市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第25講

補論 「最後の晩餐」伝承の形成と展開

はじめに ― 用語について

 わたしはこれまでにルカ以外の三福音書の講解で「最後の晩餐」の記事を講解してきました。今回のルカ福音書講解が「最後の晩餐」を扱う最終の機会となりますので、この機会に議論の多い「最後の晩餐」と、最初期の共同体でこの「最後の晩餐」の伝承に基づいて主イエスの死を記念する儀礼として行われていた「主の晩餐」について、わたしなりの理解を試論の形でまとめておきたいと思います。
 そのさい、ここで使われる用語の意味内容を明確に区別しておかないと議論が混乱する恐れがありますので、はじめに用語の解説をしておきます。
 「最後の晩餐」というのは、イエスが「引き渡される夜」、すなわちイエスの命を狙う祭司長たちに引き渡され、彼らによってピラトに引き渡され、死に渡される日が始まる夜(ユダヤ暦では日没から一日が始まります)、地上での最後の夜に弟子たちとされた食事を指します。その食事が「過越の食事」であったのかどうかが問題になります。
 「過越の食事」というのは、ユダヤ教徒が年に一度の過越祭の日(ニサンの月の一五日)が始まる夜に、昔イスラエルがモーセによってエジプトから救い出されたことを記念する食事で、その前日の「過越の準備の日」の午後神殿で祭司によって屠られた「過越の小羊」を焼いたものをメインに、種入れぬパンや苦菜をそえてする食事です。その席では赤ぶどう酒が用いられます。普通一〇名前後のグループで一頭の小羊を用い、家長役が出エジプトの出来事の意義を語ります。その食事の順序は前述した通りです。
 「主の晩餐」というのは、主イエスの受難・復活後に、最初期の共同体が主イエスの死を記念するために「(一同が)集まるとき」にした共同の食事で、パウロ書簡で「主の《デイプノン》(晩餐)」と呼ばれています(コリントT一一・二〇)。パウロはコリントの集会に対して、その「主の晩餐」の守り方について詳しい注意を与えています(コリントT一一・一七〜三四)。《デイプノン》というのは「食事」という意味の語ですが、朝にとる簡単な食事ではなく、普通仕事が終わった午後の遅い時刻にとる一日の主要な食事を指すので、「主の晩餐」と訳されることが多い語です。「晩餐」といっても、夜にする食事とは限らないので、「主の食卓」と呼ぶ方が適切かもしれません。新共同訳が「最後の晩餐」を伝えるルカ福音書(二二・一四〜二三)の記事に「主の晩餐」という見出しをつけているのは、混乱を招きます。「主の晩餐」は「最後の晩餐」に基づいて繰り返される最初期共同体の会食ですが、イエスと弟子たちが最後の夜にとった「最後の晩餐」とは一応別のものです。
 「聖餐」というのは、「主の晩餐」が食事としての性格からパンとぶどう酒を用いる儀礼に変化したものの呼び名です。「主の晩餐」は集会員一同が共同でする食事でした。その食事が、パウロのコリント第一書簡に見られるように、無秩序に陥り、たんなる交際のための会食になる傾向が出てきたために、会食から主イエスの死を記念するパンとぶどう酒をとる部分を切り離して、それを集会の主要な儀礼(典礼)として独立させたものです。会食の部分は「愛餐《アガペ》」と呼ばれて、別の場で行われるようになります。この「主の晩餐」の儀礼化した部分が「聖餐」(ギリシア語で《エウカリスティア》、英語では Eucharist)と呼ばれて、後に教会の主要な典礼(ミサ典礼)となります。
 これらの用語の意味内容に留意しながら、福音書の「最後の晩餐」記事の内容と、それと「主の晩餐」との関係の理解を試みたいと思います。

この試論は、おもに次の二著作との対論に基づいています。
J・エレミアス『イエスの聖餐のことば』(田辺明子訳、日本基督教団出版局 1967)
J・ラツィンガー(教皇ベネディクト一六世)『ナザレのイエス 第二部』(英語版 Igunatius Press, San Francisco 2011)
 前者は現代のプロテスタントの新約聖書研究が「最後の晩餐」について提供するもっとも学術的に緻密な研究と言ってよいでしょう。
    後者は(個人的著作であることを強調していますが、やはり現教皇の著作として現在のローマカトリック教会の見解を代表しいる と見てよいでしょう。以下の試論では、前者は「エレミアス」、後者は「ラツィンガー」として引用します。

「最後の晩餐」の日付とその性格

 イエスが「引き渡される夜」、地上での最後の夜に弟子たちとされた食事、すなわち「最後の晩餐」が、ユダヤ人が除酵祭の第一日に祝う「過越の食事」であったのかどうかが争われています。それは、この最後の食事の日付が共観福音書とヨハネ福音書では違うからです。これはすでに見てきたことですが、日付の違いは最後の食事の性格を理解する上で重要なことですので、繰り返しにはなりますが、ルカ福音書講解の枠を出て「最後の晩餐」の本質を考察するこの試論で改めて取り上げておきます。
 共観福音書は最後の食事を「除酵祭の第一日」に行われた「過越の食事」としています(マルコ一四・一二〜一七とマタイ・ルカの並行段落)。ところがマルコは、その日付に「すなわち過越の羊を屠る日」という説明をつけています(マルコ一四・一二)。過越の食事は「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日が始まる夜にしますが、その直前の昼間に神殿で子羊が屠られます。ユダヤ暦では日没から一日が始まるのですから、小羊が屠られる昼間は前日の一四日になります。マルコが小羊が屠られる日と過越の食事が行われる「除酵祭の第一日」を同じ日としたのは、朝から一日が始まるギリシア人やローマ人の日の数え方(われわれも同じ)に従って説明したものと考えられます。
 マタイはおもにユダヤ人読者に向かって書いていますから、この(ユダヤ暦上の)矛盾を避けるために、マルコの「すなわち過越の羊を屠る日」という説明を省いています(マタイ二六・一七)。マタイでは、弟子たちとの夕食から始まり、夜中の逮捕、明け方の裁判、昼間の処刑、日没前の埋葬というイエスの最後の一日は、問題なく「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日となります。
 ルカは、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」と書いています(ルカ二二・七)。これでは除酵祭の当日なのか、過越の小羊を屠る前日なのか決定できません。ルカの時代の異邦人読者には、どちらでもよい事柄だったのでしょう。一日を朝から始める数え方をする異邦人読者にとって、過越の小羊を屠る午後に続く夕方は同じ日になり、その日のことを「除酵祭の日が来た」と言うのが、ごく自然なことになります。ルカの書き方をこのような意味にとると、ルカも(ユダヤ暦の)ニサンの月の一五日が始まる夜にその食事が行われたと言っていることになります。
 この共観福音書の日付は重大な困難を抱えています。すなわち、夜中の逮捕(武器を携えた軍事的な行動)、最高法院での死刑を扱う裁判、処刑という、ユダヤ教律法では過越祭のような大祝祭日には禁じられている行為がなされたことになるからです。もっともこれらの困難は、ユダヤ教側の審問は最高法院での正規の裁判ではなく、ローマ総督に訴えるための証拠集めのための大祭司一族による予審であり、処刑はユダヤ教律法に無頓着なローマ総督によって行われたとして、矛盾を回避する議論もあります。
 それに対して、ヨハネ福音書(一三・一)は、これから語られる出来事が「過越の祭りの前」、すなわち過越祭の前日、過越の子羊が屠られる「準備の日」、ニサンの月の一四日(ユダヤ暦)のこととしています。そうすると、その日の「夕食」(二節)は、小羊が屠られる昼間から見るとその前夜になります。すなわちヨハネ福音書では、イエスはニサンの月の一四日が始まる夜に弟子たちと最後の食事をされ、夜中の逮捕、明け方の裁判を経て、その日の正午過ぎに十字架につけられたことになります。ヨハネ福音書はこの日を「過越祭の準備の日」と明言しています(一九・一四)。イエスが城壁の外で十字架につけられた午後には、神殿では過越の小羊が屠られていたことになります。こうすることによってヨハネ福音書は、最後の食事を過越の食事とする以上に強く、イエスを「神の小羊」とし、イエスの死を過越祭の意義に結びつけていることになります。
 もう一つ、最後の食事から十字架の死にいたる一日がニサンの月の一四日であることを示す事実は、その日の明け方にイエスを訴えるためにピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちについて、「彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった」と言われていることです(ヨハネ一八・二八)。そうすると、この時点ではまだ過越の食事は行われていないことになります。彼らが過越の食事を祝っている夜には、イエスの遺体は墓の中に横たわっていたことになります。
 このように、イエスが弟子たちとされた最後の食事の日付は、共観福音書では「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日が始まる夜となり、ヨハネ福音書では「過越祭の準備の日」、ニサンの月の一四日が始まる夜となります。この一日の違いは、いまだに解決されていません。エッセネ派のような黙示思想的傾向の諸派は、エルサレム神殿が用いた公式の暦とは別の太陽暦を用いていたので、イエスの一行はその暦に従っていたからだという説明も提出されていますが、これも様々な困難を抱えており、一般の承認をえていません。

イエスがエルサレム神殿が用いた公式の暦とは別の暦を用いていたとすることで、この亀裂を埋めようとする試みは多く提出されてきましたが、最近の重要な提案として、エレミアス(23頁)もラツィンガー(109頁)も、イエスは一年の各日が同じ曜日になる太陽暦を用いていたとするA・ジョオベールの説を引用し、かなり詳しく紹介しています。しかし、両者ともジョオベールの説を、「問題が残る」(ラツィンガー)とか
「空想的」(エレミアス)として退けています。

 ヨハネ福音書の日付は、イエスの裁判と処刑が(律法で禁じられているはずの)過越祭当日に行われたとする困難を解消します。共観福音書の記述は最初期共同体が口伝伝承を集めて構成したものであるのに対して、ヨハネ福音書の記事は目撃証人の証言に基づく記事であり(ヨハネ二一・二四)、しかもエルサレムの出来事に詳しい弟子の証言によるものですから、歴史的事実としてはヨハネ福音書の日付に分があります。事実ヨハネ福音書(一三〜一七章)の最後の食事の記事には、それが過越の食事であることを示唆する記述(過越の小羊、種入れぬパン、苦菜、ぶどう酒など)は何もなく、イエスが弟子の足を洗われたという出来事と、弟子たちに対するイエスの遺訓が述べられているだけです。そして、共観福音書の「最後の晩餐」記事にも過越の小羊、種入れぬパン、苦菜など、過越の食事を構成する重要な要素がなく、これが過越の食事であったことを問題視する理由になっています。

エレミアス(19頁以下)は、「最後の晩餐」の日付が一日違うという問題についての、歴史上の教会の姿勢を次のようにまとめています。

 中世のローマカトリック教会及び宗教改革者の見解 ― 共観福音書が正しい。ヨハネはこれと対応して解釈されるべきである。。
 ギリシア正教会の見解 ― ヨハネが正しい。共観福音書はこれと対応して解釈されるべきである。
 宗教改革以後の時代に広くゆきわたった解釈 ― 共観福音書もヨハネも正しい。こう解釈するための様々な説が紹介されます。

 エレミアス自身は、「最後の晩餐」は過越の食事であったことを綿密に論証し、それに対する反論も丁寧に反駁しています。すなわち共観福音書の記述を歴史的事実であるとして、ヨハネの記事をそれに合わせて解釈しています。たとえば、ヨハネ福音書の一三・一の「過越祭の前に」という句や一九・一四の「過越祭の準備の日」という句も共観福音書の日付に合わせて解釈しています(やや無理な解釈に感じられます)。しかし、一八・二八の「汚れを受けないで過越の食事をするために、彼らは総督官邸には入らなかった」という記述は、どうしても「過越祭の準備の日」を指し、共観福音書に合わせて解釈することができず、「ヨハネ福音書は首尾一貫していない」と結論しています。このことは、エレミアスの博学をもってしても共観福音書の日付を確立することはできず、ヨハネ福音書の日付の可能性を認めざるをえないことを示しています。また、ラツィンガーも最近のマイアーの左記の浩瀚な著作を引用紹介して、資料の証拠はヨハネの日付に傾いているとし、共観福音書も初期の伝承ではヨハネと同じく最後の晩餐の伝承に過越の食事であることを示唆する内容がなかったことを認めています。ラツィンガーは「古い過越儀礼は行われることはなかった―その時が来たときには、イエスはすでに死んでおられた」と書いて、ヨハネの日付を受け入れています(ラツィンガー114頁)。

John P. Meier, A Marginal Jew: Rethinking the Historical Jesus, (Anchor Yale Bible Reference Library, 1991)   とくに同書 Vol.1, Ch.11 A Chronology of Jesus' Life の386頁 B. The Date of the Last Supper and of the Cruci- fixion of Jesus を参照。

「最後の晩餐」伝承の形成

 わたしは、歴史的事実としてはヨハネ福音書の日付が正しいと考えています。したがって、その食事は正式の「過越の食事」ではなかったはずです。ユダヤ教徒がニサンの月の一五日以外の日に過越の食事をすることはありえません。その上で、たとえその食事が過越祭の前日であり、過越の食事でなかったとしても、イエスがご自分の死を過越の光の中に置かれた事実は変わらないと理解しています。イエスは最後に自分の死を覚悟してエルサレムに上る時期を過越祭の時とされました。そして、いよいよ過越祭が近づき準備の日となったとき、弟子たちと最後の食事をされ、その席でご自身の死が新しい過越を実現する死であることを指し示す言葉、先に見た「わたしの体、わたしの血」の《マーシャール》を語られます。

イエスが告知された「神の国」の福音は、父なる神の無条件の赦しであり、絶対の恩恵の告知であるのだから、いけにえを要求するような神を前提とするこのような言葉(パンと杯の言葉)は実際にイエスが語られたものであることを疑問視する議論が、神学者の間にはあるようです。しかし、イエスは絶対無条件の恩恵の告知がユダヤ教指導層に受け入れられず、ユダヤ教を汚す者として死に定められることを見据えて、ご自分の使命を「主の僕」として自覚されたとき、この「パンと杯の言葉」のような言葉を語り出されたことは、福音書が伝える通り事実であったとするべきです。この言葉は、決して最初期共同体の信仰が生み出した言葉ではありません。しかし、その伝承は最初期共同体の状況によって少しずつ違った形で伝えられることになります。

 この出来事が最初期の共同体で語り伝えられていく過程で、様々なバリエーションを生み出すことになったと考えられます。その伝承が最初に文書に書き留められた形がパウロ書簡(コリント第一書簡一一章二三〜二五節)に見られます。パウロは、コリントの集会に伝えた伝承について、「わたし自身、主から受けたものです」と言っています。「主から受けたもの」という表現の意味については議論がありますが、伝承の内容をなす言葉はエルサレム共同体とかアンティオキア共同体から受けたものであっても、それは主イエスから出たものであることは明らかであるから、「主から受けた」と言ったのか、あるいはそれを異邦人諸集会に伝えることは、復活の主から直接委ねられたと言っていると理解してよいでしょう。
 そこでパウロが「わたしが受けて伝えた」伝承として引用している文言は次の通りです。

 主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリントT一一・二三〜二五)

 この文言にはそれが過越の食事であることを示唆する要素はありません。パンとぶどう酒を用いる普通の食事について語られていると理解することができます。パウロはエルサレムで(またはアンティオキアで)ごく初期の形の「最後の晩餐」伝承を受け取り、それを異邦人諸集会に伝えたものと考えられます。異邦人のキリスト信仰者にとってはユダヤ教の過越祭の習慣は無縁であり、最後の晩餐のときの中核をなすパンと杯の言葉だけが伝えられ、それぞれに「わたしの記念としてこのように行いなさい」という典礼的な制定語が付け加えられています。パウロの書簡は五〇年代半ば頃の成立ですから、七〇年代以降に成立した福音書と較べると、最初期前期(三〇〜七〇年)の異邦人共同体の信仰生活を知る資料として貴重です。福音書が成立流布するまでのパウロ系異邦人諸集会は、一同が「集まるとき」主イエスの死を記念する「主の晩餐」をユダヤ教の過越の食事とは無関係な形で祝っていたと見られます。
 一方、このパウロ書簡に見られる「最後の晩餐」の原伝承が、その後ユダヤ教内キリスト信仰の共同体、とくにエルサレム共同体で語り伝えられていく過程で、過越の食事の衣をまとうようになったのではないかと考えられます。エルサレム共同体では、周囲のユダヤ教徒と同じく、年毎に春の過越祭を祝っていたと考えられますが、その過越祭は必然的に過越祭の時期にイエスと一緒にした「最後の晩餐」の記憶と重なってくることになります。その結果、「最後の晩餐」がユダヤ教の過越の食事の形式で語り伝えられることになったのではないかと推察されます。そのようにして形成された伝承が最初に文書となったのがマルコ福音書であり、それが修正編集されてマタイに受け継がれます。

最初期のエルサレム共同体はなおユダヤ教の枠内にあり、過越祭のときには過越の食事を守ったこと、しかし周囲のユダヤ教徒の過越祭とは異なり、、断食をともなう夜の目覚めの祈りであったことについて、エレミアス(190頁)の「原始キリスト教の過越祭」の項を参照してくだ
さい。なお、そこで触れられている「十四日教徒」の断食の習慣や、一世紀末の小アジアのキリスト教会がユダヤ教過越祭の日に断食していた(エレミアス345頁)ことなどは、最後の晩餐伝承と過越祭との重なりと、最後の晩餐伝承に断食伝承が含まれていたことを指し示しています。

 ルカの場合は別です。ルカはパウロの同労者であり、エーゲ海地域のパウロ系の異邦人諸集会を基盤に活動した人物です。そのルカが伝える「主の晩餐」の伝承(二二・一九〜二〇)がコリント第一書簡に記録されているパウロの伝承とほぼ同じ形になるのは当然です。ところが一方、ルカは広く旅をしてパレスチナ・シリアのイエス伝承も多く収集しています。ルカはその伝承を用いて福音書を書くことになりますが、その伝承はイエスと弟子たちの最後の晩餐を過越の食事として語り伝えるようになっていました。ルカはそのような伝承も用いますが、(先に講解で見たように)それはマルコの形を継承・編集して用いるのではなく、それとは別の独自資料を用いてルカだけの独自記事を形成しています。その独自部分はパンと杯の言葉を伝える本体部(二二・一九〜二〇)の前に置かれた食事の準備の部分(二二・七〜一三)と物断ち宣言の部分(二二・一四〜一八)です。こうしてルカの場合は、最後の晩餐を過越の食事として語るパレスチナ・シリア系のイエス伝承と、パウロがエーゲ海地域の共同体に伝えた、過越の食事と無縁な伝承が併置された形になります。

最後の晩餐伝承が以上のような経過で形成されたとすると、最後の食事の席で語られたはずの「これはわたしの体、これはわたしの血」という重要な言葉がヨハネ福音書では伝えられていないのはなぜかという問題が残ります。たしかにヨハネ福音書も、命のパンについてのイエスとユダヤ人との間の対話(ヨハネ六・五二〜五九)で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という同じ主旨の対話が伝えられています。しかしそれがなぜ「渡される夜」の出来事として伝えられていないのかという問題は残ります。それはヨハネ福音書理解の問題となりますので、その点については拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』256頁以下の「補論―ヨハネ福音書とサクラメント」を参照してください。

 マルコ・マタイ型の最後の晩餐伝承は、パレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の中で形成され伝承されたものと考えられます。ルカも一部この伝承を継承していますので、この共観福音書伝承がイエスの歴史的事実を伝えているとする立場では、イエスと弟子たちとの最後の晩餐はユダヤ教徒が除酵祭の第一日に祝う過越の食事であったことになります。西方教会では長年の間この立場が継承され、最後の晩餐は過越の食事であるとの理解の中で、この出来事が解釈されてきました。エレミアスの『イエスの聖餐のことば』は、この立場のもっとも厳密で包括的な学術的提示であると言えるでしょう。しかしそれは、歴史的事実は共観福音書伝承の中に求められるという前提でなされています。しかし、ここで見たように、共観福音書伝承がパレスチナ・シリアのユダヤ教内キリスト信仰の立場で形成されたものであり、必ずしも歴史的事実を伝えているものではないとするならば、その立論は共観福音書伝承の厳密な提示であっても、必ずしも歴史的事実を論証するものにはならないことになります。
 最後の晩餐伝承には、マルコ・マタイ型の伝承だけでなく、ヨハネの伝承やパウロ・ルカ型の伝承もあります。パウロ型の伝承は、最初期共同体のもっとも初期の伝承、原伝承とも言える伝承を伝えていますが、それには最後の晩餐が過越の食事であったことを示唆する要素はありません。ヨハネの伝承も、最後の晩餐を過越の準備の日になされた食事としており、過越の食事ではないとしています。先にも述べたように、そのことは最後の晩餐の出来事を過越祭の光の中で解釈するという基本的な原理を否定するものではありません。それは、イエスの歴史的実像を追究するさいに、共観福音書伝承の枠の中で行うべきであるという前提が反省されなければならないことを主張しているだけです。イエスの歴史的実像を追究するさいに、ヨハネ福音書の証言が同等に考慮されなければなりません。むしろ、イエスの生涯の基本的枠組みとしては、共観福音書よりもヨハネ福音書の方が歴史的な事実に近いと考えられます。最後の晩餐もその重要な実例です。

現在の欧米の神学において史的イエス(イエスの働きと生涯の歴史的実像)を追究する営みは、ほとんどが共観福音書を基本的資料として行われています。たとえば最近の重要な貢献とされるE. P. Sanders, The Historical Figure of Jesus ,1993 でもこの前提は変わりません。しかし、ヨハネ福音書はイエス信仰の霊的内実を提示する神学的側面だけでなく、イエスの出来事の目撃証人から出た文書として、イエスの生涯と働きの歴史的事実を伝えているという側面があることが軽視されてはなりません。すでにE・シュタウファー「イエス ― その人と歴史」(高柳訳・日本基督教団出版部 1957)が、ヨハネ福音書が提示する枠組みを用いてイエスの生涯を記述しています。 最近の研究では前出 John P. Meier, A Marginal Jew: Rethinking the Historical Jesus, Vol.1, Ch.1, A Chlonology of Jesus' Life がヨハネ福音書の記述を重視してイエスの生涯の年代を構成しています。最後の晩餐の歴史的実像をめぐる論争は、改めてヨハネ福音書の資料的価値を見直させます。

新しい過越の成就

 イエスは生涯最後の過越祭で、ユダヤ教の過越の食事を祝うことはありませんでした。実は前年の過越祭のときもエルサレムには上らずガリラヤにおられます(ヨハネ六・一〜四)。ヨハネ福音書は明確に最後の晩餐が過越の食事でないことを明言しています。それを過越の食事として語り伝えた共観福音書でも、過越の小羊は登場せず、イエス自身は食事を断つことを宣言されたという形で、イエスが過越の食事をされなかったことを示唆しています。古い契約の民イスラエルがその契約を記念する過越の食事をしているとき、イエスはすでに死んで、その遺体は墓の中に横たわっていました。イエスは生涯最後の過越祭において、もはや古い契約祭儀を反復することなく、「神の国」で過越が成就すること、その成就において「神の国」が到来することを見据えて、ご自身をそのための過越の小羊として差し出されます。「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉は、まさにイエスがご自身を過越の小羊として差し出しておられることを指し示す言葉です。事実、 ― ヨハネ福音書が証言するように ― 過越の準備の日に神殿で過越の小羊が屠られているまさにその時刻に、エルサレム郊外のゴルゴタでイエスは十字架につけられ、血を流されていたのです。聖霊によって復活されたイエスを体験した最初期共同体は、同じ聖霊によってこの十字架されたキリストを自分たちのために屠られた過越の小羊として、その出来事を新しい過越の成就として示されました。その理解は、パウロの手紙の一節において次のように伝えられています。

 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」。(コリントT五・七〜八)

 「キリストはわたしたちの過越の小羊として屠られた!」。この告白はけっしてパウロ一人の個人的理解ではありません。それは最初期共同体の共通の告白であり、最初期共同体は十字架された復活者キリストによって新しい過越、終末的な過越が成就したことを理解したのです。パウロ系の異邦人諸集会は、もはやユダヤ教の過越祭を行うことはありませんでした。過越祭は年に一度ですが、キリストの民は「集まるとき」ごとにパンを裂き杯を回して、自分たちのために屠られた過越の小羊である主イエスを「記念し」、その死の救済的意義を世に告知したのです。それは新しい過越の成就でした。ユダヤ教の過越祭では種入れぬパンが用いられたことを予型として、パウロは新しい過越祭を祝うキリストの民に「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで」、「わたしたちの過越の小羊として屠られた」主イエスを礼拝する新しい「過越祭を祝おうではありませんか」と呼びかけています。

「主の晩餐」

 最初期の共同体は、「主イエスが引き渡される夜」弟子たちに語られたパンと杯の言葉を繰り返し聴き、その言葉によって十字架され復活された主イエス・キリストの出来事が救いであり命であることを思い起こすために、パンを裂き杯を回す食事を共にしました。信者たちは「《エクレーシア》に集まる時」にこの主イエスの出来事を記念するために、このような性格の食事を共にしました。それは実際の食事であって、パンとぶどう酒以外の料理も食卓に並んでいたはずです。その食事が《エクレーシア》(集まり)の中心行事であり、それに聖書の解釈や講話、祈りや賛美が伴っていました。この食事のことをパウロは「主の晩餐」と呼んでいます。

先に(用語の説明で)見たように、「晩餐」と訳されているギリシア語は《デイプノン》ですが、これは普通一日の仕事を終えた後にとられる主要な食事です。使徒時代の共同体は、数名または十数名ぐらいの人が個人の家に集まって食事を共にする小規模の集団でした。コリントの集会は例外的にガイオの邸宅にコリント在住の信者が多く集まっていた可能性があります。このような食事の集まりが、どのような頻度で行われていたのかは確認できません。

 パウロは、「主の晩餐」の核心をなすパンと杯の言葉を「主から受けた」ものとして伝えていますが、パンの言葉と杯の言葉のそれぞれに、「わたしの記念としてこれを行え」という指示の言葉を付けています。先に見たように、「最後の晩餐」伝承の最古層を反映していると見られるマルコ福音書には、この指示の言葉はありません。この指示の言葉は、最後の晩餐伝承が共同体に伝えられていく過程で加えられて、パウロが引用する形になっていたものと考えられます。指示の言葉がパンの言葉だけにあるルカ福音書の形は、パウロが引用する形よりも古い伝承を反映していると考えられます。

「記念」と訳されているギリシア語原語は《アナムネーシス》です。「わたしの《アナムネーシス》のために」とは何を意味するのかについても多くの議論があります。エレミアスは、この表現が古代のギリシア・ローマ世界で行われていた死者の記念祭の基金設定のための定型から来ているとする説を詳しく紹介して検討し、その結果その説を退け、この指示の言葉はむしろパレスチナの記念の定型から来ていると主張し、旧約聖書や初期ユダヤ教の用例を多く引用しています。その上でエレミアスは、パレスチナ型の伝統では《アナムネーシス》(覚えること、想起)の主語はいつも神であることから、「主の晩餐」の場合も、「これを行いなさい、神がわたしを覚えられるために」という意味であると主張しています。そして、「神がメシアを覚えられて、メシアが再臨し御国を到来せしめるために」を意味していると主張しています(エレミアス386頁以下)。しかし、そのような意味が含まれる可能性は否定できませんが、「主の晩餐」の核心がパンと杯の言葉である以上、次節のパウロの意義づけが示しているように、やはり主イエスの死の救済史的意義を想起するためという意味が中心であると理解してよいでしょう。

 パウロはパンと杯の言葉を伝える「主の晩餐」伝承を引用した後、パンを食べ杯を飲む行為の意義を語る次のような言葉を付け加えます。

 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。(コリントT一一・二六)

 パウロは、このパンを食べこの杯を飲むことは「主の死を告げ知らせる」行為だというのです。「主の死を告げ知らせる」とは、イエスが十字架につけられて死なれたという歴史的事実を告げ知らせるという意味ではありません。「主《ホ・キュリオス》」、すなわち復活して神の栄光の座にあげられた主《ホ・キュリオス》にしてキリストである方が、パンと杯の言葉が指し示しているように、わたしたちのために死なれたのであり、その死によって新しい契約が結ばれたという救済史的出来事を世に告げ知らせているのです。それは、神が「十字架された姿のキリスト」によって世を救われるという福音の言葉を行為によって指し示すこと、すなわち象徴行為による福音の告知という意味をもっています。
 パウロは「主の晩餐」について、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と言っています(コリントT一〇・一六)。パンを裂き杯を飲むことは、キリストの血と体にあずかること、すなわち、キリストの死にあずかり、復活のキリストにあずかることだというのです。このようにキリストの死と復活の命にあずかって(合わせられて)生きているキリスト者の一人一人の存在とその共同体である《エクレーシア》の存在が、世界に向かって「主の死を告げ知らせる」ことになります。
 この「主の晩餐」の意義をもっとも強く指し示しているのは、ヨハネ福音書の六章、あの「命のパン」の章です。ヨハネ福音書は、もはや最後の晩餐のときのパンと杯の言葉を伝えることなく、その言葉が指し示している霊的現実を、イエスとユダヤ人たちの対話として世に告知します。ヨハネ福音書が語る地上のイエスは復活されたイエスと重なっていますが、そのイエスは「わたしが命のパンである。天から降ってきて世に命を与える者である」と宣言され、次のように言われます。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。(ヨハネ六・五三〜五五)

 これは「主の晩餐」という象徴行為が指し示す霊的現実を端的に表現した言葉です。その豊かな内容はヨハネ福音書(六章)の講解に委ねなければなりませんが、ここでは「わたしの記念として、これを行え」という指示の言葉なしで、パンと杯の言葉の霊的内容を語るという福音告知の仕方が、新約聖書自体の中にあるという事実を指摘しておきます。

ヨハネ福音書には「これを行え」という制定語がないことについて詳しくは、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』256頁の「補論―ヨハネ福音書とサクラメント」の項を参照してください。

 パウロが「主の晩餐」の象徴的意義を語る文(二六節)の末尾に、「主が来られるときまで」という期限を示す句がつけられています。使徒時代の共同体は「主の来臨」《パルーシア》を熱烈に待ち望んでいました。パウロは、少し前に書いたテサロニケ第一書簡でもこのコリント第一書簡でも、この《パルーシア》待望を明確に語っています。「主が来られるとき」には、もはや「このパンを食べこの杯を飲む」ことは必要でなくなります。本体が到来したときには、それを指し示す象徴行為は必要ではありません。イエスは、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」とか「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言っておられます。使徒時代の共同体は、復活されたイエスが主《ホ・キュリオス》として栄光の中に来臨されるとき、この方に属する自分たちは「霊の体」を与えられて、主と一緒にメシアの饗宴にあずかることになるとして、その日を待ち望んでいました。しかし、今は主イエスは天にいまし、自分たちは地上におります。そして、地上にいる限り、わたしたちは「このパンを食べこの杯を飲む」ことによって「主の死を告げ知らせる」営みを続けていくことになります。この営みの期限を語るこの「主が来られるときまで」という句は、この象徴行為が「主の来臨」を指し示す行為でもあることを語っています。

聖餐

 「主の晩餐」の意義とその実行の仕方について、パウロはコリントの集会に詳しく書き送っています。(コリントT一一・一七〜三四)。それを見ますと、それが実際の食事であるため、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」となり、無秩序に陥り、「主の晩餐」本来の性格を見失ってしまう危険にさらされていました。
 コリント集会の「主の晩餐」の状況を伝え聞いたパウロは、「主の晩餐」の意義を回復するために手紙で指示を与え勧告します。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか」と言って、「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい」と指示しています(コリントT一一・二二、三三、三四)。この指示は、「主の晩餐」が実際の食事であることから生じる弊害を避けて、純粋に主のあがないの死を記念し、かつ愛の一致を実現するための集会行事にすることを目指した指示です。パウロがこの指示を与えたことは、「主の晩餐」が実際の食事と「聖餐」と呼ばれる儀式とに分かれていく傾向が、すでにこの時代(使徒時代)からあったことを示唆しています。事実、その後の歴史を見ますと、この分離は急速に進み、日曜日の集会の礼拝ではパンと杯で主の死を記念する儀礼だけとなり、共同の食事は《アガペー》(愛餐)と呼ばれて別の機会に行われるようになります。
 最初期の共同体は、日曜日の早朝に集会をして、復活者キリスト、「主《キュリオス》・イエス・キリスト」を礼拝するようになります。それは、復活されたイエスが最初に現れたのが「週の初めの日」、すなわち日曜日であったので、その日を「主の日」と呼んで尊び、主イエス・キリストを礼拝するために集まるようになります。それは、土曜日を安息日として礼拝に集まるユダヤ教徒と区別して、自分たちはユダヤ教徒ではない、別の信仰共同体であることを示すことになりました。その集会が早朝に行われたのは、女性たちが最初に復活されたイエスに会ったのが日曜日の早朝であったこともありますが、当時のローマ社会では日曜日は休日ではなく、ほとんどの信者は仕事に行かなければならないので、集まりができるのは早朝だけという実際的な理由もありました。早朝の集会では実際の食事をすることはできません。そこで「主の死を記念する」象徴行為は、パンを裂き杯を回すだけの儀礼的な形になります。パンだけの場合も多かったのではないかと推察されます。
 パンと杯による主の記念の儀礼は《エウカリスティア》(感謝)と呼ばれ、集会の主要な行事となります。その前に準備として聖書朗読や説教や祈りが行われます(この部分はユダヤ教会堂の習慣を踏襲したもので、後にプロテスタント教会の礼拝の主要部になります)。食事から分離した儀礼としての《エウカリスティア》(聖餐)は、おそらくヘレニズム世界の密儀宗教の影響もあって、バプテスマというイニシエィション(加入儀礼)を受けた者だけに与えられる救済の「サクラメント」(聖礼典)とされ、そのパンとぶどう酒は神の救済とか生命を現実に伝達する神聖な物質と理解されるようになります。この傾向は長い教会の歴史の中で続き、ついにカトリック教会の「化体説」で完成します。「化体説」というのは、パンとぶどう酒は司教の聖別の祈りによってその全実体がキリストの体と血に変化するという教理です。司教の組織体としてのカトリック教会は、有効なサクラメントを与える唯一の機関として、救済手段を独占することになります。
 これに対して、宗教改革は「化体説」を否定して、聖餐を「見えない神の言葉の見える形」として回復しようとしました。しかし、聖餐の聖礼典(サクラメント)としての性格は保持しました。わたしたちはさらに進んで、教会の聖礼典にあずかることはなくても、キリストとの交わり(それが救いであり永遠の命です)はありうると確信し、そう主張しています(拙著『教会の外のキリスト』序章「教会の外のキリスト」参照)。それは、キリストとの交わりは儀礼にあずかることによってではなく、信仰によって与えられる聖霊の働きによることを体験しているからです。
 しかし、「主の晩餐」がそれにあずかることが救いを保証する聖礼典(サクラメント)であることを否定することは、「主から受けた」伝承である主を記念する食事そのものを否定するものではありません。わたしたちの信仰が儀礼化したり観念化することを防ぐためにも、集会の共同の食事という場に復活されたキリストの臨在を迎え、わたしたちのために死なれたキリストを記念し、お互いの愛の交わりを確認することは、御霊によるキリストとの交わりに生きる民にとってふさわしいことです。そのような形で、復活者キリストの十字架を終末的な救いの出来事として世界に告知することはふさわしいことです。しかし、集会の規模や状況によっては共同の食事は困難である場合があるでしょう。その場合も、キリストに属する者が二人三人集まるところには主がそこにおられるのですから、日常の食事の場を主を記念する「主の晩餐」とすることはできるのです。形はどうであれ(パンとぶどう酒でなくてもよいのです)、御霊のキリストとの交わりに生きることによって、食事にいたる日常の具体的な生活で主を記念し、主を告白し、また相互の愛の交わりを深めていくことが望まれます。
 ここで見ました「主の晩餐」に関するパウロの心配から、食事と「聖餐」儀式の分離へと向かう方向ではなく、食事を「主の晩餐」の本来の意義にふさわしい御霊の場とする方向に、わたしたちは進むべきでしょう。

日常の食事を「主の晩餐」として主を記念する営みとすることについては、拙著『聖書百話』64頁「28 食卓の信仰」を参照してください。