市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第48講

3 イエスの誕生が予告される(1章26〜38節)

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。(一・二六)

 「六か月目」というのは天使ガブリエルによってザカリアに子の誕生が予告されるという出来事があってから「六か月目」ということですから、前節で見たように、エリサベトの懐妊が知られるようになっていた時期になります。そのような時期に、天使ガブリエルが「ナザレというガリラヤの町」に神から遣わされます。ここで「ナザレ」という地名が誕生物語において初めて登場します。これはイエスの両親の住まいであり、イエスがお育ちなった町として、イエスの出身地を示す名となります。イエスは人々から「ナザレのイエス」と呼ばれるようになり、後には世界中の人から「ナザレのイエス」と呼ばれ、ガリラヤの小さい町が世界史で重要な名となります。
 天使ガブリエルが聖書正典に登場するのは、旧約聖書ではダニエル書の二回(前述)と、新約聖書ではルカ福音書の誕生物語の二回だけです。この事実だけでも、ルカの誕生物語の特異性がうかがわれます。ガブリエルは、前段の講解で触れたように、ミカエルと共に神の前に立つ最高位の天使であり、おもに神の御計画や言葉を伝える役目を担う天使です。

 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。(一・二七)

 ガブリエルが遣わされたのは「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」のところでした。この段落、そして誕生物語全体の主役はこの「マリアという名のおとめ」なのですが、その女性の家系ではなく、婚約者のヨセフの家系が上げられているのは、生まれてくる男の子をダビデの家系に連ならせるためです。マリアの家系はダビデの家系ではなく、エリサベトの親戚(一・三六)としてアロンの家の祭司系であると推察されます。イスラエルは、男の子は「誰それの子」と父親の名で呼ばれ、父親の家を継ぐ父系社会でした。生まれてくる子がダビデの家系に連なる者であるためには、父親が「ダビデの家」の者でなければなりません。それで父親になるヨセフの家系があげられることになります。ルカはすでに、この誕生物語よりも先に書かれた三章以下の本体部の冒頭で、ヨセフの系図を掲げてヨセフがダビデの家系に属する男性であることを示しています。

三章(二三〜三八節)にある「イエスの系図」の意義については、拙著『ルカ福音書講解T』90頁の「イエスの系図」の項(とくにその位置については末尾の注記)を参照してください。

 イエスをメシアとしてイスラエルの民に告知するためには、イエスがダビデの子孫であることを示さなければなりませんでした。当時のユダヤ教では、来たるべきメシアはダビデの子孫から出ると広く信じられていたからです。福音の基本的な告知内容を要約した定式(ケリュグマ)も、「肉によればダビデの子孫から生まれ」という項を含んでいます(ローマ一・三)。おもにユダヤ人のために書かれたマタイ福音書では、イエスについて「ダビデの子」という称号が多数(一一回)出てきますが、異邦人のために書かれたルカ福音書の本体部では(イエスが「ダビデの子」であることを否定する議論の他には)一箇所だけです。ところが誕生物語では、ダビデの名が五回言及されています。この事実も、誕生物語が本体部とは違う起源のものであることを示唆しています。
 ここで「おとめ」と訳されている《パルテノス》というギリシア語は、結婚適齢期の「若い女性」を広く指す場合と、男性経験の無い「処女」を指す場合があります。それで、「処女降誕」の教義をめぐって、ここやマタイ一・二三の聖書の用例がどちらの意味であるかが激しく争われることになります。しかし、当時のユダヤ教社会で婚約した女性が処女であることは自明のこととして前提されていましたから、この物語を語り伝えた人たちはこの語を処女の意味で用いていたことは確実です。わたしたちもこの語を処女の意味で理解して誕生物語を読むべきでしょう。
 当時のユダヤ教社会では、女性の結婚適齢期は一〇歳代半ばか後半でした。この時のマリアはそのような年齢の若い村娘でした。「マリア」という名は、ヘブライ語では「ミリアム」で、モーセの姉妹ミリアムに由来する名です。ユダヤ人女性の名としてもっとも多く用いられており、ごくありふれた名でした。しかし、イエスの母となることで、このマリアは世界一有名なマリアとなり、キリスト教世界では「マリア」といえばこのマリアを指すことになり、その像が世界中の(プロテスタント教会を除く)キリスト教会の祭壇に祀られることになります。

 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。(一・二八)

 天使の挨拶の最初の言葉は(直訳すると)「喜びなさい」です。この語は通り一遍の挨拶の言葉ではありません。「喜ぶ」という語は、新約聖書では霊的・終末的な歓喜を指す言葉です。天使は「大きな喜びを告げる」ために現れています(二・一〇)。ルカの誕生物語全体に喜びが溢れています。イエスの誕生を取り巻く人々はすべて喜びに溢れて神を賛美しています。その「喜べ」が最初に物語の主役であるマリアに告げられます。
 マリアは「恵まれた方」と呼びかけられています。「恵み」《カリス》は神の無条件で一方的な好意の働きです。マリアはこの神の恵みによって選ばれて、救済史における大役を果たすことになります。このことを知っている天使は、マリアに「恵まれた方よ!」と呼びかけます。
 マリアが「恵まれている」ことは、神が共にいてくださるという事実によって保証されます。天使は「主があなたと共におられる」と、この事実を保証します。モーセの場合に見られるように(出エジプト記四・一二)、また復活されたイエスが使徒たちを派遣されるときに見られるように(マタイ二八・二〇)、神は大役を課す者に、いつも一緒にいて助けることを保証されます。

 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(一・二九)

 天使の挨拶の言葉が何を意味するのか、マリアには分かりません。天使の出現という異常な体験の不安と恐れの中で、マリアは天使の挨拶の言葉の不可解さに戸惑い、考え込んでしまいます。

 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。(一・三〇)

 天使の出現に怖じ恐れるマリアに、天使はいつものように、まず「恐れることはない」と言って励まし、「あなたは神から恵みをいただいたのだから」と、その理由を述べます。この文は理由を示す《ガル》で始まっています。神から恵みをいただいた者は、どのような不可解な状況でも恐れる必要はありません。
 神の恵みは、先にも述べたように、神の無条件で一方的な選びが含まれます。その選びの目的がすぐに続いて語られます。それはマリアにとってまったく思いもかけない内容でした。

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。(一・三一)

 天使はまず男の子の出産を予告します。すでにこのことがマリアにとって全く思いがけないことです。たしかにマリアはヨセフと婚約しています。ユダヤ教社会では婚約した二人は法的には夫婦と同じ権利と義務を有します。しかし、実際に女性が男性の家に行って一緒に住むまでは、結婚生活はなく、女性は処女のままです。マリアはまだヨセフの家に入っていません。従って「子を産む」という告知は、マリアにとって全くの驚きです。マリアが天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(三四節)というのも無理もありません。
 しかも天使はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と名前を指示します。ユダヤ教社会では子を名付けるのは父親の権利です。マタイ(一・二〇〜二一)では、ヨセフにそう名付けるように指示が与えられます。ルカではダビデの家のヨセフが命名から除外されることによって、イエスがイスラエルの民のメシアである「ダビデの子」という枠から解放されて、万民の救済者であるというルカの福音に沿いやすくなります。
 イエスという名については、マタイ(一・二一)は「この子は自分の民を罪から救うからである」と、その命名の意義を説明しています。「イエス」(ヘブライ語では《イェーシューアー》)は、モーセの後継者ヨシュアに由来する名で、「ヤハウェは救いである」という意味の名です。マタイは、共同体の体験からその救いを罪からの救いと解釈して、それを天使の言葉としています。ルカはそのような解釈をつけず、救済史的な神の御計画の成就を端的に告知する内容にしています。
 神が名を与えられるのは、神がその人物に特別の役割を与えようとしておられることのしるしです。その役割が続いて語られますが(三二〜三三節)、それは素朴で敬虔なユダヤ教徒の村娘マリアにとってまさに驚天動地の驚きです。

 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。(一・三二〜三三)

 マリアに天使がどのような言葉で語ったのか、今では確かめようがありません。一方、この天使の言葉を読みますと、ユダヤ教内キリスト信仰の共同体で行われていた信仰告白を聞いている感じがします。事実ここの天使の言葉は、「ダビデの王座」とか「ヤコブの家」というような、異邦諸国民には無縁のユダヤ教独自の表現で語られており、イスラエルの民の中での出来事として語られています。わたしたちの前にあるテキストは、復活されたイエスをメシア・キリストと信じるユダヤ教内キリスト信仰の共同体が語り伝えたキリスト信仰伝承の要約と見ざるをえません。
 まず最初に、マリアから生まれる子は「いと高き方の子」と呼ばれるようになることが予告されます。実際にイエスがこのように呼ばれるようになるのは復活以後の共同体においてであり、地上の生涯においてはイエスは「ヨセフの子」と呼ばれていました。ときには「マリアの子」と呼ばれましたが(マルコ六・三)、これは父親が分からない子に対する侮蔑の呼び方です。しかし、復活後ではイエスは「神の子」とか「いと高き方の子」と呼ばれるようになります。「神の子」はユダヤ教の内でも外でも広く用いられますが、「いと高き方の子」の方は、神を「いと高き方」と呼んだユダヤ教徒の中での伝承であることを示唆しています。

ユダヤ教内キリスト信仰共同体では、復活されたイエスは最初「僕」と呼ばれていましたが、後に「神の子」という称号になっていきます。その経緯については、拙著『福音の史的展開T』398頁の「『神の僕』イエス」の項を参照してください。

 「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という予告は、明らかに預言者ナタンの預言(サムエルU七・一二〜一六)の成就を指しています。ナタンの「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエルU七・一二)という預言は、その後のユダヤ教徒のメシア待望の中心に位置する土台石となりました。この預言によって後のユダヤ教徒の中に(おもに主流のファリサイ派において)、ダビデの子孫からダビデ王国の栄光を回復するメシアが出るという、「ダビデの子」待望が出てきます。ユダヤ人の中で福音書を書いているマタイは、イエスの誕生と生涯を「ダビデの子」の出現として描くことになります。異邦人のために福音書を書いているルカは、本体部では「ダビデの子」を用いていませんが、誕生物語ではパレスチナ・ユダヤ人のユダヤ教内キリスト信仰の伝承をそのまま用いて、「ダビデの子」信仰を伝えることになります。

「ダビデの子」としてのメシア待望については、拙著『マルコ福音書講解U』90頁の「ユダヤ教のメシア待望」の項を参照してください。

 マリアから生まれてくる子に「ダビデの王座」を与えるのは「神である主」です。ナタンの預言では「ヤハウェはこう言われる」という形で語られており、ダビデの王座を与えるのはヤハウェです。そのヤハウェを七十人訳ギリシア語聖書は《キュリオス》(主)と訳しているので、ヤハウェを唯一の神とするユダヤ教に独特の「神である主」という表現が出てくることになります。
 さらに「ヤコブの家」という表現も、ユダヤ人がイスラエルの民を指すのに用いる独特の表現です。イスラエルの民は父祖ヤコブの十二人の息子を名祖とする十二の部族の連合体として形成されたので、イスラエルを指すのにこのような表現が用いられました。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」というのは、ナタン預言の最後にある「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエルU七・一六)という預言を指しています。天使は、その預言がマリアから生まれる子によって実現すると告知します。

「その支配は終わることがない」という表現は、ダニエル書(七・一三〜一四)の「人の子」の幻で語られている、「彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」という預言を思い起こさせます。たしかにパレスチナ・ユダヤ人のユダヤ教内キリスト信仰共同体ではダニエル書を初めとする黙示思想文書による「人の子」信仰が告白されていたので、この表現が重なっていた可能性はあります。しかし、ナタン預言に基づく「ダビデの子」待望と、黙示文書による「人の子」信仰は別の性格の終末待望の流れを形成していたと見られるので、無理に重ねる必要はないと考えられます。

 このように、この箇所のテキストは、ユダヤ教内キリスト信仰共同体のナタン預言に基づく「ダビデの子」信仰告白が、マリアに男の子の誕生を告知する天使の口に置かれたものとせざるをえません。そのことは、次節のマリアの対応からも示唆されます。

 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。(一・三四)

 天使の告知に対するマリアの驚きと不審の思いは、「あなたは身ごもって男の子を産む」という告知だけに対しており、その子がどのように偉大な人物になるかを告げる部分(三二〜三三節)は全く視野に入っていません。マリアはまだヨセフの家に入っていません。すなわり夫婦としての実際の交接はしていません。マリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか」は、すぐに続く「わたしは男の人を知りませんのに」という理由を語る言葉が明示するように、ただ子の誕生の告知だけに向けられています。物語の流れは、三一節から三四節、三五節へと続きます。

 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。(一・三五)

 マリアの不審に対して天使は、マリアの懐胎が聖霊の働きによるものであると答えます。「聖霊が降る」は最初期共同体が聖霊の働きを語るときの常套表現で、ここはむしろ「いと高き方の力があなたを包む」の方が事態に即した表現でしょう。
 古代神話では神々が人間の女と交わって子を産ませるという物語があります(創世記六章にもその片鱗が残っています)。ギリシア神話にも最高神ゼウスが人間の女と交わり、後に偉大な事を成し遂げる英雄を生ませるという物語が多くあります。このような古代神話の影響を見る議論もありますが、そのような影響は考える必要はないでしょう。この誕生物語を語り伝えた人たちは敬虔なユダヤ教徒であり、彼らのイメージはすべて聖書(旧約聖書)から来ています。
 「包む」と訳されているギリシア語動詞《エピスキアゾー》は《スキア》(影)から来た動詞で、原意は「影を落とす」とか「影で覆う」です。新約聖書でこの動詞が用いられるのは、ここと変容の山の記事(マルコ九・七と並行箇所)と、ペトロの影でいやされた記事(使徒五・一五)の三箇所だけです。変容の山の記事(九・三四)では、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」と語られています。雲は出エジプト記(一三・二一、四〇・三四ほか)において、柱となって民を導き、臨在の幕屋を覆うなど、神の臨在の象徴として現れています。ここでも聖霊の働きによってマリアが懐胎することが、この雲の影のイメージを用いて、「いと高き方の力があなたを覆う」という表現で告知されることになります。雲は神の現臨を示すと同時に、神の働きを神秘の中に覆い隠すという二面を象徴することになります。
 聖霊の働きによって処女マリアが懐胎しイエスを産んだという「処女降誕」の告知は、誕生物語において重要な位置を占め、また議論の多い告知ですが、この問題は後の「補論2」でまとめて扱うことにして、ここでは物語を先に進めていきます。

 「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」。(一・三六〜三七)

 天使ガブリエルの言葉を信じなかったザカリアには口が利けなくなるというしるしが与えられましたが、マリアにはエリサベトの懐妊の事実がしるしとして与えられます。天使の対応の違いは、ザカリアが熟練の祭司であるの対して、マリアはまだ少女のような村娘であったからでしょうか。天使ガブリエルは、エリサベト懐妊の事実を指し示して、「神にできないことは何一つない」ことのしるしとします。
 天使はマリアに「あなたの親類のエリサベト」と語りかけています。最初期の共同体には二人の親族関係を伝える伝承があったと推察されます。エリサベトがマリアの親類であるならば、エリサベトは「アロンの家の娘」ですから(一・五)、マリアも「アロンの家」とつながりのある家系、すなわり祭司系の家系の出身ということになります。マリアの出自については、これ以上のことは分かりません。

マリアの出自については、二世紀後半に成立したとみられる「ヤコブ原福音書」が、マリアの誕生、成長、神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエスの出産を詳しく物語っています。そこではマリアはダビデの家系の娘とされています。しかし、この外典福音書は、始まりつつあったマリア崇拝を表現する文学作品であり、歴史的事実の論拠とすることはできません。「ヤコブ原福音書」については、『聖書外典偽典』(教文館)6巻83頁以下の「ヤコブ原福音書概説」と、それに続く翻訳を参照してください。

 「神にできないことは何一つない」という言葉は、後にイエス御自身が宣言されることになりますが(マルコ一〇・二七)、この信仰はイスラエルの民がその二千年の歴史を通して形成した信仰であって、それが今天使の口を通じてマリアに告げられることになります。男を知らない処女が懐胎するというようなことはありえない、それは不可能であると常識はこれを拒否しますが、聖書は「神にできないことは何一つない」という信仰でその不可能を乗り越えます。

 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。そこで、天使は去って行った。(一・三八)

 マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の宣言にうながされて、「あなたは男の子を産む」という告知を謙虚に受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、ひれ伏します。
 マリアは天使ガブリエルに、「ご覧ください、わたしは主の女奴隷です。あなたの言葉通りに、わたしにことが起こりますように」(直訳)と言っています。「主」は女性が目上の男性に呼びかける言葉でもありますから、「あなたの言葉通りに」という言い方から、対話の相手の天使を指すという解釈もできます。あるいは敬虔なユダヤ教徒として神を指していると解釈することも可能です。この場合「あなたの言葉」は、マリアが天使の言葉を神の言葉として受け取っているのですから、両者は重なっていて、無理に一方に決める必要はないでしょう。
 ここのマリアの言葉は信仰の本質を見事に言い表しています。信仰とは、自分を奴隷の立場に置いて、自分の理解、判断、能力、願望などとはいっさい関係なく、それが主人である神の言葉であるという理由だけで、その言葉に従って行動し生活することです。奴隷は自分の判断で主人の言葉に従ったり従わなかったりする立場ではありません。
 この信仰の消息は、後にイエス御自身が明確に語り出されることになります。弟子たちが「わたしどもの信仰を増し加えてください」とお願いしたとき、信仰を何か自分の内にある能力のように考えている弟子たちの思い違いを正すために、イエスは「主人と奴隷のたとえ」を語り出されます(一七・五〜一〇)。このたとえは、絶対無条件の恩恵が支配する場で、人間が自分をゼロにして神の言葉に従うことが信仰であることを、当時の主人と奴隷の関係を比喩として語っています。マリアは見事に身をもってこの信仰を言い表しており、代々の信仰者の原型となっています。

この「主人と奴隷のたとえ」は「謙遜のすすめ」というようなものではなく、信仰の本質を語るものであることについては、拙著『ルカ福音書講解U』312頁の「信仰を増し加えてください」の項を参照してください。マリアへの告知においても、このたとえにおいても、新共同訳は「はしため」とか「しもべ」と訳していますが、原文は当時の奴隷制社会で男女の奴隷を指す語が用いられています。

 ガブリエルが神の使いとして伝えた神の言葉をマリアが受け入れたことで、ガブリエルの使命ははたされました。そこで、天使ガブリエルはマリアのところから去って行きます。