市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第34講

138 ヘロデから尋問される(23章6〜12節)

 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。(二三・六〜七)

 イエスの活動がガリラヤから始まったことを聞いたピラトは、イエスがガリラヤ人であることを確認すると、ちょうどその時エルサレムに滞在中のヘロデ・アンティパスのもとに送ります。彼は祭りのためにエルサレムに来ていたのでしょう。おそらくピラトの官邸とヘロデの滞在している場所は近くにあったのでしょう。
 当時ガリラヤはヘロデ・アンティパスの支配下にありました。ヘロデ・アンティパスはローマからガリラヤとペレア(ヨルダン川東岸地区)の領主として認められ、この両地区を支配していました。ガリラヤ人のイエスは本来その領民としてヘロデ・アンティパスの支配下にあることになります。ピラトはローマ総督としてエルサレムで起こったこの事件を裁き、判決を下し、刑を執行する権限はあったはずです。事実、ルカ以外の福音書はすべて祭司長たちからの訴え(すなわちユダヤ教最高法院からの告訴)を受けたピラトは、ヘロデ・アンティパスと相談することなく、自分で判決を下しています。おそらく、ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったのは、この裁判が自分にとって厄介な問題になると考えたピラトが、この裁判をヘロデに押しつけ、自分がこの裁判の責任から逃れようとしたのではないかと推察されます。ピラトがイエスをヘロデ・アンティパスのもとに送ったことと、その尋問の様子を伝えるのはルカだけです。おそらくルカは、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」(使徒一三・一)がいるアンティオキア共同体で、彼からヘロデの宮廷についての情報を得ていたのでしょう。

 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(二三・八)

 ヘロデはイエスが自分のもとに送られてきたのを喜びます。ここでルカがヘロデがイエスを見て喜んだ理由としてあげている、「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたから」というのは、ルカが推測したヘロデの満足の理由の一面に過ぎません。そういう面もあったかもしれませんが、実際はヘロデはイエスを殺そうとしていたのです(一三・三一)。
 ヘロデは少し前に洗礼者ヨハネを処刑しています。マルコ(六・一四〜二九)はヘロデが洗礼者ヨハネを処刑した経緯を詳しく物語っています。その物語は、ヨハネを憎んでいたヘロディアにそそのかされたサロメが、舞いの褒美としてヨハネの首を所望したという劇的な内容になっていますが、実際は(歴史家ヨセフスが「古代史」18・118で書いているように)洗礼者ヨハネの活動が、領主ヘロデにとって危険なメシア運動になることを恐れて、逮捕し処刑したというのが真実でしょう。ルカはマルコの伝承も知っていたのでしょうが、ヨハネ処刑の理由とか経緯に触れず、「自分が首をはねた」ヨハネが生き返って働いているというイエスについてのうわさを聞いたヘロデが、イエスと会ってみたいと思ったという記事(九・七〜九)だけにしています。
 こうして「イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていた」ヘロデのもとに、こともあろうに日頃は何かと対立していた総督ピラトから囚人イエスが送られてきます。

 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。(二三・九)

 ヘロデはイエスと対面する機会が来たことを喜び、さっそくいろいろと尋問しますが、イエスは何もお答えになりません。先にエルサレムへ向かう旅の途上で、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と伝えた人たちに、イエスは「行って、あの狐に伝えなさい」と言っておられます(一三・三二)。イエスから見たヘロデは、神のことを思わず、ただ政治的な保身と権力のために卑しい策略を弄する「狐」に過ぎません。このようなヘロデの前で、ピラトのとき以上に、イエスは沈黙を通されます。

 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。(二三・一〇)

 イエスをピラトのもとに連れて行って訴えた祭司長たちと律法学者たちも、ヘロデのもとに送られたイエスについてきます。彼らはイエスの運動がいかに危険であるかをヘロデに説き立てたことでしょう。彼らの激しい訴えに対してもイエスは沈黙を通されます。

 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。(二三・一一)

 もともとイエスを殺そうと考えていたヘロデにとって、これはよい機会であったはずです。ピラトがイエスを送ってきたことは、ヘロデに裁判をさせ、イエスの問題を処理させるためですから、ヘロデが判決を下し処刑することもできる立場です。領主ヘロデには領民の反逆などを処刑する権限が認められています。事実、ヘロデは少し前に洗礼者ヨハネを処刑しています。ところが、ヘロデはイエスを処刑することなく、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱した」だけで、「派手な衣を着せてピラトに送り返し」ます。これはなぜでしょうか。
 これは推察になりますが、ヘロデは洗礼者ヨハネを処刑したことに対する民衆の不満と批判に悩んでいたのではないかと思われます。少し後のことになりますが、東の隣国ナバテア王国のアレタス四世とヘロデとの間に戦争が起こります(36年)。その戦争は、ヘロデが兄弟の妻のヘロディアと結婚するために妻であるアレタス王の娘を離縁したこと(洗礼者ヨハネが非難したあの結婚)をきっかけとする戦争でした。その戦争でヘロデの軍隊は壊滅します。ユダヤ人たちはその敗戦を、ヨハネを処刑したヘロデに対する神の罰だと語り合ったことが、ヨセフスの「古代史」(前出箇所)に出てきます。このような洗礼者ヨハネの処刑に対する批判は、処刑直後からあり、ヘロデはヨハネ以上に民衆の支持を集めていたイエスの扱いには慎重にならざるをえなかったのではないかと推察されます。
 イエスが一言も発せられないので有罪として処刑する決定的な口実が得られなかったこともあり、またおそらく処刑をためらう事情もあって、ヘロデは処刑を断念し、この厄介な問題をピラトに送り返すことにします。そのさい、自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返します。「派手な衣」を着せたのは、王と自称して訴えられたイエスに対する軽蔑の表現でしょう。王と称したとして捕らわれたイエスに、王の格好だけさせて、侮辱されても何もできない無力な王を揶揄したのでしょう。
 この「派手な衣」とはどのようなものであったのか、ルカは何も書いていません。他の福音書では、ヘロデの裁判の記事はないのですから、ピラトの裁判のときにローマの兵士たちが「イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」(マルコ一五・一七〜一九)となっています。「紫の服」というのは、ローマ兵が用いる深紅のマントであると考えられます。ローマ兵による侮辱の記事のないルカ福音書においては、受難のイエスは茨の冠をかぶっておられないことになります。マルコとそれに従うマタイ(二七・二七〜三〇)では、兵士による侮辱はピラトが死刑の判決を下した後のことになっていますが、ヨハネ(一九・一〜五)では、ピラトはイエスの無罪をユダヤ人たちに説得しようとする過程で、 鞭打ちの後兵士たちによって紫の服を着せられ、茨の冠をかぶらされたイエスを民衆の前に引き出しています。
 ルカにはローマの兵士による紫の衣や侮辱の行為の記事はありません。ヘロデの兵士による侮辱だけです。二つの侮辱の記事の関係と、ヘロデが着せた「派手な衣」とローマの兵士が着せた「紫の服」が同じものであるのかどうかは確認できません。

 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。(二三・一二)

 支配者であるローマ総督ピラトと、ローマ帝国から統治を委任された現地の領主であるヘロデ・アンティパスとの間に、利害の衝突や統治の手法をめぐって日頃から対立があったことは容易に推察できます。しかし「この日」、すなわちイエスの裁判が行われた日には、図らずも両者の意見が一致します。ピラトはヘロデの対応(イエスを処刑せずに送り返してきたこと)を自分の判断の正当性を主張する根拠にすることができました(二三・一三〜一六)。その後のことは分かりません。しかし、少なくとも「この日」には、両者は政治家として相手に相通じるものを感じて、好意を持つことになったということでしょう。
 ヘロデによる裁判の記事については、ルカが用いた資料やマルコとの関係、ルカの意図などが議論を呼んでいます。しかしここでは、「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった」という最後の記事から、ルカはヘロデもピラトも同じくイエスの無罪を認めていたことを主張しようとしたことを理解することで十分でしょう。この事実によって、ルカはイエスの運動がユダヤ教国家にとっても、またローマ帝国にとっても、政治的には無害であることを主張していることになります。ここにもルカの著作の護教的動機が出ています。