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121 終末の徴(21章7〜19節)

徴への問いとその答え

 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。(二一・七)

 ここもマルコ(一三・三)では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子がイエスに近づいて秘かに訊ねたことになっています。ルカは誰とは特定せず、イエスの神殿崩壊の予告を聞いた人たちの質問としています。しかし、前節(六節)で見たように、イエスは弟子たちに向かって神殿崩壊を予告する言葉を洩らされたと考えられるので、この質問も(マルコと同じく)弟子たちがした質問となります。イエスが与えられた以下の答えの言葉は、明らかに弟子たちの心構えを説くものです。
 この質問は、神殿崩壊の予告を聞いたユダヤ教徒には当然の質問です。質問者が言った「そのこと」は当然エルサレム神殿の崩壊という出来事を指しています。それがいつ起こるのか、またそのような驚天動地の出来事が起こるときにはどんな前兆があるのかと訊ねます。
 ところが、マルコはこの質問をきっかけにして、イエスが弟子たちに終わりの時に関して教えてこられた言葉をまとめてここに置きます。ルカもこの点ではマルコに従っています。その結果、このエルサレム神殿崩壊がいつ起こるのか、その前兆はなにかという質問が、世の終わりがいつ来るのか、その前兆は何かという意味に変わってきます。マタイはこの変化を明確に表現しています。すなわち、マタイ(二四・三)では、弟子たちの質問は「そのことはいつ起こるですか。また、あなたの《パルーシア》(来臨)と《アイオーン》(世)の終りの徴は何ですか」(直訳)となり、イエスがその質問に答えるという形で、キリストの来臨《パルーシア》で到来する世の終わりにさいして現れる終末的な徴が語られ、弟子たちの心構えが説かれることになります。
 このように、ここではエルサレム神殿の崩壊と世の終わりが重なっていますが、それは当時のユダヤ教徒の意識にとっては当然のことです。神殿が崩壊して存在しなくなるということは、当時のユダヤ教徒にとっては天が落ち地が崩れるような衝撃であり、まさに「世の終わり」です。その前兆を問わないではおれません。
 なお、ルカ福音書には「神の国はいつ来るのか」という問いを扱った箇所がもう一箇所あります。それは一七章二〇〜三七節です。その箇所の講解(『ルカ福音書講解U』325頁以下)で述べたように、ルカはその問いに、「実に、神の国はあなたたちの内にある」というイエスの言葉で答えて、歴史的な時間の中で「この世《アイオーン》」が終わり、神の支配が実現する「来たるべき世《アイオーン》」の到来が「いつ」であるかを議論することの誤りを指摘しています。しかしここでは、「いつ」の問いには答えられてはいませんが、それが近いことを前提にして、その前兆となる出来事と、それに対して備える心構えが説かれます。これはまさに黙示思想そのものであり、ルカはそれを乗り越える道を一七章で指し示したのですが、ここではマルコに従い、それがイエスの語録として伝えられているからという理由で、その伝承を忠実に伝えています。黙示思想に対するルカの両面性(それを乗り越えようとする面とそれを保存する面の並存)は、すべての伝承を忠実に、かつ総合的に保持しようとするルカの姿勢から来るものでしょう。
 イエスは弟子たちの質問に答えて語り出されます。

 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決っているが、世の終わりはすぐには来ないからである」。(二一・八〜九)

 三〇年のイエスの十字架・復活の時から始まった福音運動の最初期、すなわち最後の新約聖書の諸文書が生み出された二世紀初め(ルカ二部作の成立は一二〇年代前半と見られます)までのほぼ一〇〇年に及ぶ時期のパレスチナは、メシア運動の盛んな時期でした。この時期のメシア運動は、六六年に始まり七三年に終結する第一次ユダヤ戦争を山場として前期と後期に分けられます。メシア運動は七〇年のエルサレム陥落をもって終息したのではなく、その後も燃え続け、一三二年から一三五年に至るバル・コクバの反乱(第二次ユダヤ戦争)まで続きます。この間に多くのメシア僭称者が現れて、神の支配の実現を唱え、イスラエルの民を反ローマの戦いや暴動へと扇動しました。使徒言行録(五・三三〜三九)に名前が出て来る「ガリラヤのユダ」は六年の人口調査の時に蜂起してその後の「熱心党」運動の開祖となり、テウダは総督ファドス(四四〜四六年)の時に反乱を起こしています。パウロも五六年にエルサレムで逮捕されたとき、「最近反乱を起こしたあのエジプト人か」と間違われています(使徒二一・三八)。実はイエスご自身も、ローマ側から見ればこのような反ローマのメシア運動の首謀者として十字架刑で処刑されたユダヤ人の一人です。そのことは「ユダヤ人の王」という罪状札が示しています。
 イエスは、弟子たちがこのようなメシア僭称者の偽りの扇動によって「惑わされて」福音の真理から逸脱することのないように、予め警告を語られます。イエスは時代の流れを深く読む預言の霊によって語られます。イエスは、メシア僭称者の出現を「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言う」と語っておられます。「わたしがそれだ」《エゴー・エイミ》とか「時《ホ・カイロス》が近づいた」というのは、まさにイエスが宣言された告知です(マルコ一四・六二、一・一五)。イエス以外の者がイエスだけが宣言しうることを僭称することを「わたしの名を名乗る者」と呼んで、そのような偽りのメシアの後について行くことがないように、予め警告されます。
 この時期のパレスチナは、二度にわたる反ローマの大きな戦争により荒廃しました。その戦争の間にも各地で大小の暴動が繰り返されました。「戦争とか暴動のことを聞く」ことは日常的なことになっていました。そのようなことを聞いても「おびえるな」とイエスは言われます。それは、「こういうこと(戦争や暴動というような社会的混乱)がまず起こるに決っている」からです。ここで「決っている」と訳されている語《デイ》(英語のmust)は、黙示思想で用いられる語で、神の御計画によって決まっていて必ず起こることを指すときに用いられます。「来たるべき世」が到来する前には地上に大きな苦難や混乱が起こるというのは、当時のユダヤ教黙示思想の一般的な図式です。このような社会的混乱は、終わりの日に神が救済の業を成し遂げられる前に、この地上に起こることが必然であるとされているのであるから、このようなことが起こるのは神の御計画が実現しつつあることを示しており、救済の確かさを保証しているとされます。このような理解と確信が「おびえるな」という勧告の根拠となります。

九節は、「戦争や暴動のことを聞くとき、おびえるな。このようなことは必ず起こることだからである。しかし、終わりは直ちにではない」とすべきです。文頭の《ガル》で示される「おびえるな」の理由は、「このようなことは(神の御計画によって)必ず起こることである」だけを指しており、「しかし、終わりは直ちにではない」を含ませるべきではないと考えられます。それは「おびえるな」の理由にはなりません。この点で新共同訳は再検討を要します。

 イエスは「しかし、終わりは直ちにではない」と言われます。終わりの日が来る前に、まず偽メシアの出現や戦争と暴動のことを聞くのは、預言者(たとえばエレミヤ二一・七)や黙示思想家(たとえばシリア語バルク書七〇・八)が神の御計画による必然として語ったが、そのようなことが起こったからといって、直ちに終わりの日が来ると考えてはならない、とイエスは言っておられるのです。では、その日が来る前に、さらに何が起こるのでしょうか。ここでもルカはマルコに従い、終わりの日の前に起こる苦難や混乱のリストを付け加えます。

 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」。(二一・一〇〜一一)

 終わりの日には、世界的な無秩序と混乱(民は民に、国は国に敵対)、自然界も異常な乱れ(地震や飢饉や疫病)、経験したことのないような恐ろしい現象が天にも地にも現れることが、黙示思想の用語で語られます。マルコ(一三・八)はこれを「産みの苦しみの始まり」と呼び、「まだ終わりではない」ことを「産みの苦しみ」という黙示思想の概念を用いて表現していますが、ルカはこの表現を略しています。
 このような終わりの日に起こることとして語られる徴がすべて起こり尽くして終わりの日が来る前に、弟子たちの身に起こることが加えられます。

終わりの日の前に起こる迫害

 「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」。(二一・一二〜一三)

 それは、「わたしの名のために」、すなわちイエスの名を言い表す弟子たち(イエスに従う者たち)に加えられる迫害です。「手を下し」という表現は、たんに罵ったり嘲笑するというような言葉だけの批判ではなく、実際に逮捕して連行するという身体的な行動に至る迫害行為を指しています。「会堂」《シュナゴゲー》はユダヤ教の最高法院や会堂であり、「牢」はそれに付属する拘置所です。「王や総督」はローマの支配体制の用語です。この節は、イエスを言い表す者がユダヤ教の長老会議などの法廷だけでなく、異教徒の法廷にも引き出されることを語っています。

原文で一二節の最後に置かれている「わたしの名のために」は、直前の「王や総督の前に引っ張って行く」だけにかかるのではなく、「会堂や牢に引き渡し」も含む「人々はあなたがたに手を下して迫害する」行為の全体にかかり、迫害の理由を説明しているとしなければなりません。この点でも新共同訳は再検討の必要があります。

 このような「イエスの名のゆえの」迫害は、法廷に立たされたイエスの弟子が、イエスを言い表し「証しをする」場となります。実際には個人から個人に伝えられていた福音は、迫害によって法廷に持ち込まれ、社会の公の事柄として問題になり、その社会にイエスの名を広く知らしめる機会となります。
 このような場で「イエスの名を言い表す」ことは、キリスト信仰と一体です。イエスがキリストだからです。イエスが「人の子」として栄光の中に来臨されるとき、人々の前でイエスを言い表してきた者をご自分に属する者であると認め、人々の前でイエスを恥じたり知らないといった者を拒否されることは、すでに繰り返し語られていました(九・二六、一二・八〜九)。いま終わりの日のことが語られるにさいして、そのような迫害の中でイエスを言い表す場に引き出されることが予告され、覚悟が促されます。しかし、心配することはないという励ましが続けて語られます。

 「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」。(二一・一四〜一五)

 文頭の《ウーン》という接続詞は、ここでは「だから」という意味(推論)ではなく、「そこで」とか「ところで」という意味(継起)に理解した方が適切でしょう。一四節の決意の理由は後続の一五節で語られており、先行する一二〜一三節ではありません。
 法廷でイエスについて尋問されたらどう答えようかとか、どう弁明しようかと心配して、予め自分で弁明の準備をするようなことは要らない、むしろそのような準備はしないと心に決めて、その場に臨みなさい、とイエスは言われます。それは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」からだと言われます。イエスは「わたしが授ける」と言っておられます。イエスは、法廷に引き出される弟子と一緒にいて、語るべき言葉を、そしてそれを語る語り方を導く知恵を授けると約束しておられます。実際にそれをされるのは復活されたイエスです。ここで地上のイエスと復活されたイエスが重なっています。
 同じことが先にも語られていましたが(一二・一一〜一二)、そこでは「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」と言われていました。また、この箇所と並行するマルコ福音書(一三・一一)では、「実は、話すのはあなたたちではなく聖霊なのだ」となっています。そうすると、迫害されて法廷で問い詰められる弟子たちに、内側から語らせる聖霊は、復活して一緒にいてくださるイエスに他ならないことになります。このような弟子たちの体験が、聖霊を《パラクレートス》(弁護者)と呼ばせ、その働きを復活者イエスの働きとして語らせることになります(ヨハネ一四・一六〜一九)。復活者イエスはいつもわたしたちと一緒にいてくださる「同伴者」であり、聖霊によって働き、助けてくださる「助け主」です。
 なお、この一段(一四〜一五節)は先行する一二〜一三節に自然に続きます。おそらくルカは手元にある資料をそのまま用いて、このような形にしたと考えられます。ところがマルコはこの二つの部分の間に、「こうして、まず福音がすべての民に宣べ伝えられねばならない」(マルコ一三・一〇)という文を入れています。マルコは終末の徴をあげたさい「まだ終わりではない」ことを強調しましたが(マルコ一三・五〜八)、その具体的内容として、「総督や王の前に立たされて証しをすることになる」という言葉に引かれて、終わりが来る前に異邦諸国民に福音が告知される期間が必要であることを述べます(マルコ一三・九〜一〇)。ルカがこのマルコの言葉を削除したのか、元の資料にはないこの文をマルコが挿入したのかは議論が残りますが、この文でマルコが言おうとしたことは、ルカは後で「異邦人の時代」(二一・二四)という表現で扱っていますので、その時に取り上げることにします。

 「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。(二一・一六〜一七)

 ここで「裏切られる」と訳されている語は、もともとは「引き渡す」という動詞の受動態で、イエスがユダによって命を狙う勢力に「引き渡された」ことに用いられる動詞です。イエスが信頼した弟子によって「引き渡された」ように、本来ならばもっとも親しい身内の者にまで裏切られて、訴えられ、迫害者の法廷に「引き渡される」ことになると予告されます。その結果、中には処刑されて殺される者までも出るであろうと語られます。ここにも、終りの日には親子兄弟というような基本的な人倫関係が崩れるという黙示思想の影響が見られます。
 黙示文書には終りの時について、「その時代には子が父や年長者たちを・・・・糾弾するであろう」(ヨベル書二三・一六)とか、「人はわが子、わが孫ですら平気であやめ、罪人は敬愛する自分の兄弟をすら平気であやめ、明け方から日暮れ時まで殺しあいがつづくであろう」(エチオピア語エノク書一〇〇・二)というような予言がしばしば語られていました。イエスも預言書(ミカ七・六)を引用して、「自分の家族の者が敵となる」と言っておられます(マタイ一〇・三六)。このお言葉は本来イエスに従う者の十字架を指し示すものですが、これが黙示思想的な背景の中で、終りの時の信者の迫害に関連して理解されるようになり、ここに引用されることになります。マルコ(一三・一二)は、「兄弟は兄弟を、父は子を死罪にするために引き渡し、子は親に逆らって立ち、死に至らせる」(私訳)と表現しています。
 こうして「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と、再び「イエスの名のために」迫害を受けることが予告されます。世の人々はただ訳もなく「イエスの名」を憎み嫌い、理由なくイエスの名を唱える者を憎みます(ペトロT四・一二〜一九参照)。そのことは、後にローマ帝国がキリスト教徒を迫害したとき、何の悪行も見出せないのに、ただイエスをキリストと言い表した者を、「キリスト教徒」であるという「名だけで」犯罪者として処刑するに至ったとき、このイエスの言葉が極限の姿で実現します。そして、そのような迫害を受けたイエスの弟子たちは、このようなイエスの預言の言葉があったゆえに、命を捧げてイエスの名を告白することができたのだと言えるでしょう。

「名そのもの」による処刑については、拙著『福音の史的展開U』239頁以下の「プリニウスとトラヤヌスの『キリスト教書簡』」の項を参照してください。

 「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」。(二一・一八〜一九)

 マルコ(一三・一三)は、先行する一六〜一七節と並行する箇所の後、「しかし、終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉で締めくくっています。ルカはその忍耐を励ますために、イエスが語られたとして伝承されている「髪の毛」の語録をここに用いて、この段落を締めくくります。
 イエスはすでにガリラヤでの福音活動の時期から、周囲のユダヤ人、とくに権力をもつ指導層からの殺意(マルコ三・六)に囲まれて歩んでおられました。それでイエスは、自分に従う弟子たちにも迫害を耐え忍ぶ覚悟を促しておられます。そのような言葉の一つに、「雀と髪の毛」の語録があります。イエスは弟子たちにこう言っておられます。

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。(一二・四〜七)

 この言葉は、「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」というこの文脈でこそ語られるにふさわしい言葉でしょう。ルカは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」という表現で、イエスのこの言葉を思い起こさせます。イエスの名を言い表すことで、この世の者たちから憎まれ、迫害され、時には命を脅かされることもあるだろう。そのとき「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」、すなわち判決を下し処刑する権限のある者を恐れることはない。彼らは「体を殺す以上のことは何もできない」のだから、とイエスは言われます。そして、「だれを恐れるべきか、教えよう」と言って、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」をこそ恐れなさい、と言われます。地上で生きるか死ぬかを決める権威をもつだけでなく、死んだ後、神と共に栄光の場に入るか、永遠に神から切り離された暗黒である地獄に堕ちるかを決める権威のある方、すなわち神をこそ恐れ、神の意志に従うべきだと励まされます。
 その神は、あの雀の一羽さえお忘れになることなく、髪の毛の一本に至るまで数えつくすほどに、あなたのことを知り、顧みてくださっているのだから、体を殺す以上のことは何もできない者を恐れることなく、地上の一切の苦難を耐えて神に従い、神から永遠の命、永遠の栄光をいただく者となりなさい、と励まされます。このような励ましの言葉は、実際ローマ帝国の迫害を耐えた初期のキリスト教徒にとって、どれだけ大きな力になったか測り知れません。

ここに引用したルカ福音書一二章四〜七節について詳しくは、拙著『ルカ福音書講解U』130頁以下のその段落の講解を参照してください。