市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第47講

2 洗礼者ヨハネの誕生、予告される(1章5〜25節)

 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。(一・五)

 この冒頭の一節で、読者は前一世紀のユダヤ教の世界に引き入れられます。ヘロデは前四年に没するまで三〇年以上王としてユダヤを統治していました。当時パレスチナはローマによって支配されていましたが、ヘロデはローマの後ろ盾を得てユダヤを含むパレスチナ全土を支配していました。「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という伝承は、マタイ(二・一)も用いており、誕生物語に関しては依存関係がないマタイとルカが一致するので、これは歴史的事実に基づいて広く語り伝えられていた共通の伝承であったと見られます。従ってイエスの誕生はヘロデ没年の前四年以後ではなかったことになります。大多数の研究者はイエスの誕生を前七年と前四年の間と見ています。
 ローマは支配する民族の宗教を尊重しましたし、ヘロデもユダヤ人の歓心を得るために壮麗な神殿を建設したので、エルサレムの神殿では毎日犠牲が捧げられ、ユダヤ教の神殿祭儀は盛大に行われていました。祭儀を執り行う人が祭司ですが、当時のユダヤ教祭司制度は大祭司を頂点によく整えられていました。「アロンの子らもくじによって二四の組に分けられた」という歴代誌(上二四章)の記事(その中に第八のくじに当たったアビヤの名があります)に従って、捕囚から帰還した祭司の四部族(エズラ記二・三六〜三九)が二四の組に分けられ、交代で年に二度一週間の神殿奉仕に当たりました。祭司たちは家族と共に地方の村落に住み、当番のときにエルサレム神殿で奉仕し、一週が済むと帰郷しました。ザカリアはアビヤの組に属する祭司で、祭司の名門アロン家の娘の一人で、名をエリサベトという女性を妻にしていました。

 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。(一・六〜七)

 ザカリアとエリサベト夫妻は、二人とも「神の前に正しい人」という評判の夫妻でした。ユダヤ教社会で「正しい人、義人」というのは道徳的に完全な人とか正義の人という意味ではなく、ここに解説されているように、「主の掟と定めをすべて守る」ことであり、二人はこの点で「非のうちどころがない」という立派な生活をしていました。ところが、この二人には子供がありませんでした。
 ユダヤ教社会では、子供は神からの祝福とされていましたから、子供がないことは神の祝福がないこと、ときには罪のしるし、神の呪いとされました。昔は不妊の原因が夫妻のどちらにあるのか医学的な解明もなく、ただ女性が「不妊の女」とされて白眼視されました。それで、このような夫妻に子供ができたときは、とくに女性が「神がわたしを顧みて、辱めを取り去ってくださった」と感謝し、喜びに溢れました。このような事例は、サムエルの母ハンナ(サムエル記T一〜二章)のほか旧約聖書に多くあります。エリサベトの喜び(二五節)もこのような事例の典型です。
 エリサベトは若いときから妊娠の経験が無く「不妊の女」とされていたのですが、さらに「二人とも既に年をとって」いて、子供ができる可能性はなくなっていました。とくに年をとって閉経期を迎えた女性が妊娠することは生理的にありえません。ここで二人に子供ができる可能性のないことが特記されるのは、二人の間に生まれることになる子がただ神の御計画と働きによるものであることを強調するためです。高齢のアブラハムとサラの間にイサクが生まれたのも、このような事例の一つです。

 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。(一・八〜九)

 ザカリアが属するアビアの組に当番が回ってきて、神殿で祭儀を行う務めをすることになりました。祭司は多くいましたので、誰がどの役目を果たすかはその度ごとにくじを引いて決めました。それが「祭司職のしきたり」でした。この時ザカリアは「聖所に入って香をたく」務めを指定するくじを引き当てました。
 神殿内部は垂れ幕で奥の至聖所とその前の聖所とに区切られています。幕の奥の至聖所には年に一度、大贖罪日に大祭司が入るだけですが、幕の前の聖所には黄金でできた香壇、たえまなく燃える七枝の燭台、安息日ごとに十二個の新しいパンが供えられる供えの机があり、そこには祭司が入って香を焚き供え物を供えるなどの儀式を行いました。

 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。(一・一〇〜一二)

 ザカリアが香をたいている間、大勢の民衆が聖所の外で祈っていました。するとその時、「主の天使」が現れて、ザカリアが香をたいている香壇の右に立ちます。ザカリアは香壇の前で香をたいているのですから、天使は彼のすぐ斜め前に現れたことになります。人間は普段の体験とは異なる異次元からの働きかけを受けるとき、本能的に不安とか恐怖を感じるようです。ザカリアも自分の目の前に突如現れた「主の天使」に不安と恐怖を感じます。
 イスラエルの民はアブラハム以来、様々な形で主なる神の働きかけを体験してきました。しかし、捕囚期以後の初期ユダヤ教の時代になると、神の超越性が強調されるようになり、神の働きかけは神が遣わされる使い、すなわち「天使」の働きとして表現されるようになります。そして、神からの働きかけの種類に応じて、天使も様々な種類の働きを担当するようになり、その働きの種類に応じて名前を与えられるようになります。このようなわけで、神が民の中に直接介入して特別な働きをされるときは、天使の活動が活発になります。マタイの誕生物語でも天使の出現によって物語が進行します。復活物語でも天使の出現が見られます。エクレーシア形成の最初期や黙示録的終末にも天使が活動します。

イスラエルにおける天使の概念の形成には捕囚期前からの長い歴史があります。しかし、捕囚後期から捕囚期以後の預言者たち(エゼキエルやゼカリアなど)に重要な発展が見られ、とくにダニエル書に始まり死海文書に至る黙示的諸文書で詳細な天使論が現れてきます。ここでその詳細に立ち入ることはでませんが、新約聖書はその初期ユダヤ教の天使論をそのまま引き継いで天使の活動を語っています。

 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」。(一・一三〜一四)

 天使の出現に「恐怖の念に襲われた」ザカリアに向かって、天使はまず「恐れることはない」と語りかけます。異次元からの働きかけに恐怖を感じる人間に、出現した者はいつもこの語りかけで始めます。 天使はザカリアに彼の願いが聞き入れられたことを伝えます。ザカリアは「不妊の女」とされている妻エリサベトと共に、子が与えられてイスラエルの民の中で受けている辱めが取り除かれることを切に祈り求めてきました。天使は、その長年の願いが聞き入れられて、妻エリサベトが男の子を産むことになる、と伝えます。これは神の働きによる出来事、人の目には奇蹟の出来事です。そして、生まれてくる子に「ヨハネ」という名をつけるように指示されます。天使によって指示された名前《ヨハーナーン》は、「神は恵み深い」という意味の語から来ています。このように神が名を指定されるのは、イサクから始まりイエスに至るまで多くの例がありますが、これはその人物に神が特別な任務を用意しておられることを示しています。

ここの「ザカリアの願い」は子が与えられることではなく、「イスラエルが慰められること」(二・二五)、すなわち民の救済の到来であったとする解釈があります。たしかにザカリアはそれを熱烈に願い待ち望む敬虔なユダヤ教徒だったでしょう。しかし、その救いはここで出現が予告される人物によってもたらされるのですから、彼の子を得たいという願いがイスラエルの慰めのために用いられると理解することもできます。物語の流れからすると、ここはやはり子の誕生への願いとすべきでしょう。

 その任務は次節以下で語られますが、その前にその子が父親になるザカリアにとって(当然母親になるエリサベトにとっても)喜びと楽しみになる、という人間的な自然な幸せが予告されます。神は善であり、人間に喜びとか幸せをもたらすように働かれます。さらに、親だけでなく多くの人がその誕生を喜ぶようになることが予告されます。世界に大きな価値をもたらした偉大な人物の出現は、今も生誕何年とかといって祝われますが、そのようにこの子もその誕生を世の人々が喜び記念するような人物になるであろう、という予告です。

 「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。(一・一五〜一七)

 彼の偉大さは「主の御前に偉大」なところにあります。この意味で偉大な人物は、地上の現実の生涯でその偉大さを認められるとは限りません。むしろ逆で、この世では苦しみを受ける場合が多いようです。この誕生物語でその誕生が記念されている二人、すなわちヨハネとイエスはそのような偉大な人物の典型です。二人はこの世では斬首と十字架刑というもっとも悲惨な最期を遂げましたが、「主の御前において」、すなわち神の救済史においてもっとも偉大な任務を成し遂げることになります。
 ここでヨハネが成し遂げる偉大な働きが天使によって予告されます。その予告の内容は、「エリヤ」という名が示唆しているように、ヨハネをメシアの前に道備えをする先駆者と位置づけた最初期共同体の救済史理解を色濃く反映しています。ルカは本論の三章では、洗礼者ヨハネを信じるグループが伝える伝承を用いて、ヨハネの使信の内容をかなり忠実に伝えていました(三・七〜一四)。しかし、イエスをヨハネに結びつけるために二人の誕生を並行して語る誕生物語では、ヨハネ出現の意味はもっぱらイエスとの関係だけで語られることになります。そのさい当然のことながら、イエスに対するヨハネの関係は福音告知の内容に従ったものになります。ここでの天使の予告の言葉は、すでによく知られている洗礼者ヨハネの実際の活動の姿と、ヨハネをイエスの先駆者と位置づける共同体の救済史理解によって構成されることになります。
 最初期共同体は、ヨハネをメシアであるイエスの先駆者と位置づけるに際して、マラキの預言を用いました。マラキはこう預言しています。

 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。(マラキ三・一)
「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日の来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」。(マラキ三・二三〜二四)

 この預言によって当時のユダヤ教徒の間には、終わりの日の到来に先だって、火の車に乗って天に昇ったエリヤが再来して到来される主の道を備えるという待望が広まっていました。イエスをその再来のエリヤと見る人もいました(九・八)。しかし、復活されたイエスこそ終わりの日に到来される方であることを知ったキリスト信仰共同体は、ヨハネを先駆者エリヤであると告知しました。その福音告知における先駆者としてのヨハネの意義づけがそのまま天使の予告の言葉になっています。
 天使は最初にヨハネが「ぶどう酒や強い酒を飲まず」生涯を送る人であることを予告しています。これはヨハネがナジル人(民数記六章)として神に捧げられた生涯を送ることを予告しています。事実ヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」のでした(マルコ一・六)。しかし、ここでは「ぶどう酒や強い酒を飲まず」は「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」と対照されています。すなわち、酒に酔うことと神の霊に酔うことが対照されています。酒に酔う者は我を忘れて自分の本能的な欲望に身を委ねます。それに対して神の霊に酔う者は、神に仕えることに我を忘れます。
 ヨハネは荒野で育ち、荒野で神の霊に満たされて、「悔い改めよ」と叫びます。「悔い改めよ」は「立ち帰れ」ということです。ヨハネは多くの民に「立ち帰りのバプテスマ」を施して、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」働きをすることになります。これはまさにマラキが預言した「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」という再来のエリヤの働きに他なりません。

 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。(一・一八)

 ザカリアの長年の祈りが聞かれて子が与えられるという天使の告知を聞いたとき、それがあまりにも人の思いを超えたことなので、彼は驚いて思わず「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と聞き返してしまいます。彼は「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」という人間の現実しか見えず、神の言葉をすぐにそのまま信じることができません。彼は天使にそのようなことが起こることの保証を求めます。

 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。(一・一九〜二〇)

 ここでザカリアに現れた天使は「わたしはガブリエル、神の前に立つ者」と名乗っています。天使は神が人に働きかけるとき、神から遣わされる「奉仕する霊」ですが(ヘブライ一・一四)、その多くの天使にも序列があります。捕囚以後のユダヤ教、とくにダニエル書やエノク書や死海文書などの黙示思想的文書では、神の前に立つ高位の天使(大天使長)としてミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルなどの名前があげられています。ミカエルは神に敵対する力と戦う戦士ですが、ガブリエルは神の御計画や言葉を伝えるメッセンジャーです。ガブリエルはダニエルに現れ(ダニエル八・一五〜一六、九・二一)、ダニエルにこれからイスラエルの民に起こることを伝えます(ダニエル書一〇章)。ルカの誕生物語でも、ガブリエルがザカリアとマリアに子の誕生を予告します(一・一九、二・二六)。ルカの誕生物語はダニエル書と関係が深く、ルカはダニエル書をモデルにしている節があります。両方とも捧げ物のときにガブリエルが現れており、ガブリエルを見たとき、ダニエルもザカリアも口が利けなくなっています。「あなたの祈りが聞かれた」という天使の語りかけも似ています。

「天使」については、「旧約・新約 聖書大事典」の「天使」の項、および Anchor Bible Dictionaryの "Angels" の項がよくまとめていますので、それを参照してください。

 天使ガブリエルは使者としての役目を「この(子の誕生という)喜ばしい知らせを伝えるために(神から)遣わされたのである」と説明します。ここで「喜ばしい知らせを伝える」と訳されているギリシア語は(ルカがよく使う)「福音する」という一語の動詞です。そして、神の使者ガブリエルが伝える神の言葉を、その言葉だけで信じることをしないで、その言葉が事実となる保証を求めたので、それが神からの言葉であるしるしをガブリエルは与えます。すなわち、ガブリエルはザカリアが「口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる」ようにします。このガブリエルの告知に対するザカリアの態度は、同じガブリエルの言葉に対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったマリアの態度と対比されて、並行するヨハネとイエスの誕生物語における(イエスの場合はヨハネの場合より優れているという)不均衡を見せています。

ルカが「福音」という名詞は使わないで、「福音する」という動詞だけを使うことについては、拙著『福音の史的展開U』472頁の「ルカ福音書における『福音』」の項を参照してください。

 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。(一・二一〜二二)

 聖所の外で待っていた民衆は、ザカリアが出てくるのがいつもより遅いことを不審に思っていましたが、出てきたザカリアは口が利けず、身振りで示すだけでしたので、彼の様子を見て人々は彼が聖所で何か異常な霊的体験をしたのだと悟ります。その異常な体験は「《オプタシア》を見た」と記述されていますが、この《オプタシア》という語は幻とか現れという意味のギリシア語で、新約聖書では(パウロのコリントU一二・一以外では)ルカが三回用いているだけです。もう一回はエマオ物語で女性たちが空の墓で「天使の《オプタシア》を見た」ことを伝えるところです(二四・二三)。ザカリアの場合は、民衆がダニエル書をよく知っていて、ザカリアがダニエルのように「幻」を見たと理解したという解釈もありえますが、ここもエマオ物語での用例と同じく、天使の「現れ」を見たと理解する方が適切でしょう。三回目は使徒二六・一九です。ここでは「天からの幻」という意味で用いられています。

 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。(一・二三)

 アビヤの組が神殿で祭司の務めをする一週間が終わり、ザカリアは自分の家に帰ります。彼の家がどこにあったのかは分かりません。後にマリアがエリサベトを訪ねる記事(一・三九〜四〇)で、「山里に向かい、ユダの町に行った」とありますが、この記事の解釈には議論があります。その議論はその箇所の講解に譲り、ここでは、ザカリアの家がどこにあっても誕生物語の信仰的理解には関係はないとして、先に進みます。

 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」。(一・二四〜二五)

 祭司に課せられる「女に触れない」期間が終わり、エリサベトは懐妊します。しかし、「五か月の間身を隠して」、すなわち人に会うことなくひっそりと暮らして、懐妊の事実を秘めておきます。五か月経って懐妊した身体を隠すことができなくなったとき、人々に懐妊の経緯を語り、自分になされた神の恵みの業を公に賛美します。先に見たように、イスラエルの女性にとって「不妊の女」は恥とされていましたが、その恥を取り除いてくださった神を賛美します。老齢の夫妻に子を与えるのは神の働きです。エリサベトはこの賛美で、サラやラケルやハンナらのイスラエルの祝福された母の系列に連なります。