市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第16講

124 「いちじくの木」のたとえ(21章29〜33節)

 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏に近づいたことがおのずと分かる」。(二一・二九〜三〇)

 マルコ(やマタイ)では、「いちじくの木からたとえを学べ」となっていますが、ルカはそれに「ほかのすべての木」を加えています。いちじくの木はイスラエルを象徴する木ですから、いちじくの木だけではイスラエルの民に起こることだけが徴として限定されることを避けるためでしょうか、ルカは「ほかのすべての木」を加えて、異邦人読者に広く世界に起こる出来事に注意を向けさせています。
 木々に新芽が出始めると夏が近いことを知るのは、どの国民にも共通の体験です。それを比喩の比較点として、イエスはここで語られた出来事を神の支配の到来が近いことの確実な徴とされます。

 「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」。(二一・三一)

 「それと同じように」、すなわち新芽は夏の近いことを示すという自然界の法則が確かなように、ここに予告された歴史的出来は神の支配の到来の近いことを指し示しているのは確かであるという形で、自然界の法則の確かさによって救済史の法則の確かさが保証されます。
 この箇所で、マルコ(一三・二九)は「彼(人の子)が戸口に近づいていると悟りなさい」と書いています。ルカはそれを「神の国が近づいていると悟りなさい」と変えています。ルカはイエスの福音告知の主題を「神の国」、「神の支配」という表現で語る著者です。四章四三節の主題提示から始まって福音書では「神の国」を三三回用いています(新共同訳で)。これはマタイの五回、マルコの一四回、ヨハネの二回に較べて圧倒的に多い使用です。ここでもユダヤ教黙示思想に特有の「人の子」を、異邦人読者向けに「神の国」に変えています。

 「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」。(二一・三二)
 この節と次の節は「過ぎ去る」という同じ動詞を用いて一組の語録を形成しています。新共同訳では「滅びる」と訳していますが、本来の意味の「過ぎ去る」の方がよいのではないかと考えられます。イエスは「これらのすべてが起こるまでは、この《ゲネア》が過ぎ去ることは決してない」と言っておられます。
 この節の解釈で問題になるのは、《ゲネア》の意味です。同じ先祖から生まれた者たちという意味で「子孫」とか「種族」という意味で用いられる場合もありますが(使徒八・三三)、同じ時期に生まれた者たちという意味で「世代」(ジェネレイション)という意味で用いられる場合(マタイ一・一七)が大部分です。新約聖書では四三回の用例の中で三三回が共観福音書にあり、その中で二五回がイエスの時代のユダヤ人を指しています。その中で一七回が「この」をつけて「この世代」と言われています。
 新共同訳はこの《ゲネア》を「時代」と訳していますが、「時代」は「江戸時代」などとかなり長い時期を指すことも多いので、ここでは不適切で、イエスの時代のユダヤ人を指す用語として「世代」と訳すべきでしょう。共観福音書では、神が終わりの日に遣わされた洗礼者ヨハネとイエスを共に拒んだ「この世代の人々」が糾弾されており(七・三一〜三五)、イエスは「なんと不信仰で曲がった世代なのか」と嘆いておられます(九・四一)。そして、死者からの復活という最終的な「ヨナのしるし」を信じない「今の世代の者たち」は「よこしまな世代」として非難されています(一一・二九〜三二)。さらに、イエスを殺すことになる「今の世代の者たち」が、「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、その責任を問われることになる」と断罪されます(一一・五〇〜五一)。このような糾弾とか断罪の言葉には、「語録資料Q」の言葉が響いています。すなわち、先に「七十二人の派遣」のところで見たように、十字架につけられて殺され復活されたイエスをメシア・キリストとして宣べ伝え、同胞ユダヤ人の拒否に出会ったQ共同体(「語録資料Q」を生み出したパレスチナ・ユダヤ人の福音運動)の「この《ゲネア》」に対する失望と糾弾が感じられます。
 では「すべてのことが起こるまで」の「すべてのこと」は何を指すのでしょうか。この「すべてのこと」、とくに「人の子」の到来による神の支配の実現がまだ起こっていないという事実に合わせるために、「この《ゲネア》」をユダヤ人とか人類を指すとする解釈もありますが、これは無理で、このようにイエスが繰り返し「今の世代」のイスラエルを断罪しておられる以上、ここの「この《ゲネア》」も「今の世代」と理解しなければなりません。イエスは「今の世代」が過ぎ去るまでに、この終末説教で語られたすべてのことが起こるのだと預言しておられることになります。
 六六年に始まり七〇年のエルサレムの陥落、神殿の崩壊に至るユダヤ戦争は、ユダヤ人にとっては世の終わりともいうべき出来事であり、終わりの日の大患難です。それはイエスの世代のユダヤ人に起こりました。そういう意味で、イエスがここで預言されたことは実現しました。しかし、エルサレムの陥落、神殿の崩壊という歴史的事件に重ねて語られた世界の終末・完成はまだ来ていません。そのことについて、イエスは続いてこう語られます。

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。(二一・三三)

 イエスは言われます、「天と地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない」。同じ「過ぎ去る」という動詞が、二回とも未来形で使われています。
 過ぎ去って無くなるものと、過ぎ去ることなく残るものとの対比のことを聞くと、わたしたちは預言者の言葉を思い起こします。イザヤはこう叫んでいました。

 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ四〇・六〜八)

 「肉なる者は皆」、すなわちすべての人間の営みは、野の草や花がすぐに枯れてしぼむように、定められた時が来ると、過ぎ去り無くなってしまうものです。とこしえに存続するものではありません。それに対して、預言者が伝える神の言葉は過ぎ去ることなく、「とこしえに立つ」と宣言しています。
 イエスの言葉もこの対比を語っていますが、預言者の言葉をはるかに超えています。人間の営みだけでなく、それがなされる舞台である天地そのものが過ぎ去って無くなるときが来ることが語られ、それに対して「わたしの言葉」は決して過ぎ去ることなく、とこしえに存続すると宣言されています。いったい、このような言葉を「わたしの言葉」として語ることができるのは誰でしょうか。それは天地の存在を超えた方、天地を創造し、それを保持している方だけです。イエスのこの言葉には、「主は言われる」として、自分が聞いた主の言葉を取り次いだ預言者以上に、天地の創造者と一体となって語っておられるイエスの姿が滲み出ています。
 わたしたちはこの天地の存在ほど確かで永続的なものはないとして前提して生きています。それが無くなる時があるなど想像したこともありません。しかし、聖書は天地が無くなる時があることを宣言しています。それは聖書劈頭の「初めに神は天と地を創造された」という一文が宣言しています。初めに神が創造されたのであれば、終わりに神がそれを無くされることもありうることになります。事実、創造信仰が確立した第二イザヤ以後では、預言者は終わりの日にはこの天地とは別の新しい天地が創造されることを語るようになっています(イザヤ六五・一七、六六・二二)。その後の黙示思想は、この古い天地が滅ぼされて無くなることを多くの言葉と象徴で語ることになります。このことは新約聖書にも受け継がれ、今の天地が火で焼き滅ぼされる日のことが語られています(ペトロU三・七、一〇)。
 創造信仰は天地の存在そのものを相対化します。絶対的なものは救済史の主であり創造者である方の意志とそれを表す言葉です。救済史的唯一神信仰において成立した創造信仰は、天地の存在をも相対化し、天地の始まりと終局を絶対者なる神の意志と言葉に従属させます。ここでのイエスの言葉は、この救済史的唯一神信仰の端的な表現です。