市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第43講

144 エマオで現れる(24章13〜35節)

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。(二四・一三〜一四)

 「ちょうどこの日」、すなわち週の初めの日(日曜日)で、女性たちが墓が空になっているのを見つけた日、「二人の弟子」がエルサレムの近くにあるエマオという村に向かっていました。この「二人の弟子」は、イエスが選ばれた「十二人」の弟子団には含まれていません。そのことは、この二人が「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まっていた」(二四・三三)とあり、この「二人」は「十一人」(十二人からユダを除く十一人の使徒団)の中の二人でないことが確認できます。
 エマオは「エルサレムから六十スタディオン離れた」ところにある村と、そのエルサレムからの距離が記述されています。一スタディオンは約一八五メートルですから、六十スタディオンは約十一キロになります。歩いて二時間半ほどで行ける村です。

エマオの位置については議論があります。現在のパレスチナの地理に詳しい研究者によれば、エマオは現在のアムワスであるとされています。しかし、アムワスはエルサレムから約二三キロ(一二〇スタディオン)あり、ルカの記述とは合いません。ヨセフスはエルサレから三〇スタディオンのところにある現在のカローニエをエマオとして言及しています。なお、ルカの記事に基づいて、エルサレムから六〇スタディオンの距離にあるエル・イクレーベに、エマオでの顕現を記念するフランシスコ派の修道院が一五世紀に建てられました。エマオの位置は正確に確認することはできませんが、わたしたちの新約聖書理解にとっては、それがエルサレムから遠くないユダヤの村であるという事実で十分です。

 この「二人の弟子」が何のためにエマオに向かっていたのかは明らかではありませんが、エマオに着いてからイエスを夕食に招き、、さらに泊まるように勧めていることから、この二人はエマオの住人で、イエスを自宅に招いたのではないかと考えられます。二人は過越祭のためにエルサレムに来ていましたが、(ある程度以上の距離の旅ができない)安息日が明けた翌日の日曜日に、自宅に戻る途中であったと見てよいでしょう。
 イエスはガリラヤだけでなく、南部のユダヤでも活動しておられます。マタイ(一九・一〜二)は「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」と伝えています。ヨハネ福音書によると、イエスは最後の過越祭の前年の秋の仮庵祭からずっとエルサレムとその付近のユダヤ地方で活動しておられます。したがってユダヤ地方に多くの「弟子たち」がいるのは当然で、彼らの存在が最初期のエルサレム共同体の成立に不可欠の前提となります。エマオの住人にイエスの弟子がいることは不思議ではありません。彼らはイエスがガリラヤで選ばれた「十二人」とは別のグループになります。
 すぐ後(一八節)に「その一人のクレオパという人」という名が出てきますが、この「クレオパ」はヨハネ福音書一九章二五節に出てくる「クロパ」と同一人物ではないかという推定が、古代教会のごく初期から行われてきました。そうすると、この「二人の弟子」はクレオパとその妻と推測することも可能です(この場合女性だから名があげられなかったと考えられます)。一方、古代教会の伝承によると、クロパの息子のシモンという人物が「主の兄弟ヤコブ」の後を継いで二代目のエルサレム教会の司教に選ばれたとされています(エウセビオス『教会史』三・一一)。血統を重視する古代の継承思想からすると、シモンはイエスの血縁につながる者であるので選ばれたということが強く推測され、クロパはイエスの血縁者であったとされます。さらに、この「二人の弟子」のもう一人は彼の息子のシモンではないかという推測もなされています。もしそうであれば、この「二人の弟子」は後のエルサレム共同体で重要な地位を占める二人であり、彼らの顕現体験が重要な伝承として語り伝えられた事情もよく理解できます。

ヨハネ福音書一九章二五節には、「ところで、イエスの十字架のそばには、彼の母、彼の母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた」とあります。「クロパの妻マリア」は、直前の「彼の母の姉妹」と同格と読んで、「彼の母の姉妹であるクロパの妻マリア」とすることも文法上は可能ですが、そうすると「彼(イエス)の母」もマリアですから、二人の姉妹が同じ名前であることになり、これはありそうにないことです。「彼の母の姉妹」と「クロパの妻」は別人として、四人の女性が立っていたとしなければなりません。エウセビオスが引用する古代教会の伝承(前出)は、クロパをイエスの父ヨセフの兄弟とし、「主の兄弟ヤコブ」の次にエルサレム教会の主教となったシメオンの父としています。

 この二人は「弟子」ですから、過越祭のエルサレムで起こったイエスにかかわる出来事は身近に見ていたはずです。この二人がガリラヤからイエスに従ってきた「使徒たち」とどれほど身近であったかは確認できませんが、もしこの「クレオパ」がヨハネ福音書一九章二五節に出てくる「クロパ」と同一人物であるならば、彼の妻がイエスの母と一緒にイエスの十字架の前にいたことになり、「使徒たち」とかなり近い親密な交わりにあったことが推測されます。そうすると、日曜日の早朝に墓が空であることを見つけた女性たちが報告したとき、それを聞いた「使徒たち」と一緒にいた可能性もあります。こうして、信じていたイエスが十字架上で刑死し、その遺体までがなくなっていたという出来事に失望落胆して、「この一切の出来事について」どう考えてよいのか分からず途方に暮れ、(一七節にあるように)「暗い顔をして」互いに語り合っていたのでしょう。

 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(二四・一五〜一六)

 ルカは二人の話し合いを「議論する」という動詞を用いて描いています。二人はイエスの身に起こった出来事、とくに刑死という事実で終わった出来事の意義が理解できず、ああではないか、いやこうであるにちがいないと、議論が続いていたのでしょう。そこに「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」ます。近づいてきた人物を「イエスご自身」と指し示すのはこの物語を伝えるルカまたは伝承であって、「二人の弟子」当人にとっては一人の見知らぬ旅人にすぎません。二人がそれがイエスだと分からない理由を「二人の目は遮られていて」分からなかったのだとしています。
 復活されたイエスが弟子たちに現れた出来事を伝える顕現物語には、共通のパターンがあります。最初は、顕現を体験した弟子たちはそれが誰であるか分かりません。今自分はある人格に出会っているのだということは分かるのですが、それが誰であるかが分かりません。次に、現れた方から語りかけるなど、その方からの何らかの働きかけによって初めてそれがイエスだと分かるようになります。そして最後に、現れた方の神的な栄光にひれ伏して、その方を拝するに至ります。
 復活されたイエスに出会う人間は、最初自分に向かい合っている人格が誰であるかが分かりません。それは当然です。それは、この体験は人間が今まで経験したことのない種類の出会いだからです。人間は異次元からの顕現に遭遇すると、深い恐れを感じます。それで旧約聖書における神や天使たちの顕現においてはいつも、「恐れるな」という呼びかけで始まります。もはや地上で親しく交わりをもっていたイエスではなく、復活者として異次元から働きかけるイエスに直面して、地上の弟子たちは「亡霊ではないか」と怯えたり(二四・三七、マルコ六・四九)、パウロの場合のように倒れ伏して「あなたはどなたですか」と訊ねざるをえません(使徒九・五)。
 復活者イエスが通常の人間との出会いのような形で顕現された場合も報告されています。墓の前でマグダラのマリアは復活されたイエスに出会いますが、はじめはそれがイエスだとは分からず園丁だと思っています(ヨハネ二〇・一四〜一五)。ここのエマオに向かう二人の弟子の場合も、イエスは一見ふつうの旅人に見える姿で現れておられます。二人は見知らぬ旅人と話をしている思って対話を始めます。そのことをルカは、「二人の目は遮られていた」からだと説明しています。どういう形で現れるかは、現れる方の主権に属すことで、その働きを受ける人間が決めることではありません。この場合は、復活されたイエスが見知らぬ旅人に見える姿で現れたことを、ルカは神の側の配慮として、「(神によって)遮られていた」という受動態の動詞で描きます。
 二人とイエスの出会いは、イエスが彼らに追いつくという形で起こったと見られます。二人はその旅人も自分たちと同じようにこれまでエルサレムに滞在していて、これからエマオに向かう者として扱っています(一八節、二八節)。この出会いは、語りかけようとしてイエスの方から彼らに追いつき、一緒に歩き始められたことになります。

 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。(二四・一七)

 イエスは二人が歩きながら話している会話の内容を知っておられます。しかし、彼らにその意義を教えるために、「その話は何のことですか」と訊ねて、彼ら自身にそれを語らせようとされます。二人は「暗い顔をして」立ち止まり、話し始めます。彼らが「暗い顔をして」いたのは、「この数日そこ(エルサレム)で起こったこと」、すなわち彼らがこの過越祭のエルサレムで体験したことが、あまりにも彼らを落胆させ悲しませたからです。

「暗い顔をして」と訳されている語は、「悲しげに(相手を)見つめて」という訳も可能です。また、「悲しげな顔をして歩きながら」と読む写本もあります(NRSV欄外)。どの読みや訳を採っても、二人の弟子の落胆した暗い心境を指していることは同じです。

 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。(二四・一八)

 「二人の弟子」とクレオパという名の人物については先に述べました。イエスの問いにクレオパが答えたとされているのは、二人の中でクレオパの方が年長で、二人を代表する立場の人であったからでしょう。クレオパはイエスの質問に驚きを示しながら答えています。その驚きは「あなただけはご存じなかったのですか」という問い返しによく現れています。クレオパは、この見知らぬ旅人も自分たちと同じくエルサレムからエマオに向かう旅人として一緒に歩いているので、当然これまでエルサレムに滞在していたものと理解しています。エルサレムにいながら、「この数日そこで起こったこと」を知らないとは驚きだ、という気持ちをこめてこう問い返しています。この数日そこで、すなわち過越祭のエルサレムで起こった事件は、エルサレム中の人は皆知っており、大きな衝撃を受けたのに、そこに居合わせていながら「あなただけはご存じなかったのですか」という驚きです。

 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」。(二四・一九)

 イエスは彼らに語らせるために、「それはどういうことか」と重ねてお訊ねになります。今度は「二人」が答えます。実際に語ったのはクレオパかもしれませんが、ルカはこれを「二人は言った」としています。原文は「彼らは言った」で、これは以下の対話をイエスと弟子たち一同の対話として読ませたいルカの意図を示唆しています。以下の対話の「わたしたち」は、この二人だけでなく弟子たち一同を指していると理解すると、この対話の意義がいっそう明らかになります。
 ユダヤ人の弟子たちは、イエスを「行いにも言葉にも力のある預言者」として従っていたのでした。「《エルガ》(働き、行い)において力がある」とは、イエスが病人をいやしたり悪霊を追い出したり、多くの力ある業(奇蹟)をされた働きを指しています。「《ロゴス》(言葉)において力がある」とは、イエスが「神の支配」を告知されたり、父の恩恵を語られたり、また律法学者たちと議論されたとき、その言葉に圧倒的な権威があったことを指しています。それは悪霊さえも従う権威でした。この「《エルガ》と《ロゴス》において力がある」という表現には、パウロが自分を通してキリストが「《ロゴス》と《エルガ》において」力強く働かれたとしたローマ書(一五・一八)のエコーが感じられます。福音書もイエスの働きを要約するときはいつも「御国の福音を告げ知らせる教えの言葉」と「民衆のあらゆる病気や患いをいやされた働き」にまとめています(マタイ四・二三など)。
 イエスの働きと言葉は、「神と民全体の前で」で力あるものでした。ここの「民」《ラオス》は神の民であるイスラエルを指しています。イエスはイスラエルの民全体の前でなされた力ある働きと言葉によって、ご自分が神からイスラエルに遣わされた預言者であることを示されました。ユダヤ人の弟子たちは、イエスをそのような預言者として信じて弟子となり、従ったのでした。

 「それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです」。(二四・二〇)

 このようにイエスは神から遣わされた預言者であったのに、こともあろうに、「わたしたちの祭司長たちや議員たち」、すなわちわたしたち神の民イスラエルの指導者たちは、イエスを裁判にかけ、死刑に相当すると判決し、異教徒の支配者であるローマ総督に(死刑を執行してもらうために)「引き渡し」、ローマ人の手によって十字架につけて殺してしまったのです、と二人は嘆き悲しんでいる訳を話します。

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。(二四・二一)

 ユダヤ人の中にはイエスを神から遣わされた預言者として認める者も多くいたのですが、「わたしたち」イエスに従った弟子たちはさらに一歩進めて、この方こそ終わりの日に現れてイスラエルを異邦人の支配から解放してくださるあの預言者、すなわち「メシア」であると信じてエルサレムまでついてきました。弟子たちがイエスをそのような当時のユダヤ教徒が期待していたメシアであると期待したことは、カイサリア・ピリポでのペトロのメシア告白とその後の福音書の記事によく示されています。「わたしたち」は、エルサレムに入られるならばイエスは大いなる神の力を現し、イスラエルの民を異教徒の支配から解放する目覚ましい働きをされるに違いないと「望みをかけていました」。ところがエルサレムで起こった事態はこの期待を裏切る悲惨な結果に終わりました。イエスは神殿当局に逮捕され、最高法院で死刑の判決を受け、異教の支配者であるローマ総督に引き渡され、十字架につけられて処刑されたのでした。
 「しかも、そのこと(イエスの刑死)があってから、もう今日で三日目になります」が、何も起こりません。「わたしたち」がイエスに置いた信頼と抱いた期待は裏切られたままです。「わたしたち」は落胆し、深い悲しみを抱いたままエルサレムを去り、故郷の村に帰るところです、と二人は「暗い顔」をしている理由を語ります。

 「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」。(二四・二二〜二三)

 二人は続けて、そのことがあってから三日目になる」今日の早朝に起こった出来事を語ります。仲間の婦人数人が朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来て、そこに現れた天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたと報告します。ここの「遺体」の原語は「からだ」《ソーマ》です。
 この報告が「わたしたちを驚かせました」と言っているのは、この報告を受けた弟子たち一同が「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(二四・一一)という、この報告に対する弟子たちの反応を指しています。弟子たちは、死んで葬られたイエスが復活して、その「からだ」が墓を去ってどこかへ行くというようなことは理解も想像もできず、その報告を聞いて、ただ驚き、不審に思い、戸惑うだけでした。弟子たちにとって女性たちの報告は「たわ言」としか思われませんでした。

 「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。(二四・二四)

 それでも事実を見届けるために「仲間の者が何人か墓へ行ってみます」。この記事は一二節の記事に対応していますが、一二節ではペトロ一人が墓に走っています。二二〜二四節の記事は、すでに初版で報告している空の墓の記事の後に顕現物語を付け加えて増補改訂するさいに、その空の墓の記事との整合性を維持するために書き入れた部分だと考えられますが、墓に行った弟子が複数形になっているのは、ルカが用いたヨハネ(二〇・一〜一〇)との共通の伝承が墓に走った弟子を二人としていることの影響である可能性が考えられます。
 ペトロと他の弟子が墓に行って確認したところ、女性たちが報告したとおり、墓にはイエスはおられませんでした。女性たちは「イエスのからだ」がないことに気づいていますが、ここではイエスがおられなかったという表現になっています。ここにも復活の「具体性」が出ています。そこにイエスの体がない事実が、そこにイエスがおられないことを指し示しています。

 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。(二四・二五〜二六)

 十字架の死と空の墓の事実に直面して驚き途方に暮れている弟子たちに向かって、イエスはそれを彼らの不信仰であると嘆き、聖書に基づくメシアへの信仰を説かれます。弟子たちは、メシアと信じてきたイエスが十字架上に刑死された事実にすっかり落胆し嘆き悲しんでいるが、それは預言者たちが預言していた言葉を信じることができないからだとし、弟子たちの「物分かりが悪く、心が鈍い」ことを嘆かれます。この嘆きは、神の言葉を預かってイスラエルの民に語った預言者たちが、その言葉を理解せず拒否しつづけた民の心の頑なさと無理解を嘆いた歴史の延長上にあります。弟子たちの無理解を嘆いた上で、復活されたイエスご自身が預言者たちのメシアについての預言を解き明かされます。
 ここの《ホ・クリストス》は(底本では)小文字が用いられており、「油注がれた者」という普通名詞として扱われています。口語訳と新改訳は「キリスト」と訳していますが、新共同訳は(NRSVなど最近の翻訳と同じく)「メシア」と訳しています。当時のユダヤ教徒の間の対話としては、彼らの間で待望されていた「油注がれた者」(=メシア)に関する対話として「メシア」と訳すのが順当と考えられます。底本の小文字の使用も、そういう理解からでしょう。しかし、「苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」という預言は、福音が告知する「キリスト」についても適用される重要な告知内容ですから、キリスト告知の内容として引用するときは、「キリスト」と訳すのが当然です。

《ホ・クリストス》の訳語の問題は、拙著『マルコ福音書講解T』330頁の「メシアとキリスト」の項を参照してください。

 神から油を注がれて民の救済のために遣わされるメシアは、「このような苦しみを受ける」、すなわち民の指導者からは見捨てられ、弟子に裏切られ、敵対者に引き渡され、神に打ち砕かれるような死を遂げることは、預言者たちが預言したことであり、このような苦しみを受けた後に、メシアはその本来の栄光の地位に高められることになっているではないか、と復活されたイエスは弟子たちに語られます。ここの「〜することになっている」(新共同訳では「〜するはずだ」)には、あの神的な必然を指す《デイ》が用いられています。英語の"must"に相当するこのギリシア語は、神が働かれるときの必然を表現しています。とくに、神が終末的な救済の働きを成し遂げられるときの必然として、キリストの受難と復活を語る文に用いられます(マルコ八・三一など)。その聖書に預言されている必然を理解しているならば、ただ嘆き悲しんでいるのではなく、受難に続いて起こる神の栄光の働きを待つことができたであろう、と諭されます。

 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(二四・二七)

 そして、前節の「預言者たちの言ったことすべて」のことが、続けて「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていること」と具体的に説明されます。イエスの時代では、ユダヤ教の「聖書」の範囲はまだ流動的でしたが、少なくともモーセが書いたとされる《トーラー》(律法、モーセ五書)と「預言者」(ヨシュア記、士師記、サムエル書、列王記の「前の預言者」とイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言者の「後の預言者」)は「聖書」《グラフェー》として権威が確立していました。詩編を代表とするその他の文書群「諸書」はほぼ形を取っていましたが、まだ確定はしていなかった(閉じられていなかった)と見られています。ルカがここで「モーセ(五書)とすべての預言者から始めて」という句に「聖書《グラフェー》全体」を加えているのは、最初期の共同体が詩編など諸書の中の文書も、メシアの受難と復活を預言する聖書預言として用いていた状況を反映しているものと見られます。ルカは、彼の時代の共同体が聖書全体をメシア・キリストとしてのイエスの受難と復活を預言するものとして解釈している状況を、復活されたイエスの働きとしてエマオ物語に取り入れます。最初期の共同体、とくにルカが活動した異邦人を主体とする共同体が、聖書(旧約聖書)をもっぱら来たるべきキリストの預言として読んでいた状況が浮かび上がります。
 イエスは聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを「説明された」と言われています。この「説明する」と訳されている動詞は《ヘルメネウオー》の複合形ですが、これは「解釈する」とか「翻訳する」という意味で用いられる動詞です。聖書の言葉は解釈されなければなりません。どう解釈するかは信仰にとって決定的に重要です。ここでは復活されたイエスご自身が聖書を解釈して、それまで弟子たちの目に隠されていた聖書の言葉の意味を解き明かされます。この復活されたイエスご自身による聖書の解釈を聞いた弟子たちの体験がどのようなものであったかは、後の三二節で語られることになるので、そこで扱うことにします。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。(二四・二八)

 二人の弟子とイエスの一行三人は目指す村エマオの近くまで来ますが、イエスはなおも先へ行こうとされます。この二人の弟子はエマオの住人であると考えられるので、この不思議な人物からさらに話を聞きたかったのでしょう、一緒に自分たちのところに泊まるようにイエスを引き止めます。

 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。(二四・二九)

 時刻は夕方近くになり、日も傾いていました。二人の弟子は昼過ぎにエルサレムを出発してエマオに向かったのでしょう。なお先に行こうとされるイエスを無理に引き止めて、一軒の家に迎え入れます。当時のユダヤの寒村に旅館というような施設はないのでしょうから、この家は自分たちの家であると推察してよいでしょう。イエスは二人の懇願を聞き入れて、二人の家に入られます。

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。(二四・三〇)

 エルサレムからエマオまでは二時間半くらいの行程ですから、日は傾いていたとしてもまだ日没ではありません。当時のユダヤ人は午前と午後遅いめの二回に食事をとったようです。二人は泊まってもらうことになった見知らぬ旅人に午後の食事、夕食を用意します。
 一緒に食事の席に着いたとき、イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とありますが、これは食事の席で家長がする動作です。このイエスの動作を伝える部分は、最後の晩餐のときにイエスが弟子たちにパンを裂いてお与えになったときの動作を伝える文(マルコ一四・二二)と同じです。また、パウロが伝えた「主の晩餐」伝承で、主イエスが弟子たちにパンを与えられた動作を語る文(コリントT一一・二三〜二四)もほぼ同じです。違いはここやマルコでは「賛美の祈りを唱え」《エウロゲオー》が用いられていますが、コリント書簡では「感謝の祈りをささげ」《エウカリストー》が用いられているぐらいで、用語も文体も同じです。このことは、最初期の共同体が集まるとき「共にパンを裂き」食事を共にしましたが、そのときそこに復活のイエスがいてくださるのだという信仰から、最後の晩餐のときのイエスの動作がこの定型文となって語り伝えられることになったと考えられます。ルカはこの定型文をここに用いることによって、いま目の前でこの動作をしておられる方が、共同体がいつも「主の晩餐」で記念しているイエスであることを指し示していることになります。

 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(二四・三一)

 はたして、二人の弟子はこの動作をされるイエスを見たとき、「目が開かれて」(動詞は受動態)、この方がイエスだと分かります。二人は最後の晩餐の席にいたわけではありませんから、そのイエスの動作を見たからイエスだと分かったのではありません。そのときに「目が開かれて」、今まで隠されていた秘密、すなわちその見知らぬ旅人がイエスであるという秘密が明らかになった、ということになります。彼らの「目を開いた」のは聖霊である、としか言いようがありません。顕現体験はいつも聖霊の働きの結果です。
 すると、わかった瞬間、その方の姿は見えなくなります。これも顕現体験の共通のパターンです。初めは自分の前に出現された方が誰であるかが分かりません。その方からの語りかけなどの働きかけがあって初めてイエスだと分かります。それは復活されたイエスを見るという体験、顕現体験となります。そして、分かった直後にはその方は見えなくなります。その出来事の目的は達せられたので、聖霊による異常な体験は終わり、日常の体験に戻ります。しかし、その短い異常な体験はそれを体験した者の生涯を決定的に変えてしまいます。それはその人にとって「原体験」となります。ここでも、目の前でパンを裂いているその旅人がイエスだと分かった瞬間、イエスの姿は見えなくなります。

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(二四・三二)

 二人は、ここまで自分たちと一緒に行動された見知らぬ旅人がイエスだと分かったとき、エマオへ向かう道の途上で体験したことを思い起こします。その方が自分たちに話しかけて、聖書を解釈し、その真意を説明してくださったとき、自分たちの「心は燃えていた」という体験を思い起こします。ここで「説明してくださった」と訳されている動詞は、二七節で用いられていた《ヘルメネオー》(解釈する)の複合形ではなく、《アノイゴー》(開く)の複合形です。それは前節で「目が開かれて」というときに受動態で用いられていたのと同じ動詞です。ここでは復活されたイエスご自身が「聖書を開いて」、隠されていた聖書の内容を明るみに出すという形で「説明された」と言われています。その隠されていた内容というのは、「御自分について書かれていること」でした。すなわち、終わりの日に出現すると約束されていたメシア・キリストとしてのイエスの出来事について聖書が予め語っている内容でした。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入る」と預言されているのに、ユダヤ人にはその奥義が隠されていて、理解されていませんでした。イエスは「聖書全体」を神の救済の働きの預言と見る視点から、その隠された意味を「開き示された」のです。この視点からの聖書全体の理解(救済史的解釈)こそ、最初期の共同体が聖書に接した基本的な姿勢でした。
 復活のイエスからこのような聖書の解釈・開示を聞いた二人の心は燃えます。これは聖霊の働きを受けたときにわたしたちの心に起こる結果です。聖霊は火で象徴されます。聖霊が働かれるとき、そこには火が燃え上がります。この二人は道の途上ではまだその旅人が復活されたイエスであることを知りません。見知らぬ一人の旅人から聖書の解き明しを聞いています。しかし、聖書が正しく解釈されて解き明かされるとき、そこには聖霊が働き、聞く者の心を燃やします。燃える心は生きるエネルギーとなります。信仰生活のエネルギーです。二人の場合は、復活されたイエスご自身が共にいますという場でそれが起こりました、今わたしたちの時代では、復活者イエスの福音が告知され、それが信受されている場で起こります。
 この二人の弟子が語り合った「道」での体験は、現代において聖書と共に生きる生き方の原型です。ルカは使徒言行録(九・二、一八・二五、一九・九、二三、二二・四、二四・一四、二二)で主イエス・キリストを信じて生きる新しい信仰生活を「道」とか「この道」と呼んでいます。まだ「キリスト教」という名で呼ばれる宗教はありませんでした。信仰は生き方の全体ですから「道」と呼ばれるのはふさわしいことです。そのルカが、エマオに向かう「道」の途上でなされた二人の弟子の体験をこのように詳しく物語るとき、「この道」での歩み、すなわち福音による共同体の信仰の歩みが重なって見られていたのではないかと推察されます。すなわち、ルカは彼の時代の共同体に向かって、復活者イエス・キリストを信じる民の共同体は、聖書をこの方を預言する啓示の書として解釈して読むことによって、聖霊の働きを受けて心燃える歩みをする必要がある、と語っているのではないかと考えられます。これは(先にも触れたように)、イエスの父をユダヤ人の神とは別の神としてユダヤ人の聖書(旧約聖書)を拒否したマルキオンに対抗するため、ルカがとくに強調した点でした。
 余談ながら、わたしは大学院での研究生活を断念して独立伝道に乗り出した後、大学に残った兄弟と協力して出身大学に聖書研究会を始めましたが、その聖書研究会を「エマオ会」と名付けました。それは、このエマオへの道の途上で復活者イエスから聖書の解き明しを受けて心燃える体験をした弟子たちの体験を追体験することを願ったからでした。

 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。(二四・三三〜三四)

 二人は「時を移さず出発して」エルサレムに戻ります。エマオからエルサレムまではほぼ二時間半の行程です。ユダヤ人の夕食は、午後の四時とか五時というような遅めの午後になされたので、食事が始まるときにイエスの姿が見えなくなった直後に出発し、急げば夜の闇が迫る前にエルサレムに到着できたでしょう。彼らは、イエスが生きておられ自分たちに現れてくださったこの出来事を、仲間の弟子たちに知らせるために、この道のりを息せき切って急いだことでしょう。
 エルサレムに戻った二人は、「十一人とその仲間」が集まっている家に急ぎます。この二人も昼頃まではそこにいた家です。「十一人」は、イエスが選ばれた「十二人」からイエスを引き渡したユダを除いた弟子たちです。そこにいたのは「十一人」だけでなく「その仲間たち」も一緒にいました。ガリラヤからイエスに従ってきた女性たちもいたことでしょう。また、このエマオ出身の二人のように、エルサレムとかユダヤ地方の住人でイエスを信じて弟子となっていた者たちもいたことでしょう。二人がその家に着いたとき、そこにいた弟子たちは「本当に主は復活してシモンに現れた」と言っていました。
 二人の弟子がエルサレムに戻ってきたのは週の初めの日の夜ですから、復活されたイエスがシモンに現れたのは、週の初めの日当日になるわけです。そこにいた「十一人」の中にはシモンもいるのですから、そこにいた人々がそう言い合っていたという報告の仕方はやや不自然な感じを否めません。事実、週の初めの日に復活されたイエスがシモンに現れたという報告は、この間接的な報告以外にはどこにもありません。ヨハネ福音書(二〇・一九〜二三)に週の初めの日の夕方に復活されたイエスが家に閉じこもっている弟子たちに現れたという記事がありますが、とくにシモン(=ペトロ)に現れたという記事はありません。これと同じ伝承に基づいていると考えられるルカの次の段落(二四・三六〜四九)も、とくにシモン・ペトロへの顕現を取り上げることなく、週の初めの日の夜に起こった弟子たち全員への顕現を報告しています。このような状況を考慮に入れると、「本当に主は復活してシモンに現れた」という証言は、「(キリストは)聖書に書いてあるとおり三日目に復活し、ケファ(=シモン・ペトロ)に現れ、その後十二人に現れた」(コリントT一五・四〜五)という最初期エルサレム共同体の伝承に合わせるためのルカの構成ではないかと推察させます。パウロが引用しているこの伝承は、最初期共同体におけるペトロの権威を根拠づけるために形成された伝承であって、必ずしも歴史的事実を報告するものではありません。このようにペトロの権威を根拠づけるための伝承を、ルカがエマオ物語に挿入したものと考えられます。

 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(二四・三五)

 二人は、エマオへ向かう途中「道で起こったこと」や、家に入って食事をしたとき「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を報告します。この二人の「イエスは生きておられる。わたしたちはそのイエスを見た」という証言を聞いて、他の弟子たち一同がイエスの復活の事実に喜びに溢れたということにはならなかったようです。墓が空であったという女性たちの報告を聞いたときと同じように、あまりにも意外な報告や証言に戸惑うばかりで、彼らの失望や落胆、また恐れの心は変わらなかったようです(マルコ一六・一二〜一三)。そのことは次の段落が示しています。