市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第50講

5 マリアの賛歌(1章46〜56節)

 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。(一・四六〜四七)

 自分へのエリサベトの祝福を聞いたマリアは、そこに聖霊の強い働きを感じ、それに応えて魂の奥底から自分にこの大きな恵みの業をなしてくださった神を賛美します。ところで、エリサベトの祝福の場合もザカリアの預言の場合も「聖霊に満たされて」語り出したとされていますが(一・四一、一・六七)、マリアの賛歌にはその句はありません。「聖霊が降り、いと高き方の力が覆う」マリアには(一・三五)、とくにその句を用いる必要がなかったのでしょう。マリアの賛歌も当然「聖霊に満たされて」マリアの口からほとばしり出た言葉です。
 ここに伝えられている「マリアの賛歌」(一・四六〜五五)は、聖書に親しんでいる読者には、すぐにそれがサムエルの母となったハンナの賛歌(サムエルT二・一〜一〇)から採られていることがわかります。しかし、骨格はハンナの賛歌のものですが、他の聖書の言葉を用いて福音書記者が手を入れていることも明らかです。全体としてこの賛歌が聖書の世界に呼吸している魂の賛歌であることは明らかです。
 マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い出します。この表現は、「魂」と「霊」、「主をあがめる」と「神を喜ぶ」というほぼ同じ意味の語を用い、同じ意味の文章を繰り返す並行法と呼ばれるヘブライ詩編の技法を用いています。同じ意味の文が繰り返されることによって、感情の高揚が表現されます。ただ、この並行表現は、神に「わたしの救い主」(ギリシア語原文)という同格の説明語がついていることで、厳密な並行は破れています。
 「救い主」《ソーテール》という呼称は、二千年の歴史でキリスト教の中心的な用語となった重要な称号ですが、新約聖書では意外に用例が少ない称号です。七〇年以前の使徒時代には用いられず(唯一の例外はフィリピ書三・二〇)、七〇年以後のパウロ名書簡でも一例(エフェソ書五・二三)あるだけです。ところが、二世紀になって成立したと見られるもっとも後期の文書である牧会書簡と第二ペトロ書簡に、計一五回出てくるようになります。そして、二世紀初頭に成立したと見られるルカの使徒言行録と誕生物語にも計四回用いられています。このような事実から、ここの並行法を破っている「わたしの救い主」は、伝承されたヘブライ的並行詩句にルカが挿入したものと推察されます。もともとキリストについて用いられた「救い主」という称号が(まだキリストは現れていませんから)神について用いられることにより、マリアの賛歌は神を自分の救い主であり、イスラエルの救い主として誉め讃える賛歌となります。

使徒言行録と誕生物語の成立が二世紀初頭であることについては、拙著『福音の史的展開U』の第八章第一節の「ルカ二部作成立の状況と経緯」を参照してください。

 「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」。(一・四八)

 「マリアの賛歌」(一・四七〜五五)の本体部はここから始まりますが、それは、いやしい自分にこのような大きな恵みを与えてくださった神への賛美を歌う前半(四八〜五〇節)と、アブラハムの子孫であるイスラエルの民を顧みて、その約束を成就される主への賛美を歌う後半(五一〜五五節)の二部から成ります。
 マリアはまず、「彼の女奴隷の低さに目をとめてくださった」(直訳)主を賛美します。ここの「低さ」は、五二節で同じ語が「権力ある者たち」と対比されているので、「身分の低さ」を意味するのは事実です。しかし、「わたしは主の奴隷です」と言い表して、主の前にひれ伏したマリアの心の低さ、すなわち霊的謙虚さも指していることを見逃してはなりません。この霊的謙虚さ(へりくだり)に目をとめて、主はマリアの身に救い主キリストの母となるという大きな業をなされました。これを見て、後の代々の人はマリアを、「幸いな者」と言って祝福することになります。そのことをマリア自身が「聖霊に満たされて」預言します。この預言は後世、キリスト教会の歴史で「マリア崇拝」という形を取ることになりますが、この「マリア崇拝」の問題は項を改めて取り上げることにして、ここでは物語を先に進めます。

 「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」。(一・四九〜五〇)

 四九節の前半「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」は、理由を示す接続詞で前節に結ばれていて、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言う」ようになる理由を述べています。「力ある方」すなわち神が、マリアに救い主キリストの母となるという大きな業をなされたからです。そして、その大きな業をされた「力ある方」が賛美されて(四九節後半〜五〇節)、前半部が締めくくられます。その賛美は、聖書の賛美の詩編の表現を用いてなされています。すなわち、ここのマリアは敬虔なユダヤ教徒であり、ユダヤ教の敬虔と賛美の伝統の中に生きている魂であることを示しています。

 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。(一・五一〜五三)

 身分低く、心へりくだるマリアに大いなる業をなされた主に対する賛美は、イスラエルの歴史の中でなされた主の恵みの働きに対する賛美(五一〜五三節)に引き継がれ、後半部のイスラエルの民への主の恵みの働きへの賛美(五四〜五五節)の前置きとなります。
 ここの神賛美も聖書の詩編の表現で満ちていますが、ここでは明らかに一つの主題が貫いています。それは、イスラエルの神は高ぶる者を低くし、へりくだる者を高くされるという預言者の精神と告知です(イザヤ二・一一、五・一五、五七・一五など)。イエスご自身も「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言っておられます(マタイ二三・一二)。マリアの身に起こったことも、この神の働きでした。この神がその恵みの働きによってイスラエルの民になされることが、続いて賛美されます。

 「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。(一・五四〜五五)

 この高ぶる者を退け低い者を高くしてくださる神は、御自身の僕として選ばれたイスラエルの民を、その民がどのように悲惨な状況と姿の中にあってもけっして見捨てることなく、憐れみ(=恩恵)により無条件に受け入れて、イスラエルの民をご自分に属する民として高く上げてくださる、とマリアは歌います。その根拠は、神はそうすると先祖に約束されたからです。神はアブラハムを初めとする先祖たちに約束されたことを、その子孫であるイスラエルに対してとこしえに、すなわち、どのような状況においても守られます。この、神は御自身が語られた言葉を必ず行われるという信頼が、イスラエルの最後の拠り所です。
 「その僕イスラエル」とある原語は、「彼の《パイス》であるイスラエル」です。この《パイス》というギリシア語は、僕と子という両方の意味で用いられます。それでここは「その子イスラエル」と訳すことも可能です。しかし、イザヤ書の「主の僕」が七十人訳ギリシア語聖書で「主の《パイス》」と訳されたこともあって、イスラエルでは自分たちを神の僕とする自覚が強く、ユダヤ教の枠内で形成されたこの賛歌では、「僕」と訳すのが順当でしょう。

新約聖書における《パイス》の用例については、拙著『福音の史的展開T』398頁の「神の僕イエス」の項と、406頁の「アンティオキアにおけるキリスト告知の変化」を参照してください。

 「わたしたちの先祖におっしゃったとおり」とありますが、ここの「先祖」は複数形です。すなわち、ここの「先祖」はアブラハムから始まる父祖たちの全体、とくにモーセをはじめ神の言葉を受けた預言者たちの系列全体を指しています。神は彼らに語られた御自身の言葉を空しくされることはありません。その契約・約束の言葉通り、イスラエルを選ばれた神は、イスラエルを見捨てることなく、「とこしえに」イスラエルをご自分の民として憐れみをもって扱われる、とマリアは神を賛美します。
 ルカがこのような賛美をイエスの母となるマリアに帰しているのは、聖書(旧約聖書)を拒否して、イエスの福音をイスラエルの歴史から切り離そうとしたマルキオンに対抗する意図からでしょう。ルカは誕生物語の全体で繰り返し、イエスの出現は聖書の約束と預言の成就であるという主題を響かせています。ここもその一つです。

ルカの誕生物語がマルキオンに対抗するためという意図(それだけではないにしても)があることについては、拙著『福音の史的展開U』の第八章第一節の「ルカ二部作成立の状況と経緯」、とくに455頁「増補改訂版ルカ福音書」の中の小項目「1誕生物語」を参照してください。

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。(一・五六)

 ルカの物語では、マリアはガリラヤのナザレから数日かけてはるばる旅をして、ユダの山里にあるエリサベト家を訪ねたのですから、一泊や二泊で去るわけにはいきません。三か月もの長い期間、エリサベトと共に過ごし、二人の身に起こった出来事と、それがこれからのイスラエルにもたらす事態について思いめぐらし、語り合い、祈ったことでしょう。
 天使ガブリエルがマリアに受胎を告知したのはエリサベトの懐妊六か月の頃ですから、すぐにマリアが旅立ってエリサベトを訪ねたとすると、三か月滞在して去る頃には、エリサベトは妊娠九か月になり出産も近づいています。すぐ後にエリサベトの出産の記事が続くことになります。
 なお、この節は三九〜四〇節と呼応して、エリサベトとマリアの出会いの出来事を囲い込んでいます。従って、三九〜五六節は一つの場面を構成していることになり、(多くの注解書がしているように)一つの段落として扱う方が適切です。途中で切ると「エリサベトの祝福」と「マリアの賛歌」の対応関係が見失われやすくなります。ルカの誕生物語はヨハネとイエスの並行関係を構成原理としているので、二人の母親の対面場面は重要です。新共同訳は段落を分けているので、両者の対応関係を見落とさないようにしなければなりません。