市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第17講

125 目を覚ましていなさい(21章34〜38節)

 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」。(二一・三四〜三五)

 マルコは、「天と地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない」という言葉の後に、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ一三・三二)という言葉を置いて、「その時は分からないのであるから、目を覚ましていなさい」という警告(一三・三三)を続けています(マタイも同じ)。ルカはこのマルコ一三・三二の「その日、その時は、だれも知らない」という言葉を省略しています。この「目を覚ましていなさい」という警告の段落で用いられている表現がマルコとルカではかなり違うので、ルカは別の資料を用いているのではないかという推察もありますが、それは確認できません。
 この箇所でマルコ(一三・三四〜三七)は、旅に出た主人がいつ帰ってくるか分からないのだから、責任を割り当てられた僕は目を覚ましていなければならない、という比喩を用いています。ルカはこの比喩をすでに一九章(一一〜二七節)の「ムナのたとえ」の中で用いていますので、繰り返しを避けたのでしょう。ここでルカが用いている表現は、イエス伝承にある比喩ではなく、パウロ系の共同体での語り方を反映しています。その日が不意にすべての人を「襲う」というのは、テサロニケ第一書簡(五・一〜四)と同じです。警告に用いられる用語も、パウロ文書、とくにパウロ名書簡の用語と多く重なっています。たとえば、「罠」は(ローマ一一・九の詩編の引用を除いて)ここと牧会書簡の三箇所(テモテT三・七、六・九、テモテU二・二六)だけに出てくる語です。その他、「放縦」(エフェソ四・一九、テモテT五・六)、「深酒」(ガラテヤ五・二一、ローマ一三・一三、コリントT六・一〇、エフェソ五・一八)、「生活の煩い」(コリントT七・三一〜三二、フィリピ四・六、テモテU二・四)なども、(括弧内の箇所に見られるように)パウロ系共同体で主の来臨の日を目指して歩む者たちへの勧告として語られていた用語や表現です。ルカはその勧告をまとめて、イエスの終末説教の結びとして用います。

 「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。(二一・三六)

 「逃れる」という表現は、ロトのことを思い起こさせます。やがてソドムの町を襲う火と硫黄による滅びから逃れるようにという御使いのお告げを受けて、ロトはソドムから逃れました。この終末説教で、この世界には神の裁きの日の前に大きな患難が臨むことが語られていましたが、その患難の中で滅びることなく、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、(その後に到来される)人の子の前に立つことができるように」、いつも、どのような時にも、目を覚まして祈るように求められます。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」日に、「人の子」の前に立つことは、「人の子」に受け入れられて、その栄光にあずかることを指しています。最初期のパレスチナ・ユダヤ人も福音告知においては、救いはこのような「人の子」との関連で語られていました。ルカはここでその伝承を忠実に伝えています。
 マルコは、旅に出ていつ帰ってくるか分からない主人のたとえを用いて、だから「目を覚ましていなさい」とだけ勧告しています。それに対してルカは「目を覚まして」に「祈っていなさい」を加えています。「わたしはすぐに来る」という使信は、「主よ、来てください」という待望の祈りにおいて自覚されます(黙示録二二・二〇)。最初期の共同体は、「マラナ・タ(主よ、来てください)」という言葉を合い言葉として、主の来臨を待ち望んでいました。聖霊が力強く働かれる場では、この祈りが溢れてきます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」と、この自覚が薄れ、「人の子の日」が不意に襲うことになります。その日が不意の出来事とならないように、絶えざる祈りにおいてその日が来ることを自覚して歩むように説き勧めて、この「終末説教」が結ばれます。

今回取り上げた二一章(五〜三六節)のイエスの「終末説教」は、「人の子」の間近な到来を告知する「マルコの小黙示録」を(細かい点ではルカ独自の改変が見られますが)基本的にはほぼそのまま継承しており、「来臨遅延」の問題に対処するために二部作を著述したルカの終末思想の中でどのような意味をもつのかが問題となります。この問題は拙著『福音の史的展開U』のルカ二部作を扱う章で詳しく論じていますので、ここでは本文の講解だけに止めます。なお、前著『ルカ福音書講解U』338頁の「補説 ルカにおける終末待望」において一応の解説を試みていますので、それを参照してください。

区分「神殿での活動と論争」への結び

 ルカはその福音書をガリラヤでの活動、エルサレムへの旅、エルサレムでの受難と復活という三部構成で書いています。エルサレムでの受難と復活を語る第三部は、大きく次の三区分で構成されていると見られます。
   1 神殿での活動と論争(一九・二八〜二一・三八)
   2 受難物語(二二・一〜二三・四九)
   3 復活告知(二三・五〇〜二四・五三)
 エルサレム入りの記事(一九・二八〜四六)で始まった第一区分は、神殿境内での教え(一九・四七〜二一・四)、終末についての説教(二一・五〜三六)と続き、ここで終わります。エルサレムに入られたイエスは、神殿から商人を追い出すという激しい象徴行為をされましたが、その後は毎日神殿境内で民衆に「福音を告げ知らせる」活動を続けてこられました。その活動は、次の記事で導入されていました。

 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。(一九・四七〜四八)

 最後の終末説教でその活動は終わりますが、その間の活動が次の記事で締めくくられます。この記事はここに引用した一九・四七〜四八の記事と一組になって、イエスのエルサレム神殿での福音告知活動を囲いこんでいます。

 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。(二一・三七〜三八)

 この記事から、エルサレムで活動された最後の週のイエスの姿が伝わってきます。イエスは日中は神殿で教える活動をされますが、夜は城門を出て、キデロンの谷を渡り、エルサレム市街の東にあるオリーブ山に退かれます。市外で夜を過ごすことは多くの巡礼者たちの習慣でした。イエスと弟子の一行が夜を過ごした場所は、オリーブ山の山麓のオリーブの木が茂った一角で、マルコ(一四・三二)はそこを「ゲツセマネという名の土地」と名をあげていますが、ルカは土地の名をあげることなく、ただ「『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とだけ書いています。ルカは一度も「ゲツセマネ」という名をあげることはありません。エルサレムから遠く離れて暮らしている異邦人読者には、小さな土地のヘブライ語の名は必要でないとしたのでしょうか。
 イエスが夜を過ごされる場所を知っている弟子のユダが、イエスを民衆のいないところで秘かに逮捕したい祭司長たちに通報します。このユダの「裏切り」によって、イエスはいつも夜を過ごす場所で逮捕されることになりますが、そこの記事でもルカは土地の名をあげず、ただ「いつもの場所」とだけ書いています(二二・三九〜四〇)。
 夜が明けると、イエスはエルサレム市街に入り、神殿境内で教える活動をお始めになります。その話を聞こうとして、過越祭に集まっている多くのユダヤ人が朝早くから集まってきます。過越祭のエルサレムには全国からの巡礼者が大勢集まっていました。イエスは祭りに集まる大勢のユダヤ教徒に恩恵の支配を告知する最後の活動を進められます。
 この区分の説話や論争は、神殿境内での出来事としてまとめられていますが、その中には最後の「終末説教」のように、明らかに弟子たちに向かって語られたものがあります。マルコ(一三・一)のように、これは神殿から出て弟子たちとだけになられた時に語られたとする方が分かりやすいのですが、ルカは状況にとらわれず、イエスが弟子たちに終わりの日に対する心構えを説かれた語録をまとめて、(マルコに従い)ここに置いています。
 こうして、エルサレムでの最後の週の活動は締めくくられ、次章からいよいよイエスの受難の物語が始まります。