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過越の食事の準備

127 過越の食事を準備させる(22章7〜13節)

 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。(二二・七)

 共観福音書は最後の食事を「除酵祭の第一日」に行われた「過越の食事」としています(マルコ一四・一二〜一七とマタイ・ルカの並行段落)。ところがマルコは、その日付に「すなわち過越の羊を屠る日」という説明をつけています(マルコ一四・一二)。過越の食事は「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日が始まる夜にしますが、その直前の昼間に神殿で子羊が屠られます。ユダヤ暦では日没から一日が始まるのですから、小羊が屠られる昼間は前日の一四日になります。マルコが小羊が屠られる日と過越の食事が行われる「除酵祭の第一日」を同じ日としたのは、朝から一日が始まるギリシア人やローマ人の日の数え方(われわれも同じ)に従って説明したものと考えられます。
 マタイはおもにユダヤ人読者に向かって書いていますから、この(ユダヤ暦上の)矛盾を避けるためか、マルコの「すなわち過越の羊を屠る日」という説明を省いています(マタイ二六・一七)。マタイでは、弟子たちとの夕食から始まり、夜中の逮捕、明け方の裁判、昼間の処刑、日没前の埋葬というイエスの最後の一日は、問題なく「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日となります。
 ルカ(二二・七)は、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」と、やや曖昧な表現で書いています。これでは除酵祭第一日の当日なのか、過越の小羊を屠る日(準備の日)なのか決定できません。ルカの時代の異邦人読者には、どちらでもよい事柄だったのでしょう。一日を朝から始める数え方をする異邦人読者にとって、過越の小羊を屠る午後に続く夕方は同じ日になり、その日のことを「除酵祭の日が来た」と言うのが、ごく自然なことになります。ルカの書き方をこのような意味にとると、ルカも(ユダヤ暦の)ニサンの月の一五日が始まる夜にその食事が行われたと言っていることになります。
 それに対してヨハネ福音書(一三・一)は、これから語られる出来事が「過越の祭りの前」、すなわち過越祭の前日、過越の子羊が屠られる「準備の日」、ニサンの月の一四日(ユダヤ暦)のこととしています。そうすると、イエスと弟子たちの最後の「夕食」は、小羊が屠られる昼間から見るとその前夜になります。従ってそれは過越の食事ではない可能性が高く、事実ヨハネ福音書の最後の夜の食事の記事には、それが過越の食事であることを示唆する記述はありません。
 ヨハネ福音書では、イエスはニサンの月の一四日が始まる夜に弟子たちと最後の食事をされ、夜中の逮捕、明け方の裁判を経て、その日(一四日)の正午過ぎに十字架につけられたことになります。ヨハネ福音書(一九・一四)はこの日を「過越祭の準備の日」と明言しています。イエスが城壁の外で十字架につけられた午後には、神殿では過越祭のための小羊が屠られていたことになります。こうして、まさに神殿で過越祭のための羊が屠られている時にイエスは「神の小羊」として十字架につけられたとすることによって、ヨハネ福音書は最後の食事を過越の食事とする以上に強くイエスの死を過越祭の意義に結びつけていることになります。
 もう一つ、最後の食事から十字架の死にいたる一日がニサンの月の一四日であることを示す事実は、その日の明け方にイエスを訴えるためにピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちについて、ヨハネ福音書(一八・二八)では「彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった」と言われていることです。そうすると、この時点ではまだ過越の食事は行われていないことになります。彼らが過越の食事を祝っている夜には、イエスの遺体は墓の中に横たわっていたことになります。
 このように、イエスが弟子たちとされた最後の食事の日付は、共観福音書では「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日が始まる夜となり、ヨハネ福音書では「過越祭の準備の日」、ニサンの月の一四日が始まる夜となります。この一日の違いは、いまだに解決されていません。エッセネ派のような黙示思想的傾向の諸派は、エルサレム神殿が用いた公式の暦とは別の太陽暦を用いていたので、イエスの一行はその暦に従っていたからだという説明も提出されていますが、これも確実な根拠はなく、一般の承認をえていません。

最後の食事の日付は十字架の日付でもあるので(日没から一日が始まるユダヤ暦では同日)、その日が過越祭のどの段階であるのかを決定することは重要です。しかし、この問題は未解決です。この問題については、先に拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』10頁の「最後の食事の日付」の項で詳しく扱いましたので、ここにその内容を再録しました。ただし、文意をさらに明確にするために一部の表現を改めています。なお、この食事の性格については、それに続く「それは過越の食事であったのか」の項を参照してください。共観福音書はその食事を「過越の食事」としていますが、ヨハネ福音書ではそうでない書き方がされており、この点は後述の「補論」で扱います。

 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。(二二・八)

 イエスはご自身の業を成し遂げる決定的な時として過越祭を選び、その祭りに合わせてエルサレムにお入りになりました。そのエルサレムで弟子たちとする最後の食事を、日付はどうであろうと、ルカを含む共観福音書は「過越の食事」としています。イエスは身近な二人の弟子ペトロとヨハネを使いに出して、「過越の食事」の準備をさせられます。ペトロとヨハネの名が出てくるのはルカだけです。

 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています』。すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」。(二二・九〜一二)

 「どこに用意いたしましょうか」と訊ねる二人の弟子に、イエスは不思議な指示をお与えになります。普通生活に必要な水を井戸から汲んで家に運ぶのは女性の仕事です。「水がめを運んでいる男」は珍しく、その姿自体が予め打合せができる当事者だけが意義を悟る合い言葉のような役割を果たします。この指示はイエスが預言者的霊感で出来事を予見して語られたのか、それとも予め打合せをしておられたことか争われていますが、後者であってもイエスの尊厳とこの最後の食事の重要性が減じるわけではありません。
 イエスは弟子たちに重要な奥義を語っておくための最後の機会としてこの最後の食事を重視しておられ、自分の命を狙う神殿支配勢力に探知されてその機会が失われるようなことにならないために、慎重な配慮をもって準備されたと考えられます。イエスはエルサレム在住の信頼できる支持者と打ち合わせて、イエスと弟子の一行が秘かに集まることができる計画を立てておられたと見られます。
 エルサレムにもイエスの支持者はかなりいたと見られます。共観福音書ではイエスがエルサレムで福音を告知される働きをされたのは最後の一週間だけですが、それでもその期間にイエスを信じるようになったユダヤ人はいたと見ることができます。しかし、そのような人に重要な秘密を委ねることはできないと考えられるので、やはりヨハネ福音書が伝えるように、イエスはこれまでしばしばエルサレムで活動され、そのしるしを見たエルサレムの住人がかなりイエスを信じるようになっており、ニコデモやアリマタヤのヨセフなどの有力者も含まれていたことが知られています。イエスは、かなりの広さの家を持っているエルサレム在住の有力な支持者と打ち合わせておられたと見ることができます。このような事情は、弟子たちに指示を与えるときにイエスが「都のあの人のところに行って」と言われたとするマタイ(二六・一八)の伝承が示唆しています。「都のあの人」と言えばどの人かが分かるというのは、その人が弟子たちもよく知っている旧知の人物ということになります(マタイには「水がめを運んでいる男」の物語はありません)。ルカはマタイの伝承を知らず、もっぱらマルコの物語に従って「水がめを運んでいる男」の物語を伝えています。
 この時にイエスと弟子の一行に提供された「二階の広間」は、イエスの復活後エルサレムに移住してきたガリラヤ人の弟子たちが復活者イエスの来臨を待って祈りに没頭していた「泊まっていた家の上の部屋」(使徒一・一三)と同じ部屋ではないかと推察されます。さらに、ペンテコステの日に「弟子たちが集まっていると」(使徒二・一)聖霊が降ったのも同じ部屋だと考えられます。この部屋こそ、エルサレム共同体が呱々の声をあげた場所であり、その後の活動拠点となった部屋であると推察されます。

この「二階の広間」《アナガイオン》(二二・一二)と「上の部屋、屋上の間」《ヒュペローオン》(使徒一・一三)は、原語は違いますが同じ部屋を指していると考えられます。福音書ではルカはマルコの用語を踏襲していますが、使徒言行録では自分の選んだ用語を使っています。古代教会の伝承から、この家があったところに「最後の晩餐教会」が建てられたとされています。この教会は現在、エルサレム南西部の「シオン地区」にあるので、最後の晩餐が行われ、最初期のエルサレム共同体が集まったこの家は、シオン地区にあったと推定されます

 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。(二二・一三)

 「過越の食事を準備した」と訳されている原語は「《パスカ》を準備した」です。《パスカ》というギリシア語(アラム語の音訳)は、過越祭の日の夜に出エジプトの出来事を記念して行われる食事の全体を指す場合と、その食事の席で食べられる小羊を指す場合があります。ここは過越祭の夜の食事の全体を指していますが、「《パスカ》を屠る」という場合は明らかに過越の小羊を指しています(二二・七、マルコ一四・一二、コリントT五・七)。
 過越の食事を準備するには、酵母を入れないで焼いたパンや苦菜が必要ですが、中心は祭りの準備の日に神殿で祭司によって儀礼に従って屠られた過越の小羊《パスカ》です。当時の用語の常識からすると、弟子たちが「《パスカ》(過越の食事)を準備した」中に当然「《パスカ》(過越の小羊)を(神殿から持ち帰って)用意した」の意味が含まれています。ここの「《パスカ》を準備した」をこの意味に理解すると、弟子たちが「過越の食事を準備した」のは、過越の小羊が屠られる準備の日(ニサンの月の一四日)の午後であり、日没から始まる過越祭当日(ニサンの月の一五日)の夜に過越の食事をしたことになります。
 普通過越の食事は家族単位とか巡礼者の(一〇名程度の)グループ単位で行われますが、過越の食事の準備としては、家長ないしはグループの代表が一四日の午後に小羊を神殿にもって行き、祭司に屠ってもらって持ち帰り、それを丸焼きにして夜の過越の食事で食べます。ところが、やや奇異なことですが、この準備の記事にも食事の記事にも小羊のことが全然出てきません。この事実は、この最後の食事がユダヤ教の儀礼的食事である「過越の食事」ではなかったことを示唆するので、本節の「過越の食事を準備した」という記述と矛盾することになり、議論を招いています。小羊を用意することは「過越の食事を準備した」に当然含まれているとしてとくに言及しなかったとか、広間を提供した家の主人がイエス一行のために過越の小羊《パスカ》を用意した可能性もあります。それで一五〜一六節に出てくる「《パスカ》を食べる」という表現が、「過越の食事をする」ことなのか、それとも「過越の小羊を食べる」ことなのかが争われることになります。この問題は次の段落の講解で触れることになりますが、ここでは《パスカ》という語は、「過越の食事」全体と「過越の小羊」という両義があり、さらに過越祭そのものを指すという多くの意味で用いられる語であることを指摘しておきます。