市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第15講

123 人の子が来る(21章25〜28節)

最初期共同体における来臨《パルーシア》待望

 最初期共同体が世界に向かってキリストの福音を告知したとき、十字架につけられて殺されたイエスが復活してキリストとして立てられたこと、この十字架・復活のイエス・キリストにおいて神の贖いが成し遂げられたことが告知の核心でした。しかし、この告知は同時に、復活して高く上げられて神の右に座したイエス・キリストが、やがて栄光の中に来臨されて世界を裁かれるという告知を伴っていました。最初期の福音告知は、やがて来られる栄光の主イエス・キリストによって神は世界を裁き、その支配を確立されるのであるから、今この十字架されたキリストの福音を信じて贖いにあずかりその日に備えなさい、という構造をとっていました。その告知は、「時は満ちた。神の支配は迫っている。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)と要約することができます。
 ただ、栄光のキリストが来られる日のことが語られるとき、パレスチナ・シリア地域でのパレスチナ・ユダヤ人の福音告知(ヤコブがその代表)と、エーゲ海地域でのギリシア語系ユダヤ人による福音告知(パウロがその代表)では語り方(表現)が違いました。おもにパレスチナ・シリア地域においてユダヤ教の枠内でイエス・キリストが告知される場では、その日のことは「人の子が来る」とか「人の子が現れる」日として語られます。「人の子」という表現は、ダニエル書(七・一三〜一四)をはじめユダヤ教黙示文書に使われている特殊な表現で、終わりの日に天から現れて地上に神の支配をもたらす超自然的人格です。パレスチナ・ユダヤ人が「人の子」という表現を用いて差し迫っている神の支配の到来を語ったのは、イエスが「人の子」という称号を用いて終わりの日のことを語られたからです。彼らはユダヤ教黙示文書に親しんでいた人たちですから、彼らが伝承し形成したイエスの「語録資料Q」は、「人の子」を主導原理として形成されることになります。その中で終わりの日の神の支配の到来を語るのに「人の子が来る」という形を取るのは当然です。
 それに対してエーゲ海地域で異邦人に福音を宣べ伝えたパウロは、ユダヤ教黙示思想に全然関わりのない異邦人に向かって「人の子」というユダヤ教黙示思想独特の表現を用いることはできません。イエス伝承を用いる限り、「人の子」という表現を用いないですますことはできませんが、パウロは福音を語るのにイエス伝承を用いていません。したがって、「人の子」を一度も用いないですませています。パウロはキリストが終わりの日に栄光の中に来られることを「キリストの来臨《パルーシア》」とか「キリストが来られるとき」という表現で語っています(テサロニケT四・一五など)。
 パウロの福音を継承し、パウロの名で書簡を書いた第二世代のパウロ系の指導者たち(コロサイ書やエフェソ書の著者)は、おそらく異邦人であり、ファリサイ派ユダヤ教徒であったパウロより一段とユダヤ教から離れ、ギリシア思想の枠に深く進んでいるので、当然「人の子」というような表現を使うことなく、「キリストの来臨」待望も希薄であり、《パルーシア》という語も出てきません。
 ルカもパウロ系の福音活動の流れの中で、異邦人に向かって福音書を書いています。ルカはコロサイ書やエフェソ書の著者たちと同じ世代のパウロ主義者として、ユダヤ教黙示思想を乗り越えて、神の国の現実が聖霊によってすでにキリスト者共同体の中に来ているのだという主張をしていますが(一七・二一)、福音書という形で福音を告知しようとするかぎり、当然イエス伝承を用いることになります。事実、ルカはイエス伝承を用いて福音を告知した最初の福音書であるマルコ福音書と、イエスの言葉を集めた「語録資料Q」を主要な資料として用いて福音書を書いています。その結果、終わりの日の到来を語る部分で、マルコと同じく「人の子」という表現で語ることになります。しかし、「人の子」を用いて語る部分にもルカ特有の語り方が出てくることになります。この段落では、ルカによる「人の子」到来の告知を聴くことになります。

ルカは福音書で「人の子」を二九回用いています(新共同訳)。これは長さとの割合からするとマルコやマタイとほぼ同じです。ところが使徒言行録では、殉教するステファノの場合の一例(七・五六)だけで、ほとんど用いられていません。ルカは本来、「人の子」句には縁のないパウロ系の福音活動に属する著述家であり、自分の著述として書く使徒言行録では「人の子」を用いない傾向は当然です。それに対して、福音書では「人の子」の用例が他の共観福音書と同じように多いのは、伝承に忠実な歴史家としてのルカの一面を示すものと考えられます。
 なお、最初期共同体の《パルーシア》待望は、現代では「キリストの再臨」という用語で表現されていますが、「再臨」を用いない理由については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』256頁の「来臨と再臨 ― 用語について」の項を参照してください。

ルカによる「人の子」到来の告知

 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」。(二一・二五〜二六)

「人の子」が現れるときに起こる不思議な現象(徴)についてマルコは次のように書いています。

 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。(マルコ一三・二四〜二五)

 これは明らかにイザヤ書(一三・九〜一〇)の「見よ、主の日が来る、残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない」や、ヨエル書(三・三〜四)の「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」など、旧約預言者の終末審判のときに現れる徴の預言を継承しています。
 ルカはマルコの記述を簡略にした形、すなわち「それから、太陽と月と星に徴が現れる。・・・・天体が揺り動かされるからである」という天界に現れる徴を枠として、その間に地上に起こる諸国民の動乱と不安を入れています。「海」は黙示思想では世界の諸国民を象徴する用語です。地上の動乱と不安の部分はマルコにはなく、旧約聖書にも明確に対応する記述はなく、おそらくルカ独自の記述であるか、または別の資料によったものと推察されます。ルカはマルコに較べると、終わりの時の徴としては、天界の不思議な現象を指し示す黙示録的な徴よりも、地上の歴史に起こる大動乱と人間界の極限の不安に重点を置いていることがうかがわれます。このルカの指摘は、動乱と不安の時代に生きる現代人には切実に響きます。
 なお、マタイはマルコ(一三・二四〜二五)と同じ文で天界の異象を語った後に、「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」と、地上の諸国民の悲痛を続けています。

 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。(二一・二七)

 「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って(または、雲に囲まれて)来る」という形は、明らかにダニエル書七章一三〜一四節の預言を響かせてす。この預言は、ダニエル書などの黙示文書に親しみ、黙示思想的な終末待望に生きていたパレスチナ・ユダヤ人の間で中心的な位置を占めており、彼らの終末待望を言い表すのに繰り返し用いられていたと考えられます。その流れを承けているパレスチナ・ユダヤ人のイエス伝承でも「人の子」の到来を告白する定型文として用いられるようになります。イエスが最高法院で大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という尋問に「わたしはある」という神的宣言句でお応えになったときにも、この「人の子」告白が続いています(マルコ一四・六二)。
 イエスがどのような言葉で終末を語られたにせよ、イエスがご自身を「人の子」という称号で指して語っておられる以上、このダニエル書の言葉がイエスの終末告知の中心に来ることは必然です。共観福音書に収録されているイエスの終末告知はどれもみなこのダニエル書の「人の子」預言を頂点として形成されています。
 なお、この「人の子」到来を告知する文に用いられている「雲に乗って」あるいは「雲に囲まれて」という句は何を意味するかについては様々な解釈があります。雲は一般に旧約聖書においては神の臨在を象徴しますが、ここではキリストの来臨について語られている事柄との並行関係から解釈されるべきだと考えられます。最初期の福音告知においては、キリストが来臨されるときには天使たちの群れを伴って来られるとされていたことが、「人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」(マルコ八・三八)というイエスの語録からもうかがわれます。この表現との並行関係からすると、「雲に乗って」は「聖なる天使たちと共に」を象徴的に指していると理解できます。
 なお、マルコでは(そしてマタイでも)「人の子」が栄光をもって現れるとき為されることとして、「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」という言葉が続いています(マルコ一三・二七)。ところが、ルカはこの記事を省略しています。この記事の代わりに、ルカ特有の別の記事(次の二八節)を入れていますので、この省略の意味は次節との関連で考察したいと思います。

 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。(二一・二八)

 この記事は、マルコとマタイには並行記事はなく、ルカだけの特有記事となります。それだけに、終末待望に関するルカの姿勢の特色を示す記事となります。ルカが省略したマルコ(一三・二七)の記事と較べると、「人の子」の到来に対する姿勢の違いが明らかです。マルコでは「地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」のは「人の子」が遣わす天使たちの働きであって、選ばれた人たちは何もすることはありません。ただその日を目覚めて待っておればよいとされます。これは黙示思想の特色をよく示しています。
 それに対してルカでは、その日を待つ「あなたたち」キリストの民の心構えが説かれます。「このようなことが起こり始めたら」、すなわちこの終末説教で予告されている動乱や迫害が起こるようになったら、あなたたちは「身を起こして頭を上げなさい」と説き勧められます。これは不安や恐怖で身をかがめ頭を垂れる姿の反対で、動乱や迫害が起こるのは「解放の時が近い」ことの徴であるのだから、希望と喜びをもって立ち上がりなさい、という激励です。
 この節の表現には、ローマ書八章(一八〜二五節)に語られているパウロの終末待望の言葉が響いているように感じられます。ルカがここで用いている《アポリュトローシス》(「解放」と訳されている語)は、パウロが終わりの日の出来事として「体の贖い《アポリュトローシス》」を語っているところで用いられている語です(ローマ八・二三)。《アポリュトローシス》という語は普通「贖い」と訳される語です。旧約聖書では、「人を贖う」、すなわち捕虜や奴隷を買い戻して解放するという社会的意味と、「罪を贖う」、すなわち犠牲の動物の血によって罪過を拭い清めるという祭儀的意味の二つの別の用語がありましたが、新約聖書ではこの二つの語が《アポリュトローシス》という一つの語で指されるようになります。パウロは三章二四節でこの語を贖罪という祭儀的な意味で用い、八章二三節で解放という意味で用いています。ここでのルカの用法は終末的な「解放」という意味で用いられており、パウロがローマ書八章二一節で《エレウセリア》(解放、自由)と言っていることと同じです。

コロサイ書の著者やエフェソ書の著者は、《アポリュトローシス》という語を「罪の赦し」の意味で用い、福音提示の核心部で用いています(コロサイ一・一四、エフェソ一・七)。ルカは「罪の赦し」を福音の中心に据えていることはコロサイ書やエフェソ書の著者と同じですが、《アポリュトローシス》(贖い)という語は用いることはなく、ただ一箇所、ここで「解放」という意味で用いているだけです。《アポリュトローシス》が終末の日の解放を意味する用例は、エフェソ書四・三〇に見られます。

 さらに、「身を起こして頭を上げなさい」という勧告の言葉に、パウロの「首をのばして待望する」(ローマ八・一九)という用語が響いていることが感じられます。ルカは誠実な歴史家として、パレスチナ・ユダヤ人の黙示思想的なイエス伝承を継承し、マルコ一三章の「小黙示録」もほぼそのまま受け継いでいますが、その中にパウロの終末待望の質を織り込んでいることがうかがわれます。

「人の子」とイエス

 この「人の子」の到来を告知する段落において、問題の核心はここでその到来が告知されている「人の子」とイエスの関係です。古来からここの「人の子」は当然イエスご自身を指すと理解されてきましたが、近代になってイエスはこの「人の子」をもって誰か他の人物、すなわち自分とは別に天から現れる超自然的人格を指しておられるという理解がされるようになり、神学的な議論が続いてきました。その議論の詳細に立ち入ることはできませんが、福音書に伝えられているイエスの「人の子」発言の全体からすると、やはりここでも「人の子」はイエスを指すとしなければなりません。少なくとも、このような形でその終末待望を語り伝えてきたパレスチナ・ユダヤ人のイエス伝承においては、この「人の子」はイエスを指していることは確実です。彼らは、復活されたイエスが世界の審判者として来られることを、イエスがご自身を指すのに用いられた「人の子」を用いて告知しているのです。
 この段落が形成された経緯はどうであれ、現在のわたしたちはこの「人の子」が来られるという告知を、わたしたちに語りかける復活者イエスの言葉として聴かなければなりません。旧約聖書の預言とユダヤ教黙示思想の告知は、イエスという具体的な人格の姿をとってわたしたちに語りかけています。それがまとっている黙示思想特有の宇宙論的象徴を透過して、わたしたちのもとに来ようとして、わたしたちに向かっておられる復活者イエス・キリストとの関わりを自覚して、わたしたちは現在を生きなければなりません。そのことが次の段落で、イエスに特有のたとえの形で説き示されます。