えるさいに、同じ《パイス》という語で「少年イエス」を指していたのですから、この「少年イエス」には復活されたイエスの「僕イエス」が重なっていたことでしょう。これは後の補論で述べることになりますが、ここの重なりも誕生物語が復活物語の一つのバリエイションであることを指し示しています。

《パイス》の用例ついては、拙著『福音の史的展開T』398頁の「『神の僕』イエス」の項を参照してください。

 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。(二・四六〜四七)

 この「三日の後、彼らは彼を見つけた」という文頭の表現にも復活物語との重なりが見られます。弟子たちは、十字架につけられて世を去ったイエスと、三日目に復活者イエスとして再会します。「キリストは三日目に復活した」は、最初期の福音告知の定型《ケリュグマ》でした(コリントT一五・四)。イエスを見失った両親は「三日の後」イエスを見つけます。この少年イエスのエピソードを伝承した人々は、福音告知を担った人々です。ただ彼らはここで、《ケリュグマ》の「三日目に」でなく、イエスが用いられたとして伝えられている「三日の後」(マルコ八・三一)を使っています。

イエスが用いられたとされる「三日の後」や「三日で」(ヨハネ二・一九)という句と《ケリュグマ》の「三日目に」の関係については、エレミアス『イエスの宣教 ― 新約聖書神学T』(角田訳)519頁c の「三日句」についての解説を参照してください。

 当時の律法学者が弟子に律法を教える方法は問答でした。弟子が律法の意味やその具体的な適用を訊ね、師であるラビがそれに答え、また師が弟子に質問して弟子に答えさせ、その理解を確認するという方法で、律法理解が師から弟子に伝えられ、そうして形成された口伝の律法理解と適用が「口伝律法」となり、聖書にある成文律法と同じ権威のある律法として扱われました。ここで「イエスが学者たちの真ん中に座り」とあるのは、弟子たちの前や真ん中に座って教えたラビの姿を思い起こさせます。この物語を語り伝えた人たちは、イエスが生前律法学者たちと律法理解についてやり取りされたことを見ています。とくにエルサレムに入られてからは、神殿で律法学者たちと激しく論争されました。聞いていた人たちはイエスの「賢い受け答え」に驚嘆しました。税金問答(二〇・二〇〜二六)はその典型です。この少年イエスのエピソードを語り伝えた人々は、このようなイエスの姿を少年イエスに重ねて物語ったことでしょう。
 律法についても「律法学者のようにではなく権威をもって」教えられるイエスに人々は驚嘆し、「この男は学んだこともないのに、どうして聖書が分かるのか」(ヨハネ七・一五)と言っています。「学んだこともない」というのは、権威を認められたラビに入門して律法に関する訓練を受けていないことを指します。たしかにイエスは当時有名であったヒレルとかシャンマイというような高名なラビについて学ばれたことはありません。イエスの知恵は、聖書学者の知恵ではなく、実際に聖霊に導かれて活動されている中で聖書(律法)を理解された結果の知恵です。ユダヤ人で福音書を研究して『ユダヤ人イエス』を著したD・フルッサーは、「イエスは聖書と口伝律法の双方に完璧なまでに通じており、またこのユダヤ教の学問的伝統をどのように応用すべきかを知っていた。イエスのユダヤ教の教養は聖パウロが受けた教育より比較できないほどすぐれていた」と述べていますが、そのイエスの知恵はこのような種類の知恵であったことを見落としてはなりません。このエピソードを伝承した人たちと、その伝承を用いてこの誕生物語を書いたルカは、そのイエスの知恵を少年イエスの物語として語り、それによって本論の僕イエスの働きの質を指し示します。

 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。(二・四八)

 ほとんど成人になっている十二歳のイエスを見失った両親が、「心を痛めて(苦悩して)」捜し、三日目に見つけて「驚愕し(呆然となり)」、母マリアが「どうしてこんなことをわたしたちにしたのか」と問い糾しているのは、やや大袈裟で不自然な感じがします。これも、このエピソードが受難復活物語の先取りだとすれば納得できます。弟子たちは師のイエスが十字架で刑死したとき、「どうしてこんなことになったのか、なぜ師イエスはわれわれをこんな状態に陥れたのか」と苦悩し、三日目に復活されたイエスに再会したときは驚愕します。その弟子たちの体験が、このエピソードを伝承するさいの語り方に反映していると見られます。

 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。(二・四九〜五〇)

 「なぜこんなことを」と問い糾す母マリアに対して、イエスは逆に「どうしてわたしを捜したのですか」と、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」という二つの問いによってお答えになります。この二つの問いは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」ということを知っていたら、心痛してわたしを捜すことはなかったであろうという意味で、一体の問いです。
 この「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」という宣言が、この少年イエスの物語の核心です。ところがこの文は直訳すると、「わたしがわたしの父の事柄(複数形)の中にいるのは当然(必然)である」となり、「家」という語はありません。それで、このイエスの言葉が何を意味するのかについては、多くの議論が行われてきました。文脈がイエスの居場所を問題にしていることや、「〜のこと」という表現が家を指す用例があるという説が認められて、最近の翻訳では「わたしの父の家にいる」という訳が多くなりました(RSV、NRS、文語訳以来の邦訳のすべて。岩波版佐藤訳は家を括弧に入れ、慣用的な言い方と説明を加えています)。しかし、古い翻訳では「家」を用いず、直訳調の「わたしの父の事柄に携わっている」という訳が主流でした(たとえばKJV、ルター訳)。ここと同じ表現(複数形の定冠詞+二格の名詞)で「主の事柄」を指す用例はパウロにもあり(コリントT七・三二、三四、一三・一一)、牧会書簡(テモテT四・一五)の「これらの事柄にいよ」という用例も参考になります。
 イエスの答えの「わたしの父」が、マリアの「あなたのお父さんは心配して捜していた」の「あなたの父」への応答として言われたものであるならば、「わたしがわたしの父の事柄に携わるのは当然だ」という意味は十分成り立ち、むしろそう理解する方が自然です。無理に原文にない「家」という語を入れて居場所の問題に限定しなくても、「わたしがわたしの父の事柄に専心携わるのは当然だ」というイエスの生涯全体のあり方の宣言として理解する方が、よりいっそう相応しいと思います。
 このイエスの言葉には《デイ》という語が用いられています。この動詞は(不定詞を伴い)「〜するのは必然(当然)である、不可避である、義務である」という意味であり、他の福音書に較べてルカが多く用いています(マタイは八回、マルコは五回、ヨハネは一〇回に対してルカは一八回、使徒言行録には二二回)。多くの場合、この語は神の計画が必ず実現するとか、神の意志は必ず行わなければならないという必然を表現しています。イエスが御自身の受難と復活を予告される言葉にこの 《デイ》が用いられているのが代表的な事例です(九・二二)。ここでもこの《デイ》が用いられ、僕イエスが「父の事柄」に専心されるのは必然であることが、少年イエスの口から宣言されます。
 このエピソードを伝承した人々は、イエスが神を「わたしの父」と呼び、その父の御心を行うことに生涯を捧げられたことを知っています。彼らがこのイエスの言葉を語り伝えたとき、そのイエスの全生涯を重ねて、イエスは十二歳の時から神を「わたしの父」とし、その父の事柄に自分を捧げる者であることを自覚しておられたとしたのです。
 このイエスの言葉を聞いた両親は、その言葉を理解できませんでした。これは当然です。イエスは霊の次元のことを語っておられるのに、両親はあくまで肉親の我が子としてイエスを見ています。マリアが「あなたの父」と言ったとき、それはヨセフを指しています。それに対してイエスが「わたしの父」と言われるとき、それは霊の交わりにある父、霊なる神を指しておられます。肉(生まれながらの人間性)にいる者がイエスの霊の言葉を理解できないという落差ないしギャップは、ヨハネ福音書に繰り返し描かれていますが、ここはルカにおける代表的な実例となります。

 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。(二・五一)

 祭りの期間を終えてナザレに帰る両親と一緒に、イエスもナザレに戻られます。ナザレでは「両親に仕えて」お暮らしになります。ここの「仕える」は、「従う、従順である」という動詞が用いられています。これはもともと下位の者が上位の者に従うことを指す軍隊用語ですが、コロサイ書やエフェソ書や牧会書簡の家庭訓で、妻が夫に、子が親に、奴隷が主人に従うように勧告するときに用いられています。イエスも家におられるときは、家族の一員として家の秩序に従われたことを、ルカは特記します。イエスが家を出てガリラヤの各地を巡回し、福音を告知する活動を始められたのは「おおよそ三十歳」(三・二三)とされていますから、十二歳から十八年前後の期間のナザレでのイエスの生活を、ルカはこの「両親に従われた」の一句でまとめます。ルカがこのことを特記するのは、神に召されて「神の事柄に専心するのは当然」とされたイエスも、家におられた時には、家の秩序に従われた姿を描いて、ルカの時代の家庭訓との調和を図ったと考えられます。
 ヨセフは木工職人でしたから、イエスはヨセフから木工職人の技術を学び、木工職人として家業を継がれたと考えられます。なお、福音書にヨセフが出てくるのはこの少年イエスのエピソードが最後ですから、ヨセフはこの十八年前後の期間中に亡くなったと推察されています。そうすると、ヨセフ亡き後は長男であるイエスが木工職人の仕事で一家を支えていかれたと推察されます。
 母親のマリアは、イエスが三十歳代半ばで十字架につけられたときその前にいました。そして、復活後成立したエルサレム共同体にも参加しています。その時、マリアは五十歳前後であったと推察されます。マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」というのは、イエスの誕生にさいして起こった出来事や天使や預言の言葉、さらにイエス十二歳のときの神殿での出来事やイエスの言葉など「すべて」を心に納めたということです。それを体験したときには理解できませんでしたが、マリアはそれらをすべてを「心に納めて」保存しておきます。このマリアが心に納めていたことが素材となって、イエスの誕生に関する伝承が形成され、最終的にマタイやルカの誕生物語となります。マリアについては以下の「補論」で改めて取り上げます。

 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(二・五二)

 この文は直訳すると、「イエスは知恵と、歳(あるいは背丈)と、神と人のもとでの恵みにおいて、進まれた」となります。歳が進み背丈が伸びるのは当然ですが、それに伴って知恵が増し加わり、神と人から受ける好意も増えていった、とルカはイエスの人間的成長と社会的成長をごく一般的な表現で簡潔に記述して、誕生物語全体を締めくくります。ルカは、イエスや共同体が周囲の人たちからよく思われていたことをしばしば書き添えますが、これはルカの護教家としての体質から来るのでしょう。

ナザレにおけるイエスの生活ついては、先にあげた拙著『ルカ福音書講解T』126頁の「補説2 イエスの生い立ち」を参照してください。

 以上に見たように、この段落はたんに少年時代のイエスのエピソードを語り伝えるだけのものではなく、三章から始まる本論への導入部となっています。すなわち、ルカはイエスの少年期の出来事を伝えるエピソードの一つを用いて、十字架と復活に至るイエスの生涯の質を少年イエスの姿に重ねて描き、「少年イエス」の物語を「僕イエス」を指し示す指としています。その重なりは講解の中で繰り返し触れましたが、それは「少年」と「僕」がギリシア語原語では同じであり、「少年イエス」の物語を伝承した最初期のエルサレム共同体の人々は、復活されたイエスを「僕」と呼んで崇めていたのですから、この重なりはすでに伝承の段階で始まっていたと見られます。どこまでが伝承の段階で重なっていたのか、どこからがルカの筆によるものかを判別することは困難ですが、その重なりがあることは講解で見た通りです。こうしてルカは、「少年イエス」の物語を「僕イエス」の生涯を予告し、指さす物語として本論の直前に置きます。この「少年イエス」の段落は、本来の誕生物語(一・五〜二・四〇)と本論を結ぶ連結器としてここに置かれている、とも言えるでしょう。