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103 「やもめと裁判官」のたとえ(18章1〜8節)

来臨遅延の問題

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(一八・一)

 この段落は、「神の国はいつ来るのか」を問題にしている前の段落の直後に置かれていること、扱われているたとえの主題が神の裁きであること、結びの部分で「人の子が来るとき」のことが明確に語られていることなどから、神の国到来のことを扱っていると理解できます。事実、この段落を前の段落と一組にしている注解書も多くあります。従って、「気を落とさずに」というのは、来臨《パルーシア》が遅れていることへの共同体の失望とか落胆に対する警告とか励ましを指しており、「絶えず祈らなければならない」のは、そういう状況において共同体がなすべきことの指示であると言えます。
 この段落はルカだけにある段落で、マルコとマタイにはありません。それで、以下に引用されているたとえ自体(二〜五節)はルカだけが入手していた特殊な資料で伝えられていたイエスの語録であるとしても、そのたとえが語られた目的を「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とした一節全体は、来臨遅延の問題に対処しようとするルカの構成によるものと理解されます。
 ルカはすでに来臨遅延の問題を原理的に克服する道を提示しています。すなわち直前の段落(一七・二〇〜三七)で、「神の国はいつ来るのか」という問い ― この問いはファリサイ派の人からの問いとされていますが、それにはルカの時代の共同体の来臨に対する疑念が重なっています ― に対して、イエスの稲妻の語録に基づき、「神の国は、見える形では来ない・・・・実に、神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」として、神の国が到来する時期や「人の子」が現れる時を地上の出来事とすること自体を不必要なこと、不適切なこととし、従って「遅延」というようなことは本来問題とならないとしました。
 しかし、ルカはそのような原理的な解決だけでは十分とせず、この問題に対処するための実際的な勧告も加えます。それがこの段落です。ルカはその実際的な勧告を、イエスが語られたとして伝えられている「たとえ」を用いて行います。

しつように求めるので

 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」。(一八・二〜五)

 これはルカだけが伝えているたとえですが、同じくルカだけが伝えている同じような主旨のたとえがもう一つあります。それは、夜中にパンを借りに来た友人のたとえ(一一・五〜八)です。そのたとえでも、結論は「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」となっています。そのように、ここの「やもめと裁判官」のたとえでも、そのやもめの地区を担当する裁判官だからということでは訴えに応じようとしなかった裁判官でも、やもめがしつように求めるので彼女のために裁判をしてやろうと決心します。
 夜中の友人のたとえでは、その結論として「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というイエスの言葉が続いています(一一・九)。神に祈り求めるときは、現実の姿がどうであろうとも、その現実の姿によって落胆したり諦めたりすることなく、神の信実だけにより頼んで求め続けるように教えられたイエスが、イエス独自の意表を突く表現で語られたのがこの二つのたとえであると見られます。
 ルカは夜中にパンを求める友人のたとえを、父が求める者に必ず聖霊を与えてくださることを語る文脈で用いました。それは、「明日のパン」を求めることを教えた「主の祈り」の文脈にふさわしいからです。同じ主旨の「やもめと裁判官」のたとえを、ルカはキリストの来臨を求める共同体の祈りを励ます文脈で用います。それは、キリストの来臨はキリストの民を苦しめる世の支配者に対する神の裁きを含んでいるので、裁判官を主人公とするたとえは、この文脈で用いるのにふさわしいからです。
 このたとえの裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。裁判官は、自分の担当の地域に貧しいやもめがいて、自分の権利を守ってくれるように訴えたとき、直ちにそれに応じて裁判をしなければならない立場です。ところがこの裁判官は「しばらくの間は取り合おうとしなかった」のです。おそらくこんな貧しいやもめの裁判をしても、彼女から賄賂や報酬など期待できそうにないと考えたからでしょう。彼は、神がしてはならないとされた「人をかたより見る」裁判官です。また、彼は、貧しい者を顧みるように求めた預言者たち(イザヤ一〇・二など)の精神をまったく無視した「神を畏れない」裁判官です。また、弱い人たち、とくにその代表格であるやもめの涙を無視しないように説いた「知恵」を無視する裁判官です(シラ書三五・一二〜二四参照)。彼は「人を人とも思わない、人を顧慮しない」裁判官です。

「人を人とも思わない」と訳されている原語は、「人に関心、敬意をもつ」という意味の語で、「人のことを顧慮する」という意味になります。ほとんどの邦訳は新共同訳と同じですが、岩波版佐藤訳は「人をも憚らない」と訳しています。

 しかし、やもめが「ひっきりなしにやって来て」、自分を煩わせ、ついには自分をひどい状態に陥れることになりかねないと思い、彼女のためになる裁判をしてやろうと決心します。彼は正義のためではなく、貧しい者の権利の擁護のためではなく、まったく自分の保身のためだけを考えて行動します。彼は「不正な裁判官」です。このたとえはこの裁判官を主人公とするたとえであるとする注解者は、このたとえに「不正な裁判官のたとえ」という標題をつけています。

 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。(一八・六〜七)

 イエスが語られたものとして伝えられているたとえを引用した後、ルカはそのたとえが言おうとしている意味を明らかにします。そのさい、ルカは「イエスは言われた」とせず、「主《ホ・キュリオス》は言われた」と書いています。たとえを語ったのはイエスですが(一節)、その意義を説くのは「主《ホ・キュリオス》」となる呼称の変化は、さきに「不正な管理人」のたとえの場合にも起こっていました(本書259頁の一六・八についての講解参照)。「主《ホ・キュリオス》」という称号は、ルカは福音書においてイエスを指すのに繰り返し用いていますが、本来復活者キリストを指す称号であり、その称号が福音書で用いられるときはしばしば、復活者キリストの働きを地上のイエスと重ねて語るときとか(ナインのやもめの息子の生き返りや「七十二人の派遣」の記事など)、著者や共同体が復活者キリストから与えられたものと確信している(たとえなどの)理解が地上のイエスの言葉とされて語られる場合があります(ここや不正な管理人のたとえなど)。

ルカ福音書におけるイエスを指す《ホ・キュリオス》の用例については、拙著『ルカ福音書講解T』316頁の「主《ホ・キュリオス》の働き」の項を参照してください。こうして用例を並べてみると、福音書で「主《ホ・キュリオス》」という称号が用いられているのは、ルカだけにある「ルカの特殊記事」に集中していることが分かります。

 イエスは多くのたとえを語られましたが、その意味を解説されたことは稀です。たとえの意味を解説する福音書の記事には、最初期の共同体が理解した意味をイエスが語られたものとして伝えているものがあります。典型的な例は、「種まきのたとえ」の意味を解説した箇所(八・一一〜一五)です。この解説はイエスご自身のものではなく、最初期共同体が福音活動の状況で理解した意味を、イエスの言葉として書き記したものであることは、現在では多くの注解者の共通の認識となっています。この「不正な裁判官」のたとえの場合は議論が残りますが、共同体の理解を伝えているとすることも可能であり、「《ホ・キュリオス》は言われた」という表現もそれを示唆しています。
 さらに、このたとえを「神の国はいつ来るのか」という問題の文脈に置いたのはルカです。おそらく諦めず求めることを説く一組のたとえとして伝承されていた「夜中の友人」のたとえと「不正な裁判官」のたとえを、ルカは一つを「主の祈り」のパンを求める祈りの解説として用い、一つをこの「神の国」到来の時が問題とされた状況で用います。ここでは明らかに来臨遅延の状況に「気落ちしている」共同体に向けて語られていますから、イエスの状況ではなくルカの時代の状況です。イエスが来臨遅延の問題を取り上げられることはありません。
 ルカは、イエスが語られたたとえを伝えた後に、この裁判官を「不義の裁判官」と呼び(この呼び方は先の「不義の管理人」と同じです)、このような不義不正の不埒な裁判官でも、しつように求められれば求めに応じて裁判をするではないか、「まして(義なる裁判官である)神がそうされないことがあろうか」と続けます。
 七節は直訳すると、「まして神は、日夜彼に叫ぶ彼の選ばれた者たちの権利擁護をされないで、彼らを長く耐えられるであろうか」となります。ここに用いられている「権利擁護」という語は、この段落に繰り返して用いられており、この段落の内容を理解するためのキーワードとなります。この語には二つの意味があります。一つは、人の訴訟を取り上げて正しさを証明すること、あるいは権利を守ってやることという意味で、もう一つは、復讐、報復、処罰という意味です。二つは同じことの両面です。裁判で正しい者の正しさを証明し権利を守ることは、不正な相手を処罰して報復することになります。
 たとえの中のやもめはまさに裁判官にそれを求めたのです。彼女はそれをする立場にある裁判官に「(裁判をして)わたしを訴える者からわたしを守ってください(=わたしの正しさを証明して、わたしの権利を擁護してください)」と求めています。ここ(三節)では動詞形で用いられています。その訴えを受けた不義の裁判官は、はじめはしばらく放置しますが、彼女のしつような求めに耐えかねて、彼女の権利擁護(五節)のために裁判をする決心をします。そのたとえを承けて、七節の「まして神は、日夜彼に叫ぶ彼の選ばれた者たちの権利擁護をされないことがあろうか」という言葉が来ます。
 あの不義な裁判官ですら、弱いやもめのしつような求めに耐えることができず裁判をしたではないか。まして義なる裁判官である神が、ご自分が選ばれた民の絶えざる求めをいつまでも「耐えて」聞き流しにして裁判をしないまま放置し、ご自分の民の正しさを証明し権利を擁護されないことがあろうか、そんなことはありえないではないか、と言って次の文に続きます。

 「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。(一八・八)

 最初の「わたしはあなたたちに言う」は、六節の「主《ホ・キュリオス》は言われた」の中の文ですから、この節の言葉は共同体が主と仰ぐ復活者キリストから聴いている言葉としてここに置かれていることになります。復活して世界の主と立てられたキリストがご自身の民に向かって断言されます、「神は速やかに裁かれる」と。ここで「裁かれる」と訳されている用語は、この段落のキーワードである「(裁判をして)正しさを証明し、権利を擁護する」という表現です。
 この言葉の中の「速やかに」が、前節の「長く(いつまでも)耐えて」との対比で強調されています。あなたたちは、神が世界を裁き自分たちの正しさを証明し権利を擁護してくださる時が遅いと思い、落胆して、祈り求めることも止めてしまっている者もいるが、その日は決して遠くない、「速やかに」来るのだ、と主は言われます。この対比は、時間を測る尺度が人間と神とでは違うことを指し示しています。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とありますが(ペトロU三・八)、主の日が来るのは、あなたたちが遅いと思っているように遅いのではない。神は「速やかに」その日を来させてくださる、と神の側の定めを指し示します。
 神は速やかに裁きを行おうとしておられるのだから、人間の思いでは遅いと思っても、気落ちすることなく、その日の到来を自覚して絶えず祈る必要があることが、この段落全体で求められていることになります(一節)。ところが、ルカの時代の共同体では、来臨遅延による信仰の混乱から信仰を見失う人も出ていたようです。あるいは、その信仰から「人の子」の到来という希望が脱落し、「人の子」への待望が衰弱していた事実があったようです。ルカはその現状への警告として、主がその状況を心配し憂いておられるとして、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という「主の言葉」を置きます。この場合の「信仰」は、差し迫っている「人の子」の到来への信仰です。「人の子」が来て、自分の民の権利を擁護するとき、その「人の子」を待ち望む信仰の民がいなければ、その到来は無意味です。そのような事態にならないように、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」この段落が置かれます。