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117 ダビデの子についての問答(20章41〜44節)

ダビデの子かダビデの主か

 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。(二〇・四一)

 前節(四〇節)で、イエスの言葉じりをとらえようとして質問してきた者たちは、イエスの鋭い答えに圧倒されて沈黙してしまったことが語られました。それを承けて、今度はイエスが彼らに問いかけられます。この問いかけは、マルコ(一二・三五)では律法学者たちに向けられたとされていますが、ルカでは「律法学者たち」が外され、神殿でイエスの教えに耳を傾けているユダヤ人民衆に語りかけられた言葉としても聴くことができるようになっています。
 当時のユダヤ教では、メシアは「ダビデの子」と呼ばれており、ダビデの子孫から出て、ダビデが築いた栄光のイスラエル王国を回復する者と期待されていました。イエスはこの問いかけによって、ユダヤ教(とくにファリサイ派の)「ダビデの子」を超えるメシアを民衆に示そうとされます。

当時のユダヤ教における「ダビデの子」待望については、拙著『マルコ福音書講解U』90頁の「ユダヤ教のメシア待望」の項を参照してください。

 「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と』」。(二〇・四二〜四三)

 ここで引用されている詩編は一一〇編の一節です。この詩編には「ダビデの詩」という標題がついています。現代の聖書学では各詩編成立の状況や時代が詳しく研究されて、この標題をもつ詩編の多くはダビデの作ではないことが明らかにされていますが、当時のユダヤ教ではこの標題の詩編はすべてダビデの作として通用していました。そして、信仰について議論するときはいつも聖書の言葉が根拠として用いられたので、イエスが律法学者たちと議論されるときも、最初期共同体がユダヤ教会堂と議論するときも、いつも聖書が引用され、主張の論拠とされました。ここでもこの詩編が霊感を受けたダビデの言葉として引用されています。マルコ(一二・三六)は「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」として引用しています。
 詩編一一〇編は、「主は、わたしの主にお告げになった」という言葉で始まります。最初の「主」はイスラエルの神ヤハウェを指し、「わたしの主」の「主」はこの詩編でダビデが「あなた」と呼びかけている人物を指しています。この詩編全体は、この人物が神の右に座し、敵を打ち破り、諸国を支配し、神と人を結ぶとこしえの祭司メルキゼデクとされることをうたっています。その全体が最初の「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」にこめられています。
 最初期共同体は、イエスが復活して高く上げられた出来事をこの詩編の成就として語りました。イエスの復活は、この詩編のイメージから、イエスが高く上げられて「神の右の座に」着かれた出来事として語られました(マルコ一六・一九、使徒二・三三、七・五五〜五六、ローマ八・三四、コロサイ三・一、ヘブライ一〇・一二、ペトロT三・二二)。

 「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。(二〇・四四)

 このように神の右の座に着かれた方に向かって、ダビデは「わたしの主」と呼びかけているのだから、この方は地上の一つの国の王座に座したダビデよりはるかに勝る方ではないか。神が送られるメシアは、ダビデの子として、ダビデが形成しその後崩壊したダビデ王国の元の栄光を回復するだけの方であろうか。決してそうではない。その方は「ダビデの主」として、ダビデ王国が予型として指し示した終末的な全世界への神の支配を体現される方ではないか。
 このような問いかけによって、イエスは、そしてそれに重ねて最初期共同体は、ユダヤ人に向かってイエスこそ復活によって高く上げられ「神の右の座に着かれた」方であることを、聖書を論拠として指し示します。ユダヤ人がイエスをそのような方として受け入れることができないのは、イエスの復活を信じないからです。この「ダビデの子」問答も、イエスの復活を信じて、イエスを「ダビデの主」とするユダヤ人と、イエスの復活を信じないで、あくまで「ダビデの子」としてダビデ王国を回復するメシアを待ち続けるユダヤ人の間の対立を顕わにする問答として終わります。
 では、その後の福音を告知する運動の中で、この「ダビデの子」という称号がどのような位置づけになっていったのかを見ておきましょう。

新約聖書における「ダビデの子」の位置

 「ダビデの子」という称号は、イエスの時代のユダヤ教徒の間では来たるべきメシアを指す称号として定着していました。ユダヤ教には様々な内容の終末待望があり一様ではありませんでしたが、その中でもパリサイ派の影響力が増大するにつれて、ダビデの王国の栄光を回復するダビデの子孫を待望するパリサイ派のメシア待望が民衆の間に広まり、イエスの時代には「ダビデの子」はメシアの称号として定着していました。
 権威をもって教え力ある業を示されたイエスを、民衆が「ダビデの子」と歓呼して迎えたことは、イエス伝承においてエリコの盲人の呼掛け(マルコ一〇・四七)や、エルサレム入りの際の民衆の歓呼(マルコ一一・一〇)に垣間見ることができますが、マルコはむしろこのような民衆の熱気を抑えるような書き方をしている節があります。イエスご自身はこの「ダビデの子」という称号を一度も口にされず、むしろ人々がイエスを「ダビデの子」として語ることを厳しく禁じられたことを伝えています。イエスが「ダビデの子」という称号を厳しく拒否されたのは、この称号がイスラエルの政治的解放者としてのメシアを指しており、イエスはこのようなメシアとして立とうとする思いをサタンの誘惑として激しく戦われたのだと考えられます。この時代のユダヤ人の一般的なメシア待望とイエスの自覚の対比は、ペトロがイエスをメシアだと告白したときのイエスの叱責にもっとも鋭く現れています(マルコ八・三一〜三三)。
 ところが、イエス復活後のユダヤ人信者の群れは、同胞のユダヤ人のシナゴーグに、イエスこそ約束されたメシアであることを論証するために、律法学者たちの批判に応えて、イエスがダビデの家系の出身であることを示そうとしました。その傾向はユダヤ人に福音を宣べ伝えようとするマタイ福音書に顕著です。その努力はイエスの系図と誕生物語にもっともよく表現されています。マタイは彼の福音書の冒頭でイエスを「ダビデの子」と紹介しています(マタイ一・一)。イエスの系図の重点は、イエスがダビデの家系であることを示すことにあります(マタイ一・一七)。この系図はヨセフの系図ですが、ヨセフが神の啓示によってマリアとその子イエスを受け入れることによって、イエスはダビデの家系の出身となります。ダビデの町ベツレヘム(ルカ二・四)での誕生の物語も、イエスがダビデの家系であることを示すためです。イエスの働きの記録においても、マタイはマルコよりも多く「ダビデの子」という称号を用いています(マタイ九・二七、一二・二三、一五・二二)。
 このようにイエスをダビデの子とする信仰告白は、マタイを待つまでもなく、ごく初期のユダヤ人のキリスト者共同体(その代表がエルサレム共同体)から出て、ヘレニズム世界を含む最初期共同体でかなり広く用いられていたようです。そのことは、パウロがローマ書の冒頭で福音を要約するのに、次のような信仰告白定式を引用していることからもうかがわれます。

 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」。((ローマ一・三〜四)

 この信仰告白定式は、パウロが自分が告知している福音を要約したものではありません。それは、パウロ以前にユダヤ人のキリスト者共同体で形成され、ローマのキリスト者たちが受け入れている共通の信仰告白定式を、パウロが自分と宛先人の共通の場として引用しているものです。ローマの共同体はパウロの福音活動で成立したものでなく、ごく初期にエルサレムとローマとの間のユダヤ人の交流で福音が伝えられて成立したもので、この信仰告白定式は最初期のエルサレム共同体から出たものです。
 パウロ自身はキリストが「ダビデの子」であるとは主張していません。書簡で見る限り、パウロがダビデの名に触れるのは、ローマ書冒頭で引用したユダヤ人共同体の信仰告白定式以外では、信仰による義の実例としてダビデを引き合いに出すとき(ローマ四・六)と、イスラエルのつまずきを「ダビデの詩」と呼ばれる詩編で論証するとき(ローマ一一・九)の二回だけです。パウロ以後のコロサイ書やエフェソ書にもダビデの名は一回も登場しません。
 こうしてパウロに見られるように、概してギリシア語系ユダヤ人が異邦人に福音を告知するときには、イエスを「ダビデの子」とすることはなかったと考えられます。ルカもこの流れの中にありますが、マルコに従って福音書を書いていますので、マルコに用いられているイエス伝承を含みます。それで、マルコにあったエリコの盲人の「ダビデの子よ」という呼びかけ(一八・三八〜三九)と、神殿でなされた「ダビデの子」問答(二〇・四一〜四四)ではこの称号が出てきますが、その他には出てきません。イエスがエルサレムに入られた時の民衆の歓呼にあった「ダビデ」の名は、ルカでは消えています。ルカ福音書で「ダビデ」が多く出てくるのは一〜二章の誕生物語です(五回)。その理由と意義については、誕生物語を扱うところで触れることになります。
 同じルカが書いた使徒言行録では、「ダビデの子」という表現が出てくるのは一箇所(使徒一三・二三)だけですが、「ダビデ」の名はキリストの出現を予告するものとしてしばしば登場します(一三回)。福音書の本体部分ではあまり積極的に取り上げられていなかったイエスが「ダビデの子」であるという主張が、誕生物語と使徒言行録で強調されるようになったのは、イエスの出現は聖書(旧約聖書)の預言の成就であり、ユダヤ人の待望を満たす方であることを強調しなければならない状況があったからだと推察されます。これは、福音がヘレニズム世界に入って行き、急速にギリシア化される過程で、ユダヤ教とか旧約聖書を徹底的に排除する傾向(その代表がマルキオン)が出て来たのに対抗して、使徒的伝統(使徒たちはみなユダヤ人でした)を擁護するためであったと考えられます。この問題については、別の機会に触れることになります。
 こうして、異邦人の間での福音告知においては、イエスが「ダビデの子」であるという主張は後退していきます。ところが、パウロ名書簡の一つで、新約時代の最も後期に属する牧会書簡において、福音を要約する文にダビデの名が出てきます。

 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(テモテU二・八)

 これは、パウロがローマ書の冒頭で引用していたあのエルサレム共同体発と見られる信仰告白定式を簡潔にした形です。このような形が定着したのは、おそらく最初期後期にはパウロ系の諸集会にも福音書が普及して、イエスの出自や、イエスの出来事が聖書の約束、とくにダビデになされた約束を成就するのであるという意義が浸透していったからではないかと考えられます。
 最初期の共同体がイエスを「ダビデの子」としたのは、イエスがダビデの家系の出身であることを主張しているだけではなく、すでにその地上の働きにおいてイエスは聖書の約束を成就する方であることを主張しているのです。論敵パリサイ派の用法においても、「ダビデの子」というのはダビデになされた約束を成就する者という意味です。そのイエスが死者の中から復活して「主《キュリオス》」として立てられたのです。したがって、「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」という信仰告白定式は、地上でイスラエルの全歴史を成就する働きを成し遂げ、復活して《キュリオス》として全世界に臨まれる終末的救済者、主イエス・キリストの福音をぎりぎりまで煮つめた表現であると言えます。
 パリサイ派が立てたメシアの真偽を判定する基準の中で最も決定的な点は、メシアはその生涯中にイスラエル解放という使命を達成していなければならないという基準です。この基準からすれば、十字架にかけられて処刑されたイエスはメシアではありえません。十字架上に処刑されたメシアというのは、ユダヤ人にとって最大のつまずきです。それに対して、福音はイエスが死者の中から復活されたという事実をもって応えます。これが福音の最も決定的な告知です。神はイエスを死者の中から復活させて、神の右に座す《キュリオス》、また人類の救済者キリストとしてお立てになったと告知します。パリサイ派が考えているメシアとは次元の違うメシア(救済者)です。イスラエルの民を異教の支配者から解放するメシアではなく、人間を罪と死の支配から解放する救済者です。福音はユダヤ人にとって最大のつまずきである「十字架につけられたキリスト(メシア)」を宣べ伝えます(コリントT一・二三)。ユダヤ人はイエスの復活を信じないので、メシアを「ダビデの子」とします。しかし、復活者イエスを信じる者は、イエスを「ダビデの子」として、地上でダビデになされた約束、ひいては旧約聖書預言全体を成就する方として、そして同時に復活して神の右に座す「ダビデの主」として崇めます。