市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第53講

109 徴税人ザアカイ(19章1〜10節)

ザアカイの救い

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。(一九・一)

 マルコはイエスの一行が「エリコを出て行こうとされたとき」、すなわちまだエリコの町におられるときに盲人を見えるようにされたと伝えていますが、ルカはザアカイの出来事をここに置くために盲人のいやしをエリコに入られる前の出来事としました。そしてザアカイをエリコの住民として、ここに登場させます。
 しかし、ザアカイの記事はルカだけにある記事で、ガリラヤの町での出来事をルカがここにもってきたとする説もありますが、その可能性は他の福音書を根拠として否定することはできません。イエスはガリラヤで多くの徴税人を仲間としておられたことが伝えられていますので(五・二九)、このような出来事がガリラヤの町でもあった可能性はありますが、エリコではありえないということはできません。以下に見るように、ルカが伝えるとおり、エリコでの出来事と見ることが一番自然です。

 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。(一九・二)

 ルカがザアカイの出来事をここに置いたのは、エルサレムに入られる直前にイエスが行われた目覚ましい救いの出来事、しかもまったく対照的な二人の救いの出来事を並べて、これからエルサレムに入られる方の姿を際だたせるためであったのでしょう。
 「対照的」と言ったのは、直前の盲人は道端で物乞いをしていた極貧の盲人ですが、ザアカイはなに不自由なく暮らしていた金持ちの「徴税人の頭」であるからです。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(一八・二五)と言われているその金持ちが救われたのです。物乞いの盲人も、金持ちの「徴税人の頭」も、イエスに出会うとき救いが訪れます。物乞いの盲人は「あなたの信仰があなたを救った」と言われており、ザアカイは「今日、救いがこの家を訪れた」と言われています。このことからもこの二つの出来事が救いの出来事として並べられていることが分かります。

「徴税人の頭」と訳されているギリシア語原語は《アルキテローネース》ですが、この語は新約聖書ではここだけに出てくる語であり、この時代までの他のギリシア語文献にも出てこない語で、その意味を確定することは困難です。一般にローマの支配者からある地域の徴税を請け負い、複数の配下(下請け)の「徴税人」《テローネース》を使って税を集める「徴税請負人」と理解されていますが(先に拙著でもそう説明しました)、当時のパレスチナではそのような徴税システムは確認できないという異論もあり、「有力な、主要な、代表的な徴税人」と理解すべきであるという主張もあります。「徴税人」《テローネース》自体が請負制で税を徴収する者でした。いずれににせよ、ここではザアカイがユダヤ教でいつも「罪人や徴税人」と並べられて、イスラエルの民の資格のない者として扱われている「徴税人」であることが重要で、徴税システムでの資格や地位は問題ではありません。

 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。(一九・三〜四)

 多くの力ある働きをなされるナザレのイエスの評判は、ガリラヤでもユダヤでもユダヤ人の間に広く鳴り響いていました。またユダヤ教社会では厳しく差別され疎外されている徴税人とも親しく交わりをもたれる方であるという事実は知れ渡っていました。ザアカイはそのようなイエスに何としても一度会ってみたいと願っていました。その強い願いには、ザアカイが意識しない深いところで神の働きかけがあったと推察されます。彼もまた神に選ばれていた一人です。
 ザアカイがイエスに会うことを強く願っていたことは、彼の行動が示しています。イエスが通られるところに行ったところ、群衆が取り囲んでいて、背の低いザアカイはイエスを見ることもできません。それで走って先回りし、いちじく桑の木に登ります。「いちじく桑」というのは、クワ科の常緑樹で、イチジクに似た実(味はおちます)をつけるのでそう呼ばれていますが、おもに建材用に栽培される逞しい成長力をもつ木です。高さは一〇〜一五メートル、周囲は数メートルにもなり、大人がその枝に登れます。ザアカイは道端のいちじく桑の木に登り、イエスが通られるのを待ちます。

 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。(一九・五)

 そこを通りかかったイエスは、いちじく桑の木に登っているザアカイを見られます。そして、彼に向かって言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日あなたの家に泊まらなければならない」(直訳)。イエスは「泊まりたい」という願いではなく、「泊まらなければならない」と、必然を示す言葉遣いをしておられます。イエスもいちじく桑の木の上のザアカイの姿をごらんになったとき、エルサレムに入る前夜を過ごすために神が備えられた人物であることをお知りになります。ここでザアカイがイエスに会うことと、イエスがザアカイの家に泊まってエルサレム入りに備えることが、神の定められた必然として起こっています。

 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(一九・六)

 ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエスを自分の家に迎え入れます。家に迎え入れたことは、ザアカイがイエスを心に受け入れたことを示しています。イエスを受け入れたとき心に湧き上がる喜びは、人の計らいや理解を超えた不思議な喜びです。この喜びは、このときザアカイに魂の転換、救いが来ていることを示しています。

 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。(一九・七)

 イエスがザアカイの家に入られるのを見たユダヤ人たちは、イエスが「罪深い男」の家に入って宿をとったことを批判してつぶやきます。ユダヤ教社会では、徴税人は泥棒と同列に扱われ、その仕事そのものからして聖なる契約の民イスラエルには加わることができない汚れた者とされていました。ユダヤ人は、神に受け入れられる清い者であるために、汚れた「罪人」と接触することを極力避けました。食事を共にすることなどはしてはならないことです。「罪人」の代表格である徴税人の家に泊まることなど、もってのほかです。

 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。(一九・八)

 ここでザアカイが「立ち上がって」言ったとされているのは、何を意味するのでしょうか。直前の七節の続きとしては、家の前で非難がましくつぶやいているユダヤ人たちに宣言するために「立ち上がって言った」ということになりますが、ここでは「主に言った」となっています。呼びかけも「皆さん」ではなく「主よ」です。ルカはしばしばイエスを「主《ホ・キュリオス》」と呼んでいますが、ここでも「主に言った」は、イエスを主《ホ・キュリオス》として受け入れてひれ伏しているところから「立ち上がって」、これから主に従っていく自分の決意を言い表したものと受け取ることができます。
 このザアカイの約束は救いの条件ではありません。こういうことをすると救われるのではありません。これは救いの結果です。ザアカイはイエスを受け入れて魂の深みにおいて転換をした結果、このようにしないではおれない思いになり、それをイエスに申し上げています。まだ実行してはいませんが、その思いを言い表すことで、内に起こった変革を示しています。

ここで「だまし取る」と訳されている動詞は、新約聖書ではこことルカ三・一四の二カ所だけに出てくる動詞で、三・一四では洗礼者ヨハネが兵士たちに「脅し取る」ことを禁じています。徴税人の場合は、正当な根拠なく余分な税を取り立てることを指しています(三・一二〜一三参照)。

 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。(一九・九〜一〇)

 このザアカイの言葉を聞いてイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」と言って、ザアカイの救いの体験を確認されます。そして、その理由として「この人もアブラハムの子なのだから」という言葉を加えておられます。イエスから見れば、徴税人であれ遊女であれ、「アブラハムの子」はアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者です。
 イエスは十二人の弟子を派遣するときに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられたと伝えられています(マタイ一〇・五〜六)。異邦人向けに書いているルカはこの語録を省略していますが、実際のイエスと弟子たちの活動は(復活以前では)パレスチナのユダヤ人の間に限られていました。イエスご自身もご自分の使命を「イスラエルの家の失われた羊」を探し出して救うためであると自覚しておられました(この自覚はエゼキエル書三四章の羊飼いの姿が原型になっていると考えられます)。そのことがここで「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と明言されています。ザアカイも「イスラエルの家の失われた羊」の一人であったのです。このイエスの使命は、有名な「見失った羊」のたとえ(一五・四〜七)で印象深く語られています。ここのザアカイはまさにそのたとえで描かれている「見失った羊」であり、「悔い改める一人の罪人」であったのです。
 イエスはこのような自覚を「わたしは失われたものを捜して救うために来たのである」と語られたのでしょうが、イエスを「人の子」として告知したパレスチナ・ユダヤ人の語録伝承では、「人の子」を主語とする形で伝えられるようになった消息については前述したとおりです。

アブラハムの子

 ここでイエスはザアカイの救いを「この人もアブラハムの子なのだから」という言葉で根拠づけておられます。これが何を意味するのかを、ここで検討しておきたいと思います。
 主はアブラハムと契約を結びこう言われました。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記一七・七)。この契約がありますから、ユダヤ人は自分がアブラハムの子孫であるイスラエルの民に所属する以上、そして契約の言葉である律法を守っている限り、自動的に主の民としての祝福にあずかる者だと考えていました。イエスも、ザアカイが救われた根拠として、このような意味で「この人もアブラハムの子なのだから」と語られたのでしょうか。律法は守っていないので「罪人」と呼ばれてはいるが、アブラハムの血統を受け継ぐ者である以上、神の民として祝福にあずかる者だと言われたのでしょうか。
 そうではありません。そうであれば、周囲のユダヤ教の考え方と大差はありません。「律法を守っている限りは」という条件は外されましたが、ザアカイの救いを「アブラハムの血統に属する民の一員であるから」という事実で根拠づけられたとしたら、それはイエスの福音も偏狭な民族宗教の一種になってしまいます。すでに洗礼者ヨハネがイスラエルの民に向かって、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言って、このようなイスラエルの民の偽りの根拠を打ち砕いています(三・八)。「アブラハムの子なのだから」という根拠は、民族的な枠を外して理解しなければなりません。
 このことを最も明確に語っているのはパウロです。パウロは「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない。アブラハムの子孫がみなその子ではない」(ローマ九・六〜七)と宣言し、アブラハムの信仰に立つ者こそ「アブラハムの子」であるとしてこう言っています。

 相続は信仰に基づくことになるのですが、それは恵みによって約束がすべての子孫、つまり、律法に基づく者だけでなく、アブラハムの信仰に立つ者にも実現するためです。アブラハムはわたしたちすべての者たちの父なのです。「わたしはあなたを多くの民の父として立てた」と書かれているとおりです。アブラハムは死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じ、その神のみ前でわたしたちの父となったのです。(ローマ四・一六〜一七 私訳)

 パウロはこのような信仰によって福音をモーセ律法の枠から解放し、ユダヤ人以外の諸民族に福音をもたらしました。こうしてパウロによって成立した異邦人の共同体を基盤として活動したルカが、「アブラハムの子なのだから」というイエスの言葉を伝えるときに、それを「アブラハムの血統に属する民の一員であるから」という意味で伝えたのではなく、「アブラハムの信仰に立つ者であるのだから」という意味で伝えたと推察されます。少なくとも、パウロ系の異邦人共同体では、そのように理解されていたと考えられます。ザアカイの信仰はまだ十字架・復活のキリストへの信仰ではありませんが、ザアカイは律法の外で、律法と関係なく、信仰によって救われる者の典型として語り伝えられたことでしょう。「律法とは無関係の、信仰による義」に生きるわたしたちも、この意味の「アブラハムの子」としてザアカイを語り伝えます。