市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第47講

補論 ― 福音書における「史的イエス」

 「旅行記」に置かれた、「神の国」の到来または「人の子」の到来に関わる二つの段落(一七・二〇〜三七と一八・一〜八)は、来臨の遅延というルカの時代の問題状況に対処するために、ルカが構成した一連の区分(セクション)をなしています。講解で指摘したように、その前段(一七・二〇〜三七)では、ルカは伝承されたイエスの「稲妻の言葉」に基づいて「神の国」は見える形で来るのではないとし、「神の国」は現にキリスト信仰共同体のただ中にあるとします。そうすることによって、「神の国」はどのような形でいつ来るのかという問いは必要でないことを示し、原理的に来臨遅延の問題を克服しようとします。そして後段(一八・一〜八)では、絶えず祈るべきことを教えられたイエスのたとえを引用して、人間の目には(神が世界を裁きご自身の民に栄光を与える日は)遅いと見えても、神の定めでは速やかに到来するとされているのであるから、気落ちせず祈り続けるべきことを説き、遅延の問題に実践的に対処しています。
 その講解でわたしは、前段の「神の国は、見える形では来ない。・・・・実に、神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」(一七章二〇〜二一節)という言葉と、後段の「主は言われた」以下の一八章六〜八節の言葉は、伝承されたイエスの語録というよりはルカの構成によるものであるとして、全体を講解しました。このような理解の仕方に対しては、福音書にイエスの言葉として記されている言葉はすべて実際に地上のイエスの口から出た言葉であって、その一部を後の時代の産物とすることは間違っているという異論があると思われます。しかし、先に例としてあげた「種まきのたとえの説明」の場合のように、最初期の共同体の状況から出た言葉であると理解しなければ、かえってイエスの真実の姿を見失うおそれのある言葉もあります。それで現代の福音書の研究では、福音書のイエスの言葉の中でどこまでが地上のイエスに帰すことができるかが大きな問題となり、論争が続いています。
 福音書には実際にイエスの行動と言葉から出たものと、最初期の共同体の状況から出たものが混在することは、福音書の本質からして避けられません。福音書はイエスの忠実な伝記を伝えるために書かれた文書ではありません。福音書は、イエス伝承(イエスの言動を語り伝える伝承)を用いて復活者イエス・キリストの福音を世界に告知しようとする文書です。従って、福音を告知するためという目的から全体の構成が決められ、その配列や個々の記述にその目的から生まれる意義づけや表現が用いられるのは当然です。そこには福音書を生み出した共同体の状況と著者の福音理解が色濃く反映することになります。しかも、イエスの言動を伝える素材のイエス伝承そのものも、イエスの言動を目撃者が客観的に記述した文書資料ではなく、口頭で語り伝えられた口伝伝承ですから、どうしてもその担い手の状況を反映することになります。
 このように福音書は、それを書いた著者の福音理解、それを生み出した共同体の状況、素材となったイエス伝承に刻み込まれた口伝伝承の担い手たちの状況という層が重なり合って構成された文書ですから、地上のイエスの実際の姿(研究者はそれを「史的イエス」と呼びます)を復元するには、それらの層の影響を除去した後に残るものを確認する必要があるとされ、考古学者が地層を掘り下げ少しでも古い層の遺物を発見しようとするように、研究者は福音書の各層を掘り下げて上層の影響を取り除き、最後に残る「史的イエス」の実像を回復しようとします。しかし、このような方法で回復された「史的イエス」の姿は、実に千差万別で、研究者の数ほどの「史的イエス」像が提案されています。ユニークなユダヤ教ラビの一人、悪霊払いの霊能者、犬儒派的な知恵の教師、終末的・黙示思想的預言者、貧農出身の革命家などなど、A・シュヴァイツァーが近代主義的方法が破綻したことを示した後も、欧米神学界の重要テーマとして探求が続けられ、次々に新しい説が登場しています。

学問的な「史的イエス」探求の歴史については、大貫隆・佐藤研編『イエス研究史』(日本基督教団出版局)を参照してください。

 ここでそのような「史的イエス」の問題を取り上げるつもりはありません。その問題は福音書講解の途上で扱うにはあまりに大きすぎます。ここでは、福音書でイエスの言葉とされているある部分を、最初期共同体の状況から出たものであるとすることの意義を確認するにとどめます。
 ここでしたように、福音書にあるイエスの言葉を最初期共同体の状況から出たものであるとすることは、聖書の霊感と権威を否定したり低くするものではありません。というのは、イエスご自身が聖霊によって神の言葉を語られたことは言うまでもないことですが、最初期の共同体も聖霊による復活者イエスとの交わりの中で「主イエス・キリスト」が語りかけられるのを聴き、それを「主は言われた」として伝えたのですから、イエスが語られた言葉を伝える伝承のイエス語録を引用するときも、自分たちが復活者イエスから聴いている言葉を伝えるときも、同じ主イエスの言葉として伝えることになります。最初期共同体の人々にとっては、両者は同じ権威をもつイエスの言葉であったのです。
 従って、わたしたちが福音書を読むとき、どれが実際に地上のイエスの口から出た言葉で、どれが最初期共同体の状況から出た言葉であるのかを厳密に区別することは、(歴史学にとっては必要ですが)信仰にとっては必要はありません。信仰は、地上のイエスの出来事と復活者イエスの働きを証言する最初期共同体の告知の全体を、そこで神が最終的で決定的な救いを成し遂げられた出来事として信じ、その全体が聖霊の働きの結果であるとして、その出来事の中から生み出された文書(新約聖書の諸文書)を信仰の拠り所また規準として、その出来事の現実に参与することだけを追求します。
 しかし、イエスの状況と最初期共同体の状況は違います。とくに共同体がヘレニズム世界に進出して異邦人を多く含む共同体となってからは、パレスチナのユダヤ人の間で活動されたイエスの状況とは大きく違ってきています。その状況の違いを認識して、イエスから出たとされる言葉の(その状況における)意義を確認することは必要であり、福音書の理解にとって有益です。とくに、ヘレニズム世界の諸国民に語りかけようとしているルカは、パレスチナ・ユダヤ人の間で働かれたイエスとは状況が大きく違います。その状況の違いを認識して、ルカが伝えるイエスの言葉の意義内容を理解することはルカ福音書の理解にとって必要です。そして、そうすること(ルカの状況でイエスの言葉を理解すること)は、決してイエスの言葉の権威を貶めるものではなく、かえってイエスの言葉が硬直した教条の言葉ではなく、状況に向かって語りかける柔軟性のある生きた言葉であることを理解することになります。

このように、福音の言葉は永遠の真理の言葉ですが、決して硬直した教条ではなく、歴史的状況に即して語りかけるものとして理解すべきことは、拙著『福音の史的展開』が追求する課題です。