市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第44講

145 弟子たちに現れる(24章36〜49節)

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(二四・三六)

 復活されたイエスが週の初めの日の夕方または夜に、弟子たちが閉じこもっている部屋に現れた出来事は、ルカ福音書のこの段落とヨハネ福音書の二〇章(一九〜二三節)の段落の二箇所で伝えられています。この二つの段落は、その使信とか意義はかなり違った内容になっていますが、同じ出来事を伝える共通の伝承によるものと見られます。それは、出来事の日時が同じ週の初めの日の夜であること、現れたイエスが「シャローム」(平和があるように)というユダヤ人の挨拶をもって現れておられること、恐れる弟子たちに手や足を見せて御自分であることを示しておられることなど、出来事の基本的な内容が共通していることから分かります。他でもしばしば見られるように、ここもルカとヨハネが共通の伝承を用いている一例です。
 イエスを異邦人に引き渡して処刑したユダヤ教指導層を恐れて家の戸にかんぬきをかけて閉じこもっている弟子たちの部屋に、忽然とイエスが現れ、ユダヤ人が日常人に会ったときに使う《シャローム》という挨拶をされます。これは「あなた(がた)に平和があるように」という意味の挨拶です。ヨハネ福音書(二〇・一九、二一)ではこの挨拶が繰り返されています。

 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。(二四・三七)

 あまりの突然の出来事に弟子たちは驚き、それがイエスであることが分かりません。むしろ、人間は超自然的な人格とか霊界からの出現に本能的におびえるものですが、この時も弟子たちは「亡霊を見ているのだ」と思って恐れおののきます。ここで弟子たちは「《プニューマ》を見ていると思って」恐れおののいた、とルカは書いています。《プニューマ》は広く「霊」を指す語ですが、ここでは死んで陰府《シェオール》に下り、霊魂だけになった者が地上に現れた姿、すなわち「亡霊」(亡くなった人の霊)を見ていると思って恐れるのです。
 このように、弟子たちが突然自分たちの前に現れたイエスを見ておびえた別の例がマルコ福音書(六・四九〜五〇)にあります。そこでは、嵐で漕ぎ悩む弟子たちの舟に湖上を歩いて近づいてこられたイエスを見て、弟子たちは《ファンタスマ》(幽霊)を見ているのだと思い、恐ろしさのあまり大声で叫んでいます(マタイも同じ)。この出来事は、マルコではイエスの地上の働きの時期に起こったこととしてガリラヤ伝道の中に置かれていますが、実際はイエスの十字架死のあとガリラヤに帰って漁師の生活に戻っていたペトロたちが体験した復活者イエスの顕現の出来事でした。この物語には、初めは誰であるか分からず、異常な出現に弟子たちはおびえたこと、出現された方からの語りかけでイエスだと分かったこと、その方を神として拝したこと(マタイ一四・三三)など、顕現物語の伝承の特色をそなえています。
 後に弟子たちが自分たちの顕現体験を証言し、それによってイエスの復活を告知したとき、「お前たちはイエスの亡霊を見ただけだ」と批判する者も多かったと思われます。その批判を知っているルカは、顕現されたイエスには身体があったことを力をこめて証言し、そのような批判に対抗します。以下(三八〜四三節)の物語は、復活されたイエスには身体があったことを強調するルカの特色がよく出ています。

 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。(二四・三八〜三九)

 亡霊を見ているのだと思い恐れおののいている弟子たちを、イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と叱責し、手や足を見せて、御自分に身体があり、亡霊などではないことを示されます。おそらくイエスは両手を差し出して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言われたと思われます。こうして、イエスは弟子たち自らが確認するように促されます。イエスは「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言って、さらに御自分が亡霊ではなく、身体を具(そな)えたイエス自身であることを強調されます。

 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。(二四・四〇)

 この節を欠く写本があり、本文の決定については議論があるところです。たしかに前節と重複している面もあり、なくても物語の進行には差し支えがありませんが、これを写字生によるヨハネ二〇・二〇からの挿入とする必然性もないと思われます。ヨハネ二〇・二〇では「イエスは手と脇腹をお見せになった」となっています。これは後でトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われるようになることを先取りしていると見られます。週の初めの日の夜に起こった復活者イエスの顕現を伝えるさいに、ルカとヨハネは共通の伝承に依拠しているようですが、ヨハネの方がむしろトマスの物語に合わせるために「手と脇腹」としているように思われ、ルカの「手と足」の方が元の伝承に近いのではないかと考えています。

 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(二四・四一〜四三)

 死んでしまわれたと嘆き悲しんでいたイエスが生きておられることを知って、弟子たちは大いに喜びますが、今自分たちが経験していることが何を意味するか、彼らはまだ理解できないでいます。ただ驚き不思議がっている弟子たちに、イエスはさらに彼らの前で魚を食べて見せて、彼らが見ているのは幻影ではなく、身体を持った人間であることを証明されます。魚は幻影ではなく現実の物体です。それを食べて呑み込んでしまう動作をするものは、幻影ではなく現実の人間です。後にイエスの復活を証言した弟子たちは、イエスが自分たちの前で食事をされたこと、あるいは自分たちがイエスと一緒に食事をしたことを重要な体験として証言しています。とくにルカは復活されたイエスと一緒に食事をしたことを重視しています(ここや二四・三〇、使徒一〇・四一)。
 復活されたイエスが弟子たちと食事をされたという報告は、マルコとマタイの顕現記事にはなく、ルカとヨハネの顕現記事にあります。ヨハネ福音書では補遺の二一章(一〜一四節)の奇跡的大漁の時、復活されたイエスが弟子たちと朝食を共にされたことを報告しています。ルカはこの奇跡的大漁の伝承を知っていて五章でペトロの召命記事として用いていますが、そこでは食事のことには触れていません。ルカはその伝承の食事の部分をここで用いたのではないかと推察させます。そのさい、魚は隠れ家の一室という状況に合わせて「焼いた魚の一切れ(一部)」という形になっています。

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。(二四・四四)

 弟子たちに現れた復活者イエスは、ご自分に身体があることをお示しになった後、この出来事が聖書の成就であることを語り出されます。この二点(復活の身体性と聖書の成就)はルカがとくに強調したい二点です。
 先には聖書を指すのに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(二七節)とありましたが、ここでは「モーセの律法と預言者と詩編」となっています。これは当時のユダヤ教聖書の三部(律法、預言者、諸書)を指していますが、諸書の部はまだ完結していなかったようで「詩編」で代表させています。事実、最初期共同体がキリスト預言として引用したのは預言者の書と詩編が圧倒的に多かったようです。
 この三部のすべてにおいて「来たるべき方(救済者)」について書かれていることを、イエスは「わたしについて書いてある事柄」とされて、それが「必ずすべて実現する」、すなわちご自身の身にすべて起こることが必然であることを語り出されます。伝承とルカはそれをあの神的終末的必然(=救済史的必然)を指し示す《デイ》(ねばならぬ)を用いてギリシア語圏の読者に伝えます。しかもルカは、それを最初期共同体が発明した新しい聖書の読み方としてではなく、イエスが地上におられた時に弟子たちに説かれた聖書の読み方として伝えます。四四節の原文は「わたしがまだあなたたちと一緒にいたときに、あなたたちに言った言葉はこうであった」で始まり、その内容として「すなわち、わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」という文が続いています。
 イエスは地上におられたとき、最後にエルサレムに向かう旅の途上で繰り返しご自分の受難と復活を予告されました(九・二一〜二二、四四、一八・三一〜三三)。とくにエルサレムに入られる直前になされた三度目の予告では、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と前置きしてそれを語っておられます(一八・三一)。ところがそれを聞いた弟子たちは「これらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」とされています(九・四五、一八・三四)。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。(二四・四五〜四八)

 地上でイエスが聖書が預言するキリスト受難の奥義を語り出されたときには、その言葉の意味は隠されていて弟子たちは理解できませんでした。復活者イエスは「聖書を悟らせるために」今弟子たちの《ヌース》(理解力)を「開いて」、聖書の預言の内容を語り出されます。ここで、先にエマオ物語(三一節と三二節)で用いられていたあの動詞《アノイゴー》(開く)の複合形が用いられています。
 人の「心の目」《ヌース》を開いて聖書の隠された奥義を悟らせるのは聖霊の働きです。ヨハネ福音書では「訣別遺訓」において、去って行かれるイエスがすぐに戻って来ることを約束され、戻ってこられたイエスは「別の同伴者」《パラクレートス》として弟子たちを導くと約束され、その約束が聖霊の働きとして実現すると語られていました(ヨハネ一四・一〜三、一五〜一八、二五〜二六)。ルカにはこのような記事はありませんが、ここで復活されたイエスがなされる働きとして、聖霊による啓示の働き(聖書の解き明かし)が物語られています。
 復活されたイエスが弟子たちの「心の目を開いて」語られた内容の前半「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」は、地上で弟子たちに語られた受難予告の言葉と同じです。しかし、その後半(四七〜四八節)にはルカ独自の使信が出てきます。その後半部を原文の語順で並べると次のようになります。

 「そして、宣べ伝えられる、彼の名によって、悔い改めが、罪の赦しに至らせる、すべての民に、エルサレムから始まり、あなたたちがこれらのことの証人となって」

 最初の動詞「宣べ伝えられる」は不定詞形ですが、この不定詞は四六節の「次のように書いてある」の内容を示す三つの不定詞形の動詞の三番目になります。すなわち、「苦しみを受ける」、「復活する」、「宣べ伝えられる」の三番目です。従って、この「宣べ伝えられる」は、ルカにとって「苦しみを受ける」と「復活する」と並んで、聖書に書かれていることの内容になるわけです。
 宣べ伝えられる内容は「罪の赦しに至らせる悔い改め」です。「罪の赦し《アフェシス》」はルカが世界に告知しようとする福音の中心主題です。そのことは、ルカがイエスの「神の国」告知活動の主題提示として最初に置いたナザレの会堂でのイエスの説教におけるイザヤ書の引用(四・一八〜一九)に示されていました。そこでイエスがご自分の「福音」の内容として引用しておられるイザヤの言葉で、「解放」と「自由」と訳されているギリシア語原語は《アフェシス》です。この《アフェシス》がここでは当時の共同体の通例の用例に従って、「罪過(複数形)の《アフェシス》(赦し)」という形で用いられています。こうしてルカはイエスの福音告知全体を《アフェシス》で囲い込んでいることになります。ルカの時代(七〇年以後の最初期後期)のパウロ系共同体では、パウロが用いなかった《アフェシス》が、「罪過の赦し」という形で福音の中心主題になっていました(コロサイ一・一三〜一四、エフェソ一・七)。その流れの中でルカも「罪の赦し」を構成原理として福音書を著述します。

ルカの《アフェシス》の用例について詳しくは、拙著『福音の史的展開U』487頁以下の第八章第二節「U 罪の赦しの福音」の項を参照してください。

 ルカは「罪の赦しが宣べ伝えられる」とは言わないで、「罪の赦しに至らせる悔い改めが宣べ伝えられる」と言っています。王が税金の免除を布告するように(この場合は民は何もしなくても税金は免除されます)、神が諸国民に罪の赦しを布告しておられるというのではなく、神は世界の諸国民に「悔い改め」《メタノイア》を布告しておられるのです。すなわち《メタノイア》をするように求めておられるのです(使徒一七・三〇)。《メタノイア》は方向転換です。たんなる道徳的改善ではなく人間の在り方の根本的な方向転換です。この《メタノイア》には「罪の赦しに至らせる」という説明がついています。「罪の赦し」はルカにとって福音の中心内容ですから、それに至らせる《メタノイア》は告知を聞く人間にとってもっとも重要な問題になります。では「罪の赦しに至らせる《メタノイア》」とはどのような方向転換でしょうか。
 問題は「彼の名によって」という句の意味と働きです。新共同訳はこの句を直前の「宣べ伝えられる」にかけて、「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と訳しています。しかし、イエス・キリストの名によって宣べ伝えられるというのはあまり実質的な内容がなく、この句は直後の《メタノイア》にかけて、「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改め」と訳すのが適切であると考えられます(協会訳、岩波版佐藤訳を参照)。「彼の名による悔い改め《メタノイア》」とは、イエス・キリストに無関心とか敵対していた在り方から、全面的にこの方に向かう在り方への方向転換です。「彼の名への方向転換」です。そうすることで「彼の名による」罪の赦しを受けることができる《メタノイア》です。神はそのような《メタノイア》を求めておられ、その《メタノイア》に対して「罪の赦し」を与えられるという告知です。
 「彼の名による《メタノイア》」は「彼の名による信仰」と同じです。パウロは「信仰による義」を唱えました。その信仰とは「イエス・キリストの信仰」、すなわちイエス・キリストに自分を全面的に投げ込んで委ねる人間の在り方です。ルカはこれを「イエスの名による《メタノイア》」と呼んでいるのです。そして「義」というユダヤ教的用語を避けて、「罪過の赦し」という異邦人にも分かりやすい用語で、神に受け入れられている状態を指します。この傾向はすでにパウロ以後のパウロ名書簡(コロサイ書やエフェソ書)に現れています。こうしてルカは、「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改め」という表現で、パウロの「信仰による義」と同じことを言っているのです(使徒一三・三八〜三九)。
 このように何が「宣べ伝えられる」のか、その内容が指し示された後、それがどのように「宣べ伝えられる」のか、その仕方が指示されます。それは「あなたたちがこれらのことの証人となって、エルサレムから始まり、すべての民に」宣べ伝えられなければなりません。
 ここで宣べ伝える働きの担い手が「あなたたち」と強調の代名詞で指示されています。今ここで復活されたイエスに出会っているあなたたちこそ、「これらのこと」、すなわち地上での働き、十字架上の死、三日目の復活など、イエスの身に起こったすべてのことの証人となって 「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改め」を宣べ伝えるようにと、その働きが委ねられます。この働きを委ねられた人たちが「使徒」と呼ばれることになります。
 その働きは「エルサレムから始まり」ます。エルサレムはユダヤ教の聖地であり牙城です。そこに神殿があり、神が礼拝され、聖書が語るすべてのことが実現する場所です。イエスもガリラヤから出てきてエルサレムで神から与えられた使命を成し遂げられました。イエスにおいて成就した神の最終的な救済の告知も、ここから始まらなければなりません。ルカの時代は、福音活動がエルサレムから始まりローマに達したことを確かな歴史的事実として回顧することができる時代になっています。ルカはこれを神の御計画として、復活されたイエスが語られた言葉の形で記録します。
 この救済の告知は聖書が成就する場所としてエルサレムから始まりますが、エルサレムに留まっていることはできません。それはユダヤ教の枠を超えて世界の「すべての民」に宣べ伝えられなければなりません。ルカは、この救済の告知が最初期の共同体によって、とくにパウロの働きによって担われて、ユダヤ人以外の異邦諸国民に宣べ伝えられ、さらに拡大しつつある歴史的事実を見ています。ルカはそれを神の御計画として復活者イエスの言葉の形で書きとどめます。これは、広く世界の諸国民に福音を告知することを使命として二部作を書いているルカにふさわしい箇所ということになります。ルカはこのイエスの命令の実現として、福音がエルサレムから始まり、諸国民統合の中心であるローマに到達する過程を、彼の著作の後半となる使徒言行録で描くことになります。

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。(二四・四九)

 復活されたイエスは使徒たちに「あなたたちがこれらのことの証人となって」この救済の出来事を世界に告知するように命じられましたが、復活されたイエスは命令だけではなく、それを成し遂げる力を与えることも約束されます。復活されたイエスが送ると約束された「父が約束されたもの」というのは、(この箇所と同じ時期に執筆されたと考えられる)使徒言行録の並行記事からすると、「聖霊のバプテスマ」を指すことになります。その記事にはこうあります。

 「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」。(使徒一・三〜五)

 ここでは「父の約束されたもの」に「前にわたしから聞いた」という説明がついています。イエスが地上におられたとき、弟子たちに聖霊について語られたことを伝える語録は比較的少ないのですが、ルカはそれらの語録を聖霊を与えるとの父の約束と見なして、このような説明をつけたと見られます。とくに、求める者には必ず与えられるという約束について、マタイ(七・一一)は「・・・・・父は、求める者に良いものを与えてくださる」と書いていますが、ルカ(一一・一三)はそれを「・・・・父は、求める者に聖霊を与えてくださる」と書いて、聖霊を「父の約束されたもの」としています。聖霊が終末時の神の約束であることは、ルカに限らず福音の基本的な告知です。
 聖霊を受けることは力を受けることです(使徒一・八)。この聖霊の力がここでは「高い所からの力」と表現されています。「高い所から」すなわち神から来る聖霊の力に「覆われる」ことは、聖霊によってバプテスマされることと同じです。「バプテスマされる」とは「浸される」ことですから。最初期の共同体は、聖霊の力に満たされることを、このような様々な比喩を用いて表現しました。
 「までは」という語が示しているように、ルカは復活されたイエスに会う体験(顕現体験)と聖霊を受ける体験を別の出来事としています。しかし実際には、顕現体験、聖霊体験、召命体験の三者の関係は多様であり複雑です。そのことは別のところで扱いましたので、ここではルカの伝えるところだけを検討します。
 弟子たちはすでに復活されたイエスを見ています。しかし、まだ聖霊の力を受けていません。その力を受けるまでは証人としての働きをすることができません。ルカは、その聖霊の力を受ける出来事は五十日後のペンテコステの日のエルサレムで起こったという図式で使徒たちの働きを記述していきます。それで、そのことが起こるまでは「都にとどまっていなさい」ということになります。
 このルカの図式では、弟子たちが過越祭の後ガリラヤに戻ったという行動は入ってくる余地はありません。しかし実際は、マルコ福音書が伝えているように、弟子たちは過越祭の後ガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスに会い、決定的な召命を体験し、ペンテコステの祭りの日までに家業と家財を捨ててエルサレムに移住してきたと見られます。出来事から百年近く後の二世紀初頭に歴史を記述しているルカにとって、このような経過の細部は問題ではなく、すべてはエルサレムで起こり、エルサレムから始まったとされることになります。

ルカ福音書の最後の顕現物語の部分は、使徒言行録と共に二世紀の初頭に書かれたものと見られることについは、拙著『福音の史的展開U』の第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」を参照してください。また、イエスの刑死のあと弟子たちがガリラヤに戻り、そこで顕現と召命を体験し、エルサレムに移住した経緯については、拙著『福音の史的展開T』の「序章・復活者イエスの顕現」を参照してください。なお、顕現体験、聖霊体験、召命体験の三者の関係についても、この章を参照してください。