市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第55講

ルカの「旅行記」について

       ― 第二部のまとめ ―

「旅行記」における区分とその配列

 ここで「ルカの旅行記」は終わり、次の段落でイエスはいよいよエルサレムに入られます。これまでにも繰り返し見てきたように、ルカはマルコに従い自分の福音書を三部で構成しています。すなわち、ガリラヤでの「神の国」告知の働き、エルサレムへの旅、そしてエルサレムでの受難と復活です。その第一部のガリラヤと第三部のエルサレムの部分では、ルカはほぼマルコの内容と順序に従い叙述を進めていますが、第二部の「旅行記」では大きくマルコから離れ、ほとんどマルコにはない記事で埋めています。マルコにない記事は、マタイにも知られていた共通の語録集である「語録資料Q」と、ルカだけが持っていた「ルカの特殊資料L」ですが、ルカはそれらの資料を自分なりの福音提示の構想に従ってこの「旅行記」に置きます。「ルカの旅行記」は、イエス一行のエルサレムへの旅の旅程についてはほとんど触れることなく、ルカが自分の福音提示のために自由に使える物語空間となっています。
 問題は、ルカがどのような構想をもってこの物語空間を構成したかです。ここでルカが用いた資料の配列は、どのような構想とか意図に従っているのでしょうか。この「ルカの旅行記」の構想については、研究者の間で様々な提案がなされていますが、決定的なものはありません。言えることは、この「旅行記」は、マルコの枠から離れて、ルカが自分の福音理解に従って自由に伝承資料を配列し、ルカなりの仕方でその資料を結びつけ、一つの物語として提示することができる自由な物語空間ですから、そこにルカの福音理解とか思想がもっともよく表れているということです。
 「旅行記」全体を通してその諸資料を配列する構想とか原理を見出すことは困難です。しかし、この講解で見てきたように、ルカは複数の資料を特定の主題によってひとまとまりとして提示していることは理解できます。まとまりを見ることが困難な場合もありますが、大枠では主題ごとにまとめられた区分(セクション)を見出すことができます。ここで第二部を振り返り、その区分(セクション)の配列を見ておきましょう。

区分1 七十二人の派遣(九・五一〜一〇・三七)
 エルサレムに向かう旅の始まりと、イエスに従う弟子の覚悟についての対話の記事(九・五一〜六二)の後、イエスが七十二人の弟子を「神の国」告知のために派遣された出来事に関連する記事がまとめられています(一〇・一〜二四)。これが「旅行記」最初の大きな区分を構成します。それは、「旅行記」に置かれていることが示すように、地上のイエスのガリラヤでの出来事ではなく、復活されたイエスによって派遣された弟子たちの状況を反映する記事でした。そして、次の区分に入る前に、「善いサマリア人」のたとえが挿入されます(一〇・二五〜三七)。このたとえがここに置かれたことで、この区分が「サマリア」で囲まれることになります(九・五二〜五三とこのたとえ)。

区分2 主の祈り(一一・一〜一三)
 マルコにはなく「語録資料Q」に伝えられている「主の祈り」を、ルカは「旅行記」に置きます。その後に、この祈りの解釈にかかわるたとえを置いて、「主の祈り」に関する区分を構成しています(一一・一〜一三)。

区分3 ファリサイ派との対立と対決(一一・一四〜五四)
 イエスが悪霊を追い出された働きを悪霊の頭によるものだと批判したファリサイ派律法学者との議論から始まり、イエスの激しいファリサイ派批判に終わるこの区分(一一・一四〜五四)は、その中にこの主題に適合しない語録も含まれますが、全体としてはファリサイ派ユダヤ教との対決を主題とする区分としてよいでしょう。

区分4 終末の切迫とその備え(一二・一〜一三・九)
 次ぎに終末の切迫とそれに備えるべきことを主題とする区分が来ます(一二・一〜一三・九)。その中に、「恐れることなくイエスを言い表す」必要を説く小区分(一二・一〜一二)、地上の富についての心構えを説く小区分(一二・一三〜三四)、時が迫っていることを強調する小区分(一二・三五〜一三・九)の三つの小区分が認められます。

区分5 来たるべき世の突入(一三・一〇〜一四・三五)
 先の区分(一二・一〜一三・九)では、イエスの「神の国」告知の終末的な側面、すなわち終わりの日の裁きが迫っていることを主題としてまとめられていました。その後を承けて次ぎの区分(一三・一〇〜一四・三五)では、イエスの「神の国」告知のもう一つの面、すなわち「神の国」の現実がすでにこの世界に突入してきているという主題でまとめられているように見られます。
 この区分は、前半(一三・一〇〜三五)と後半(一四・一〜三五)に分かれ、それぞれ安息日になされたいやしの出来事から始まり、「神の国」の到来を指し示すたとえや語録が続いています。

区分6 失われたものが見つかる喜び(一五・一〜三二)
 次の一五章に収められている「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえは、失われたものが見つかった喜びを主題としている点で共通しています。この三つはおそらく、ルカが福音書でまとめる以前に、ひとまとまりのたとえとして伝承されていたものでしょう。ルカは、このマルコにはないひとまとまりのたとえ集を、マルコの物語の枠に拘束されない「旅行記」に置きます。
 そのさいルカは、どういう状況でこれらのたとえが語られたのかを説明する文(一五・一〜三)を冒頭に添えます。罪人たちと食事をすることに対するファリサイ派の人々や律法学者たちの批判に答えるという状況は、すでにガリラヤでの活動の時期にもありました(五・三〇〜三二)。ルカは自分だけが持っている特殊な資料を用いるために、改めて状況を説明する言葉を添えて導入します。この状況の説明は一六章の終わりまで続きます。

区分7 神の国と地上の富(一六・一〜三一)
 ファリサイ派の人々や律法学者たちの批判に答えるために「イエスは次のたとえを語られた」という状況説明(一五・一〜三)は、一五章と一六章全体を導入しますが、後半(一六章)は前半(一五章)とは別の主題、すなわち地上の人間の最大の関心事である富が「神の支配」とどのような関係に立つのかを主題としています。一六章は、この問題を扱う「不正な管理人」(一〜九節)と「金持ちとラザロ」(一九〜三一節)という二つの大きなたとえ話の間に、この主題に関するイエスの語録集(一〇〜一八節)を置いているという構成になっています。

区分8 神の国はいつ来るのか(一七・一〜一八・八)
 ファリサイ派の人々や律法学者たちの批判に対する反論は一六章末で終わり、「イエスは弟子たちに言われた」で始まる一七章は、弟子たちに対する訓戒や教えになります。一七章前半(一〜一九節)には弟子たちへの様々な訓戒とサマリア人を含む十人のいやしの記事が置かれていますが、後半(二〇〜三七節)は続く一八章一〜八節とで、「神の国はいつ来るのか」というルカの時代の共同体にとって切実な問題を扱っています。とくに一七章の後半はルカの終末観や救済史理解にとって重要な箇所になります。

区分9 神の国に入るのは誰か(一八・九〜三〇)
 「神の国はいつ来るのか」という主題を扱った後、ルカはその神の国にはどのような人が入るのかを扱う三つの記事を置きます(一八・九〜三〇)。「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(九〜一四節)、イエスが子供を祝福された記事(一五〜一七節)、そしてイエスと金持ちの議員の対話とそれにつづくイエスと弟子たちの対話(一八〜三〇節)は、それぞれ「義とされる」とか「永遠の命を受け継ぐ」とか「神の国に入る」という表現で、どういう人が神の国に入るのかを扱っています。

区分10 エルサレムを前にして(一八・三一〜一九・二七)
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と言われたイエスの言葉から始まるこの区分(一八・三一〜一九・二七)は、エルサレムで起ころうとしていることを予告するイエスの三回目の受難予告に続いて、イエスが盲人の目を見えるようにされた奇跡(一八・三五〜四三)と徴税人ザアカイの回心(一九・一〜一〇)というエリコでの出来事が語られます。エリコはエルサレムに上る巡礼者が最後に宿る町であり、エルサレムへの旅がいよいよ最後の旅程に入ったことを示しています。そして、「ムナのたとえ」が、「イエスがエルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れると思っていたからである」という状況説明で導入されます(一九・一一〜二七)。次の段落(一九・二八以下)でイエスはエルサレムに入られるのですから、この区分は、エルサレムへの旅の最後の段階で、エルサレムで起ころうとしていることを目の前にして、イエスが語り、また為されたことを伝える箇所になります。

イエスのたとえの宝庫

 このように振り返って概観しますと、ルカの長い「旅行記」は、イエスが告知された「神の国」の福音を、ルカが持てる限りの資料を駆使して内容豊かに伝えようとして構成した苦心の作であることが分かります。その豊かな内容は、この「旅行記」だけに伝えられているイエスのたとえの豊かさからも十分に感じられます。マルコとマタイにはなくルカだけに伝えられているイエスのたとえを列挙しますと、次のようなリストになります。

 「善いサマリア人」(一〇・二五〜三七)
 「愚かな金持ち」(一二・一三〜二一)
 「実のならないいちじく」(一三・六〜九)
 「客と招待する者」(一四・七〜一四)
 「見失った羊」(一五・一〜七)
 「無くした銀貨」(一五・八〜一〇)
 「放蕩息子」(一五・一一〜三二)
 「不正な管理人」(一六・一〜一三)
 「金持ちとラザロ」(一六・一九〜三一)
 「無益な僕」(一七・七〜一〇)
 「やもめと裁判官」(一八・一〜八)
 「ファリサイ派の人と徴税人」(一八・九〜一四)
 「ムナ」(一九・一一〜二七)

「見失った羊」と「ムナ」のたとえには、マタイに似た並行記事があり、「語録資料Q」からと見られますが、その形と内容はかなり違い、ルカは独自の資料を用いた可能性があります。これをルカ固有のたとえとして扱う理由については、それぞれのたとえの講解を参照してください。

 以上のルカだけにあるたとえは、すべて「旅行記」にあります。「善いサマリア人」や「放蕩息子」や「金持ちとラザロ」のようなたとえがないキリスト教は考えられません。これらのたとえは、イエスの代表的なたとえとして、広く世界の人々に知られています。福音書にこれらのたとえを記録して伝えたのはルカの功績です。ルカが、新約聖書時代の最後に位置しているという立場から、それまでに各地の共同体に伝えられ流布していたイエスのたとえを広く収集して伝えてくれたおかげで、現在のわたしたちはイエスの貴重なたとえを持つことができています。それらの貴重なたとえはすべてルカの「旅行記」にあることを思うと、「旅行記」はイエスのたとえの宝庫であり、その価値は測りしれません。

「旅行記」に見るルカの終末観

 このように「旅行記」は、ルカがマルコから離れて自由に構成できる物語空間として、ルカの思想や特色が一番よく出ている部分になります。その思想や特色については、講解の中で折々に触れてきました。第二部を終えるにあたって、第二部「旅行記」に表れたルカの終末観を取り上げて、ルカの思想的特色のまとめとしておきたいと思います。それは、エルサレム陥落後の最初期後期には「来臨の遅延」が問題になり様々な対処の仕方が現れていましたが、ルカはその時期の最後に位置する福音書記者として、それまでの伝承や福音理解を統合して次の世代に渡していく責任をもつ立場にある者として、とくに「来臨の遅延」に対処する正しい終末待望を確立する責任を果たすべき立場にあったからです。
 ルカはこの「旅行記」でも、イエスの言葉の中の終末に関わる部分を大きく取り上げてまとめています。それは、先に見た各区分の内容からも分かります。各区分の内容を示す標題を見ただけでも、ルカがイエスの福音告知の主題である「神の国」を正面から取り上げ、イエスの「神の国」告知の二つの主要な面、すなわち「神の国」の到来が切迫しているという面と、「神の国」の現実がすでに到来しているという面を十分伝えていることが分かります。しかも、この二つの面に即して、その「神の国」の切迫と現実に直面する人間の側の対し方を、イエスの教えの言葉やたとえによって具体的に指し示しています。
 ルカは誠実な歴史家として、前期に燃えていた「人の子」を核とするユダヤ教黙示思想の来臨信仰の伝承を忠実に伝えています。第三部では「マルコの小黙示録」の内容をほぼそのまま伝えています。その面は、第二部でも「神の国」の切迫を語る部分によく出ています。しかし同時に、ルカは「ムナのたとえ」のように、ユダヤ教黙示思想の終末待望をいましめるような書き方をして、異邦人共同体に救済史の担い手として歴史の中を歩む覚悟を促しています。ルカは、コロサイ書やエフェソ書に見られる来臨《パルーシア》を切実に問題にしない信仰も知っています。ルカは、「神の国は、見える形では来ない。・・・・実に、神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」と宣言して、ユダヤ教黙示思想に対するアンティテーゼを提出して、伝承されたユダヤ教黙示思想的な終末待望とのバランスを取っています。
 第二部の「旅行記」を通して読み取れるルカの終末思想は、このバランスの上に立って、次の時代の異邦人共同体に、異邦人を担い手とする救済史の見通し(パースペクティヴ)を与えて、異邦人共同体がこれからの世紀を神の意志に従って歩むことができるように励ますものになっています。ルカは、一方では(前期のユダヤ教黙示思想的来臨待望がしているように)キリストの来臨がいつあってもよいように備えることを説きながら、一方では異邦人共同体に歴史の中を歩む覚悟を促すものになっています。二世紀以後の「正統派」教会は、ルカが敷いた路線を歩むことになります。ルカは最初期の前期と後期を通して、キリストの民の共同体に流れていた諸々の潮流とその伝承を統合して次の世代に引き継ぐ連結器の役割を果たし、その後の時代の「正統」信仰を準備します。