市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第23講

130 ペトロの離反を予告する(22章31〜34節)

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。(二二・三一)

 イエスがペトロの離反を予知して、それをペトロに予告されたことはマルコにも伝えられていますが、マルコ(一四・二六〜三一)はそれを食事を終えた後、一行がオリーブ山に向かう途上での出来事としています。このように置かれている位置が違い、その内容と表現もかなり違っているので(ホセアの預言の引用はなく、代わりにイエスの祈りが置かれていることなど)、ルカはマルコを編集改訂したのではなく、ルカ独自の別の伝承を用いたものと考えられます。
 イエスはペトロに彼の日常のユダヤ名「シモン」を繰り返して呼びかけられます。この呼びかけは、寝食を共にしてきた仲間に対する親しみをこめて呼びかけておられることを感じさせます。そのような仲間のあなたたちをもふるい落とそうとサタンが働いている事実を指し示して警告されます。ここでサタンが働きかけるのは「あなたたち」と複数形です。すなわち、シモン一人ではなく、シモンの仲間である十二弟子の全体です。
 ここで弟子たちに対するサタンの働きかけが、「小麦のようにふるいにかける」という比喩で語られています。「ふるいにかける」という動詞は新約聖書ではここだけに出てくる動詞ですが(ふるいのイメージはすでにアモス九・九にあります)、「小麦のように」という句が示しているように、これは収穫のときの選別作業、すなわち倉に収めるべき小麦と焼き捨てるべき夾雑物を選別する作業を指していることは明らかです。この選別作業のことは、すでに洗礼者ヨハネが語っています(三・一七)。イエスはここでその比喩を用いて、サタン、すなわち神の働きを妨げようとする霊的勢力が、弟子たちをイエスから引き離し、神の働きを妨げようとしていることを予告されます。
 サタンはイエスの働きを妨げようとして、イエスの働きの期間中ずっと働いてきましたが、受難の時期にはとくにサタンの働きが顕著になります。理不尽な苦難は、人間の神への信頼を揺るがせ、絶望に陥りやすいので、サタンの働きのよい機会となるからです。苦難の時はいつも信仰が試されるとき、サタンとの戦いの時です。
 このサタンの働きかけが「神に願って聞き入れられた」という表現で語られているのは、ヨブ記を思い起こさせます。ヨブ記(一〜二章)では、サタンがヨブの信仰を試してみることを神に提案し、神はヨブの忠誠を信頼してその提案を聞き入れられます。ここでもイエスは、神が弟子たちに対するサタンの働きかけを認められたとして、弟子たちがイエスから離反することになる出来事を、神から出るのではなくサタンから来る出来事であるが、それでもなおそれが神のご計画の枠内の出来事であることを語っておられます。

 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(二二・三二)

 しかし、サタンの願いを聞き入れられた神は、それ以上にイエスの願いを聞き入れる方です。イエスは「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われます。ここでは「あなた」と単数形で、シモンが祈りの対象であることが明示されています。神はイエスの祈りを聞き入れて、サタンの働きかけによってイエスから離反することになるシモンが、その信仰を無くしてしまうことにはならず「立ち直る」ことを、イエスは知っておられます。
 それでイエスはシモンに向かって、「あなた(強調されたあなた)が立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(私訳)と言われます。この節では「わたし」と「あなた」という二つの人称代名詞が強調されて対比されています。「わたしは(あなたのために)祈った ― (その祈りで立ち直った)あなたは兄弟たちを力づけなさい」という形で対比されています。
 イエスは弟子たちがすべて離反することになることを予知され、その上で立ち直ったシモンが他の弟子たちを「力づけて」立ち上がらせ、一度はサタンの策略によって崩壊した弟子団が、立ち直ったシモンの激励の下に再建されることを予告されたことになります。

その後の事態の成り行きは、このイエス予告通り、イエスの刑死に落胆してガリラヤに戻っていた弟子たちが、復活されたイエスに最初に出会ったペトロの主導の下に再びエルサレムに結集して、イエスを復活者キリストとして告知する共同体を形成します。この事実が、最初期のエルサレム共同体におけるペトロの筆頭者としての地位を確立することになります。それでここのイエスの予告の言葉は、この最初期共同体の事実から形成されたのではないかという推察を可能にします。さらにその推察は、この予告に「兄弟たち」という最初期共同体特有の用語が用いられていることからも促されます。この予告の言葉(二二・三一〜三二)は他の福音書にはなく、ルカだけにあるルカの特殊記事ですが、それはどの福音書にもあるペトロの否認の事実とルカが伝える最初期エルサレム共同体におけるペトロの指導的地位とを橋渡しする役割を果たしています。この記事は、最初期共同体におけるペトロの首位性を根拠づける記事として、マタイ(一六・一七〜一九)の記事のルカ版かもしれません。なお、イエスの死後ガリラヤに戻っていた弟子たちが再びエルサレムに結集する経過については、拙著『福音の史的展開T』の序章「復活者イエスの顕現」を参照してください。

 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。(二二・三三)

 弟子たちがサタンの策略に負けて離反するようなことを予告されるイエスの言葉に対して、シモンが抗議を申し立てます。彼はこのような言葉で、自分はどんなことがあってもイエスから離反することはないという堅い決意を披瀝します。シモンは実際そういう覚悟をしていたのでしょう。しかし、人間の決意とか覚悟というものは、それが死を覚悟するほどのものであっても、いかに脆いものであるかはすぐに露呈します。イエスは、神のご計画の前では、人間の決意とか覚悟がいかに無意味なものであるかをよくご存じです。イエスはシモンの覚悟に対して次のように言われます。

 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。(二二・三四)

 ここまではシモンという仲間内の名で呼びかけられていましたが、ここではペトロというイエスがお与えになった名で呼びかけられています。岩として来るべき民の土台となることを期待して与えられた名(マタイ一六・一八)をもつあなたが、「今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言う」ことになると予告されます。イエスは、これから起ころうとしていることがいかに人間の理解を超えることであるか、また人間の計画や決意を吹き飛ばす圧倒的な出来事であるかを見据えておられます。
 「夜が明ける前に」とは言わず、「鶏が鳴くまでに」と言われているところに、イエスの語り口が感じられます。マルコ(一四・三〇)は「鶏が二度鳴くまでに」と書いていますが、マタイとルカは「二度」を入れていません。マタイの場合はマルコの伝承を簡略化した結果でしょうが、ルカの場合は別の伝承によっていた結果と見られます。先に見たように、マルコでは弟子の離反の予告は、オリーブ山へ行く途上で、ホセアの預言を引用してなされたことになっていますが、ルカでは最後の食事の席で、ホセア預言の引用ではなく、イエスの祈りで導入されており、別系統の伝承が用いられていることを示しています。
 ペトロがイエスを三度まで否認する(知らないと言う)ことは、どの福音書にも伝えられています。そして、実際ペトロがイエスを否認したことはどの福音書の受難物語でも大きく扱われ、詳しく伝えられています。その意義は、その事実が起こった時の箇所で扱うことにして、ここではイエスがそれを予告された事実とその意義だけに止めます。