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第一六章 エルサレムを前にして

       ― ルカ福音書 一八章(三一節)〜一九章(二七節) ―

はじめに

 一八章三一節に、イエスが「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と言われた言葉が置かれており、一行がいよいよエルサレムに近づき、エルサレムで起ころうとしていることが緊迫感をもって語られます。その後、イエスが盲人の目を見えるようにされた奇跡(一八・三五〜四三)と徴税人ザアカイの回心(一九・一〜一〇)というエリコでの出来事が語られます。エリコはエルサレムに上る巡礼者が最後に宿る町であり、エルサレムへの旅がいよいよ最後の旅程に入ったことを示しています。
 そして、「ムナのたとえ」が、「イエスがエルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れると思っていたからである」という状況説明で導入されます(一九・一一〜二七)。次の段落(一九・二八以下)でイエスはエルサレムに入られるのですから、この区分(一八・三一〜一九・二七)は、エルサレムへの旅の最後の段階で、エルサレムで起ころうとしていることを目の前にして、イエスが語り、また為されたことを伝える緊迫した箇所になります。


107 イエス、三度死と復活を予告する(18章31〜34節)

三度目の受難予告

 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」。(一八・三一)

 先行する諸段落と後続する諸段落では、イエスは群衆の間で働き語っておられますが、この段落ではイエスは十二人の弟子だけをご自分の傍に呼び寄せて、秘かに重要な秘義を語り出されます。それは、エルサレムに入る時を目前にして、エルサレムで起こる出来事に弟子たちを備えるためです。エルサレムでイエスの身に起こる出来事は弟子たちの思いを超えることになることをイエスは知っておられます。それで、そのことが預言者が来たるべき終末的救済者「人の子」について書いたことの実現であることを教え、その出来事が神の御計画の成就であることを弟子たちが悟り、その出来事につまずくことがないようにするためです。イエスはエルサレムで起こる出来事を次のように語り出されます。

受難予告の主語が「人の子」であることについては、拙著『ルカ福音書講解T』413頁以下の「苦しみを受ける人の子」の項を参照してください。

 「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」。(一八・三二〜三三)

 イエスがエルサレムにおける受難を予告されたことが共観福音書では三度繰り返し伝えられています。先に見たように、その中の二回目の予告(九・四四)がもっとも簡潔で、おそらくイエスの言葉の原型であろうと考えられ、第一回目(九・二二)とここの第三回目は、すでにその出来事を知っている最初期共同体がそれを伝承していく過程で出来事の詳細を加えたのではないかと推察されます。第一回目の予告では、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され」と、ユダヤ教での裁判だけが処刑の理由としてあげられていますが、この第三回目の予告では、ユダヤ教側の裁判は触れられず、「異邦人に引き渡されて」という句でピラトの裁判から始まります。その上で、「人の子は・・・・侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」と、ピラトの法廷におけるローマ兵によるイエスへの侮辱と暴行(茨の冠、殴打、唾かけ、鞭打ち)が事実通りに具体的に記述されます。このような出来事の具体的な記述は、この預言が出来事の事後に形成されたものであることを強く推察させますが、第二回目の予告のような簡潔な、謎《マーシャール》の形で、イエスがご自分の受難を予告された事実は確かです。

マルコ(一〇・三三〜三四)の三回目の受難予告では、「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」とあり、受難物語の要約のような形になっています。マタイはほぼマルコに従っていますが、ルカはユダヤ教側の裁判とピラトの裁判をそれぞれ一回目の予告と三回目の予告に分けています。重複を嫌うルカの傾向からでしょうか、確実な理由は分かりません。

 イエスは、ご自身の「神の国」の告知、すなわち恩恵の支配の告知が、現存のユダヤ教の体制の根幹を揺さぶるものであり、祭司長たちや律法学者たちの反感と殺意を察知しておられ、同時に聖書が神に従う義人について書いていることを理解し、とくにご自身が苦難によって民を救う「主の僕」として召されている自覚から、ご自身の死を見据えておられた以上、エルサレムに向かって歩まれる途上で、弟子たちにそのことを語られたのは確実です。ただ、現在福音書に伝えられている受難予告の言葉には、受難の出来事を知っている共同体が伝承する過程で、事後予言的な記述が加えられていることは認めなければなりません。

復活予告について

 ところで、第一回目と第三回目の受難予告には、「そして、人の子は三日目に復活する」という復活予告がついています。しかし第二回目の受難予告には復活の予告がなく、「人の子は人々の手に引き渡される」という受難の予告だけです。一方、マルコ(とマタイ)の並行箇所では、第二回目の受難予告にも三日目の復活が予告されています。ルカのように復活予告のない伝承があることと、「三日目に復活した」という表現が《ケリュグマ》にあること(コリントT一五・四)から、この復活予告は復活されたイエスの顕現を体験した最初期共同体が受難だけ予告されたイエスの予告の言葉に加えたものとする見方が多いようです。
 たしかに、エルサレムに向かう旅の途上という状況からすると、イエスの予告はエルサレムでの受難に重点があることは事実です。弟子たちはイエスがエルサレムに入られると、メシアとしての栄光が現れ、イエスは栄光の位に就かれ、自分たちも高い地位につくと期待していた節があります。弟子たちは途上で誰が一番偉いのかを議論し、高い地位に就けてくださるようにお願いまでしています(マルコ九・三三〜三四、一〇・三五〜三七)。イエスが言われたとして、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ一九・二八)という言葉が伝えられていますが――これは黙示録二一・一四の形で成就します――、エルサレムに入るまでの弟子たちは、この言葉でメシア王国での高い位を期待したことでしょう。このような期待に対して、イエスは「十字架につけられるキリスト」の奥義を語られたのですから、弟子たちはあまりの意外さにイエスの言葉を理解できず、ただ驚き恐れるだけということになります(九・四五、一八・三四)。
 このような状況で、弟子たちのメシア期待とはまったく別のメシア像を神の定めとして語り、その出来事に弟子たちを備えようとされたのですから、予告の言葉は受難の予告に重点があり、三日目の復活予告は取って付けたような感じがあることは否めません。ルカの二回目の予告のように、復活予告を伴わない受難予告伝承があったのは事実でしょう。しかし、マルコ(八・三二)はこのイエスの言葉を《ホ・ロゴス》として、すなわちこれこそが福音であるとして提示するのですから、復活を外すことはできません。「三日目の復活」を付けた受難予告が形成され、それが他の受難予告に継承されたという推察も可能です。復活の予告が含まれるにもかかわらず、これが普通「受難・復活予告」ではなく「受難予告」と呼ばれるのにも理由があります。
 しかし、イエスはご自分の「人の子」としての道が処刑の死で終わるものでないことも確信しておられたはずです。受難の死の後に栄光が続くことも見ておられました。神が御自身に従いきった義人の義を現してくださることを知っておられました。それで、受難した「人の子」は復活して栄光に入るという言葉になって、受難の予告に続くのは当然です。復活の予告は、それが福音書の現在の受難予告の文言に入ってきた経緯はともかく、イエスご自身から出たものとすべきです。
 復活予告に「三日目に」という句があるので、復活予告は事後予言とされることが多いようです。すなわち、すでにイエスの復活を体験し、「キリストは三日目に復活した」(たとえばコリントT一五・四)と宣べ伝えていた共同体が、それを出来事の前のイエスの言葉として伝えたのだする傾向があります。しかしそうではなく、むしろ逆に、イエスが受難の後に続く栄光を示唆する言葉を語られるときに、「三日後に」とか「三日間で」というような表現を用いておられたので、キリスト復活のケリュグマに「三日目」が入ってきたと考えるべきです。
 たとえば、イエスは「三日目に」すべてを完成する(ルカ一三・三二)とか、壊された神殿を「三日で」建てる(マルコ一四・五八、一五・二九)と語っておられます。このような言葉において、「三日」は正確な数ではなく、「間もなく」とか「すぐに」という意味で用いられています(セム語には「二、三の」とか「いくつかの」というような表現がないので、代わりに「三つの」が用いられました)。イエスは「三日」という語を用いて、受難に続いてすぐに現われようとしている栄光の事態を語られたのです。

「三日目に」という句についての議論の詳細は、J・エレミアス『イエスの宣教 ― 新約聖書神学T』519頁以下の項目Cを参照してください。

弟子の無理解

 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。(一八・三四)

 イエスがエルサレムでは異邦人に引き渡されて殺されることになると予告されたので、弟子たちはただ驚き、恐れ、その意味が理解できず、それを尋ねることもできませんでした。彼らが理解できなかったのは、彼らにはこの言葉の意味が「隠されていた」からである、とルカは説明しています。キリストの十字架上の死において何が起こったのかという奥義は、神が啓示してくださらなければ誰も理解することはできません。この時の弟子たちにはまだそれは啓示されていませんでした。すなわち、それはまだ「隠されていた」のです。ただ自分たちの宗教的熱心からイエスに期待を寄せていたこの時の弟子たちには、ただただ理解できない恐ろしい言葉であったのです。
 エルサレムへの旅は、ご自分の死を神の御旨として受け取り死を覚悟して歩まれるイエスと、最後までそれを理解できず、自分たちのメシア理解からエルサレムでの栄光を期待して歩む弟子たちとの間に横たわる悲劇的な裂け目を抱えた旅でした。この旅は同じエルサレムに向かいながら、イエスと弟子たちはまったく別の道を歩んでいました。その二つの道の間には超えられない裂け目が横たわっていました。この旅は、一回目の受難予告から始まり、二回目の受難予告を経て、三回目の受難予告で終わる旅でした。ルカもマルコに従ってイエスの働きをガリラヤ、旅、エルサレムの三つの区分で記述していますが、その第二部に当たる旅の部分は受難予告を枠としています。ルカ福音書の注解者の中には、一回目の受難予告から三回目の受難予告まで(九・二一〜一八・三四)を第二巻としている人もいます(WBCのJ・ノーランド)。
 ところが、ルカはこの旅を自分だけがもつ特殊資料によって満たす物語空間としているので、この悲劇的な裂け目は覆われています。しかも、ルカは二回目と三回目の受難予告の後に弟子たちの無理解と驚きと恐れを明記しながら、この裂け目を物語る決定的なエピソードを二つとも省略しています。それは一回目の受難予告の後にある「ペトロへの叱責」の記事(マルコ八・三二〜三三)と、三回目の受難予告の後にある「ヤコブとヨハネの願い」の記事(マルコ一〇・三五〜四五)です。「ペトロへの叱責」の記事の省略については先に述べましたので、ここでは「ヤコブとヨハネの願い」の記事の省略について考察します。

「ペトロへの叱責」の記事の省略の意義については、拙著『ルカ福音書講解T』416頁の「イエスの叱責の省略」の項を参照してください。

 マルコは三回目の受難予告のすぐ後に、ゼベダイの子のヤコブとヨハネの兄弟がイエスのもとに来て、「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったという出来事を伝える段落を置いています。このヤコブとヨハネの願いは、先のペトロが受難を予告されたイエスを「とんでもないことです。そんなことはあってはなりません」と言って諫めたペトロの諫言と並んで、弟子たちの無理解、イエスの道との裂け目をさらけ出す記事です。
 イエスも「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき」(マタイ一九・二八)という表現を用いられたとされています。これは典型的なユダヤ教黙示思想の世界です。イエスも弟子たちも当時のユダヤ教黙示思想の世界に呼吸しています。弟子たちは、イエスがエルサレムに入られると神はイエスによって大いなる働きを現し、イエスを栄光の座につかせ、イエスを通して約束された支配を実現されると期待していました。ヤコブとヨハネはそのような期待から、その時には自分たちを高い地位につけてくださいと願ったのですが、この期待は二人だけでなく弟子全体の期待でした。それは、他の弟子たちも二人がそのようなことを願ったことを知って「腹を立て始めた」ことからも分かります。他の弟子たちも同じことを願っていたから腹を立てたのです。この時もイエスは、二人にご自身が受けようとしておられる苦しみを「わたしが飲む杯、わたしが受けようとしているバプテスマ」という表現で指して、イエスの苦しみを共に受ける覚悟を促しておられます。
 ルカはこの「ヤコブとヨハネの願い」の記事を全面的に削除しています。先の「ペトロへの叱責」の記事の削除と共に、このことは何を意味するのでしょうか。登場人物の名を並べると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネとなりますが、これは十二使徒団の中核メンバーです。山上での変容のとき(九・二八)、またゲツセマネでの祈りのとき(マルコ一四・三三)、身近におらせてイエスの秘義に触れることを許された弟子です。ルカは「十二人」を「使徒」と呼んで最初期共同体の土台として描いていますが、その「使徒」の称号をイエスの地上の働きの時期にさかのぼらせ、福音書においても十二人を「使徒」と呼んでいます。これはルカだけです。イエスに従っていた時から「使徒」としてイエスの教えを受け継いでいた「十二人」の中でとくにイエスに身近な三人を、ルカはその無理解ぶりをさらけ出す記事を省略することによって擁護しようとしたのでしょうか。あるいは、異邦人共同体に向かって書いているルカは、このような黙示思想的期待から出るイエスへの無理解は、異邦人信者には関係のないことだから書かなかったのでしょうか。確実なことは分かりません。強いて推察すると、このような理由とか動機が考えられます。