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139 死刑の判決を受ける(23章13〜25節) 

ピラトの無罪宣言

 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」。(二三・一三〜一四)

 祭司長たちユダヤ教指導部は、自分を神とする?神罪で死刑の判決を下し、自分たちには死刑執行権がないので(この点については後述)、その死刑を執行してもらうためにイエスをピラトのところに連れてきたのですが、そのような宗教的理由ではローマの官憲は門前払いをすることをよく知っているので、ピラトにはイエスをローマに対する反乱を扇動する者として訴えます。彼らは「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と訴えています(二三・二)。彼らは最高法院での宗教裁判では、「民を惑わす者」として、すなわちイスラエルの民に律法に背くように教える異端の教師、また自分を神とする?神罪で死刑判決を下しておきながら、ローマ総督に訴えるときは、「民を惑わす者」という訴因の内容をすり替えて、ローマ帝国に対する反乱扇動で訴えています。
 ピラトはその訴えを取り上げ、「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た」と言っています。そして、取り調べた結果、「あなたたちが訴えているような犯罪」は何も見つからなかったと明言しています。「あなたたちが訴えているような犯罪」というのはローマ帝国支配に対する反乱扇動の行為ですから、ピラトの法廷では「あなたが言う」の一言しか発せられなかったイエスにそのような「犯罪行為」が見つかるはずはありません。ピラトがこの訴え以前にイエスの行動を調べていたという痕跡はありません。ピラト自身が「わたしはあなたたちの前で取り調べたが」と言っています。民衆も押し寄せている公開の裁判の場で、ピラトが尋問しイエスが答えるという形の裁判では、沈黙を通されるイエスに何の犯罪も見つけることはできないのは当然です。この裁判の進行を記述するだけのピラトの言葉を、ルカはピラトの第一回目の無罪宣言としています。

 「ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。(二三・一五〜一六)

 ここでルカは、ピラトの裁判の途中でイエスがいったんヘロデのもとに送られ、ヘロデの裁判を受けた後で送り返されてきたという(ルカだけが伝えている)エピソードを、ピラトの無罪宣言を補強する出来事として引用します。先に洗礼者ヨハネを処刑したヘロデがイエスを処刑することなく送り返してきた事実は、ヘロデもイエスを有罪とすることはできなかったことを示しているとして、ピラトは「ヘロデとても同じであった」と言います。すなわち、ここでわたしがイエスを無罪としているように、ヘロデもイエスにそのような死刑に相当する反乱扇動の行為を認めることはできなかった、とピラトは言っているのです。このヘロデがイエスを送り返してきた事実を援用して自分の無罪宣言を補強しているピラトの言葉を、ルカは二回目のピラトの無罪宣言としています。
 ここでピラトはイエスの無罪を宣言した後、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言っています。無罪を宣言しておきながら、釈放する前に「鞭で懲らしめる」というのは現在の刑事訴訟法の常識からは考えられませんが、当時のローマの刑事事件での訴訟手続き(または慣習)がどうであったのか、よく分かりません。ローマの鞭打ちは過酷な体刑であって、死に至ることもあります。ピラトはこの言葉を、バラバの釈放かイエスの釈放かを選ばせる時にも繰り返していますので(二三・二二)、その意義はそこで扱うことにします。

イエスとバラバ

 [ 祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。](異本 二三・一七)

 この一文は有力な写本には欠けているので、底本は[ ]に入れています。おそらく、元のルカ福音書にはなかったのでしょうが、バラバ釈放の事情を説明するために、マルコ(一五・六)にある「祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた」という当時の習慣を説明する文が、写本の段階で挿入されたと見られます。このような習慣が実際にあったのかどうかには議論がありますが、ローマが支配する民族の民族感情を懐柔するために行っていたことは十分ありえます。

このような習慣の描写は福音書記者の護教的動機から出る創作だとする説もありますが、最近の研究は古代世界での祝祭時の恩赦(特赦)の存在の証拠を多くあげているということです。また、六年にユダヤがローマ総督直轄領になったとき、最高法院から死刑執行権が取り上げられた代償に、このような特赦の権利が与えられた可能性もあります。

 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。(二三・一八〜一九)

 ピラトが二回までイエスの無罪を宣言して釈放しようとするのに対して、裁判の席に押し寄せてきていたユダヤ人たちは、おそらく祭司長たちや律法学者たちが叫ぶ声に民衆も声を合わせて、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫びます。ルカはこのバラバについて「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである」という説明をつけています。
 「バラバ」という名は、アラム語で「アッバの子」という意味です。「アッバ」というのは「父」という語ですから、当時のユダヤ人に「アッバ」という個人名があったのかどうかが争われています。一世紀後半には実例が報告されているので、イエスの時代にもあったと見てよいでしょう。しかし、さらに蓋然性が高いのは、「アッバ」は優れたラビに対する尊称として用いられていたので、「バラバ」は「バル・アッバ」、すなわち著名なラビの息子であったという推察です。一世紀初頭のガリラヤのユダから始まる「熱心党」の運動は、ファリサイ派の中の過激な運動として、一部の律法学者(ラビ)によって指導されていました。ある高名なラビの息子である青年が過激な反ローマの武装闘争に立ち上がり、活動の途中でローマ軍に逮捕されて投獄されたということは十分にありうることです。「都に起こった暴動と殺人」のかどで投獄されていたという記述も、この推察を補強します。バラバはたんなる山賊とか盗賊ではなく(当時そのような盗賊団も活動していました)、血気盛んな熱心党の活動家であったと推察されます。彼らの中には「シカ」(ラテン語で短刀)を懐に隠していて、ローマに協力するユダヤ人有力者を暗殺する「シカリ派」と呼ばれる過激派もいました。バラバは反ローマ闘争の中で殺人もして逮捕されたのでしょう。バラバが高名なラビの息子であれば、ピラトの法廷に押し寄せた律法学者たちが、律法違反を教唆する異端の教師イエスを殺し、仲間の英雄バラバを釈放せよと叫ぶのは当然です。イエスの弟子たちは逃げ去って誰もいません。

マルコ一五・二七では、イエスと一緒に十字架につけられた二人は《レーステース》と呼ばれています。この語は「強盗」と訳されています。たしかにそのような意味の語です(たとえば一〇・三六)。しかし、この語はヨセフスなどにも反ローマの武装勢力を指すのに用いられており、独立運動のユダヤ人闘士をローマ側が貶めて呼んだ用語でもあります。ローマ側からすれば、イエスもこれらの《レーステース》の一人として処刑されたことになります。バラバもこのような《レーステース》の一人として逮捕され、十字架刑を待つ身でした。しかし、ルカはバラバを指すのに《レーステース》は用いていません。マルコ一五・七に従って《スタシス》(暴動)に関与した者、すなわち《スタシアステース》(革命家)として扱っています。なお、バラバが「バラバ・イエス」と呼ばれていた事実については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』390頁の注記を参照してください。

 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。(二三・二〇〜二一)

 ピラトが本当に「イエスを釈放しようと思った」のかどうかは確認しようがありません。ヨセフスが描く行政官としてのピラトの冷酷な性格と行動から、このイエスの問題も単純にローマ帝国支配に対する叛逆として処理しようとしたことも十分考えられます。ルカのこの一文は、ローマ政府はイエスの無罪を認めていたことを強調したいルカの護教的動機から出てこざるをえない一文です。
 ピラトはイエスの釈放を改めてユダヤ人たちに呼びかけます。しかし、ユダヤ人の「十字架につけろ、十字架につけろ」という叫びは、ますます大きくなり、引き下がる気配はありません。

 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。(二三・二二)

 ピラトはイエスの無罪宣言を繰り返します。ルカはこれを「三度目」としています。一度目はユダヤ人がイエスをピラトのところに連れてきて訴えたとき(一四節)、二度目はヘロデがイエスを送り返してきたとき(一五〜一六節)です。「三度目」というのは、ペトロの三度のイエス否認にも見られるように、行動の徹底性を示しています。ピラトは徹底的にイエスの無罪を確信して宣言していることを強調します。
 ところが、その無罪宣言に続けて、「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言っています。無罪だから鞭打ちをするというのはどういうことでしょうか。たしかにユダヤ教会堂には、重大な律法違反を犯した者に対する「四十に一つ足りない鞭」という懲罰(懲らしめるための処罰)があります。しかし、ローマの鞭打ちは過酷な刑罰で、ローマ市民権を持つ者には行われません(使徒一六・三七、二二・二五)。奴隷とか属州民に対する刑罰です。「無罪だから鞭打ちする」とはどういう意味でしょうか。
 イエスの鞭打ちについてはどの福音書も言及していますが、それぞれその位置と意義が違っています。マルコ福音書(一五・一五)では、ユダヤ人たちの強要に屈してバラバを釈放し、イエスを「鞭打ってから十字架につけるために引き渡した」とされています。鞭打ちは十字架刑の一部として扱われています。その後にローマ兵士による侮辱行為が報告されていますが(マルコ一五・一六〜二〇)、鞭打ちはその中で、またはその後で刑の一部として行われたと見られます。マタイ福音書(二七・二六)も同じです。ルカでは、先に見たように、ヘロデの裁判のときに侮辱されていますが、鞭で打たれたという記事はありません。ルカではピラトは「鞭で懲らしめて釈放しよう」と言ったと、釈放の条件か十字架刑の代替のように意義づけられています。しかし、その後に実際に鞭打たれた事実を報告する記事はありません。ローマでは死刑囚は死刑執行前に鞭打ちを受けましたから、マルコとマタイは(それがあったことは当然のこととして)実際の鞭打ちの情景は伝えなかったと見られます。鞭打ちはピラトによって言及されていますが、マルコとマタイでは十字架刑の一部として、ルカでは釈放の条件か刑の代替のように位置づけられています。

マルコ一五・一五では明確に「ピラトはイエスを十字架につけるために鞭打ちに引き渡した」(直訳)と書かれています。ここに用いられている「鞭打ち」は、《フラゲリオン》(皮の鞭に無数の金属片や骨片をつけたもの)で打つという動詞が用いられており、ローマでは死刑囚に対して行う処罰です。これは十字架刑の執行を命じたという意味になります。ヨハネ一九・一の《マスティゴー》(鞭打つ)は、ユダヤ教会堂で行われた皮の鞭による律法違反者への懲罰の鞭打ちか、またはローマ式の死刑囚に対する処罰の鞭打ちを指します。マルコ(およびマタイ)とヨハネの箇所は明白に「鞭打ち」を指していますが、ルカ(二三・一六と二二)では、《パイデウオー》(教育する、しつける、懲らしめる)が用いられており、これを直ちに「鞭で懲らしめる」と訳すことはできません。ところが、欧米語の多くと新改訳以外の日本語訳のすべてがここを「鞭で懲らしめて」と訳しています(NTDのルカ福音書講解は「こらしめた上で釈放しよう」と訳しています)。これはマルコ一五・一五と内容を合わせるためと考えられていますが、マルコの場合は死刑囚に科せられる鞭打ちであって、死刑判決の一部ですから、「釈放しよう」という判定の場合に用いるのは無理です。強いて推察すれば、イエスの無罪を説得しようとしたヨハネ一九・一の「鞭打ち」に相当するとしてこのような訳をつけたと考えられます。そうすると、ここでもマルコ系とは違うヨハネ系の伝承をルカが用いたことが推察されます。

 ところがヨハネ福音書(一九・一〜七)は鞭打ちの事実を報告するだけでなく(それがあるのはヨハネだけです)、その意義を違った内容で報告しています。すなわち、ピラトはイエスを鞭打たせた後、茨の冠と紫の服を着せられたイエスをユダヤ人の前に引き出し、「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と言っています。ピラトはイエスが無罪であることをユダヤ人に説得するために、鞭打たれた後の惨めな姿のイエスを見せつけた、とピラトの動機とか意図が語られています。ヨハネはバラバを釈放してイエスを十字架につけよと叫んだユダヤ人にイエスの無罪を説得しようとしたピラトの意図を描いていますが、ルカはこの意図までは立ち入らず、バラバの釈放が要求されたときに、ピラトはイエスを鞭打ちの後に釈放しようとしたという事実だけを報告したのかもしれません。一六節の同じ言葉は、ルカがそれをヘロデがイエスを送り返してきたことを援用して無罪を宣言したときにも流用したと考えられます。

ピラトの決定

 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。(二三・二三〜二四)

 三度におよぶピラトの無罪宣言と説得にもかかわらず、イエスを訴えたユダヤ教指導部と群衆は、イエスを十字架につけるように、あくまでも大声で要求し続けます。しかも、「その声はますます強く」なっていきます。ピラトは遂にその声に屈し、彼らの要求をいれる決定を下します。ヨセフスが描くピラトは、ローマ帝国支配に反抗する革命家を強権的に、また冷酷に弾圧する権力者です。ピラトは民衆の圧力に屈したのではなく、王と自称するこの男を釈放するなら、「あなたは皇帝の友ではない」と通報するぞと脅した「ユダヤ人」(ユダヤ教指導部)に屈したのです(ヨハネ一九・一二)。護教的動機からピラトにイエスの無罪を宣言させてきたルカは、ピラトによるイエスの処刑はこのような形で、すなわちピラトがユダヤ教側の不法な圧力に屈したという形で描かざるをえません。「そこで」、すなわち、ユダヤ人たちの要求の声がますます強くなるので、ピラトはついにその圧力に屈し、ユダヤ人たちの要求を入れる決定を下します。「ピラトの裁判」と言われますが、ここにはピラトの「判決」はありません。「彼らの要求をいれる決定」があるだけです。その「決定」の内容が次節です。

 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。(二三・二五)

 ピラトはユダヤ人たちの要求通りバラバを釈放し、イエスを処刑する決定を下します。ところが、イエスの処刑について、マルコ(一五・一五)のように「ピラトはイエスを十字架につけるために鞭打ちに引き渡した」(直訳)ではなく、「イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」となっています。ここの文脈では、「彼ら」はユダヤ人たちを指します。「ユダヤ人たちに引き渡して、彼らの好きなようにさせた」とはどういうことでしょうか。ユダヤ人の最高法院に、この場合に限って死刑の執行を認めた、ということでしょうか。しかし、ユダヤ教では十字架刑はなく、イエスはローマ式の十字架刑で処刑されたのですから、この意味ではありえません。この意味不明の一文は、イエスの処刑についてはユダヤ人に責任を負わせ、その分ローマ人の責任を軽くしようとするルカの強い護教的動機の無理が露呈していると言わざるをえません。