市川喜一著作集 > 第19巻 ルカ福音書講解V > 第10講

119 やもめの献金(21章1〜4節)

 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。
(二一・一〜四)

 ここもルカはマルコをほぼそのまま用いています。前半のイエスが見ておられた情景の描写では、ルカはマルコの記事を簡潔にしていますが、イエスが語られた言葉はほぼそのまま用いています(ここでも用語が僅かに違いますが)。マタイはこの場所にこの記事を置かず、代わりにエルサレムの荒廃を嘆くイエスの預言の言葉(ルカでは一三・三四〜三五)を置いています(マタイ二三・三七〜三九)。
 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器であって、神殿の「女子の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。神殿に詣でる人々は、この容器に献金のおかねを投げ入れるのですが、たくさんのおかねを投げ入れている人々の間に、ひとりの貧しい寡婦がレプタ銅貨二枚を投げ入れるのを、イエスはごらんになります。
 レプタというのはギリシア貨幣の最小単位で、マルコはこのレプタ銅貨二枚でローマ貨幣の一コドラントに相当すると説明を加えています。当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシア貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していたので、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。ルカは周知のこととしてこの説明を省略しています。コドラントは、ローマ貨幣の基本単位であり一日分の給料に相当するデナリ銀貨の六四分の一ですから、その半分のレプタ銅貨は、現在の日本の生活感覚からすれば百円玉ぐらいになるのでしょう。レプタ二枚はささやかな金額ですが、その日暮しの寡婦にとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部であったと考えられます。一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、この寡婦が自分の存在すべてを神の手に委ねている心が表れています。
 マルコでは、これをごらんになったイエスは「弟子たちを呼び集めて言われた」となっていますが、ルカは略しています。しかし、福音書に書かれている以上、これが弟子たちへのイエスの教えであることには変わりはありません。「よくあなたがたに言っておくが、この貧しい寡婦は、賽銭箱に投げ入れた誰よりも多く投げ入れた」。レプタ二枚は誰よりも少ない金額です。しかし、神が人の内側の心を見られるように、イエスは投げ入れる者の心を見られます。イエスが重大な発言をされるときの、「よくあなたがたに言っておく」が用いられていることからも、この教訓が決して小さい事柄でないことが分かります。

マルコでは「アーメン、わたしはあなたたちに言う」という最初期共同体の預言者的な表現ですが、ルカは「アーメン」を用いないで、日常のギリシア語でよく用いられる「ほんとうに」という語を用いて「ほんとうにわたしはあなたたちに言う」という形にしています。

 この寡婦の姿は信仰の本質をよく表現しています。信仰とは神との関わりの中に生きることですが、人間は普通自分が持っているものの中の余りを神に捧げて、神からよいものを手にいれようとします。自己を確保した上で、外にいる神を利用しようとする態度です。それに対してこの寡婦は、自分の貧しさの中から、自己のすべてを神に投入れ、委ね切っているのです。それが聖書のいう信仰です。イエスはこの寡婦の姿を教訓として、弟子たちに信仰の本質を教えられます。「みな余っているものの中から投げ入れているが、この寡婦は乏しい中から、持っているもの全部、自分の生活すべてを投げ入れた」。これが信仰です。
 よく似た物語は多くの宗教に見られます。おそらく、この寡婦の物語も独立の伝承として伝えられていたものでしょう。マルコは(そしてマルコに従ってルカは)この信仰の教訓を、律法学者たちの自己顕示の偽善の攻撃の直後に置いて対照させ、神殿における律法学者たちとの論戦を締めくくります。