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キリスト来臨の問題(一七・二〇〜一八・八)

102 神の国が来る(17章20〜37節)

神の国はいつ来るのか

 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。(一七・二〇〜二一)

 ここでまた新しい主題が導入されます。「神の国はいつ来るのか」という問いは、当時のユダヤ教徒の重大関心事でした。神殿での祭儀を牛耳り宗教的支配権を確立し、それによって現世での特権を享受していたサドカイ派は別として、当時強くなってきていた黙示思想的色彩のエッセネ派はもちろん、律法順守を根本原理とするユダヤ教主流のファリサイ派も、イエスの時代では終末的待望を強く示していました。そのファリサイ派の中の急進派が《ゼーロータイ》(熱心党)として、武力を用いてでも神の支配を地上にもたらそうとする過激な運動を進めていました。
 黙示思想では、現実の今の世は神に敵対する勢力によって支配されているが、やがて神の約束がすべて成就し、神が直接支配される世が来るとし、その「来るべき世」が到来する終わりの時が近いとします。イエスの時代は、このような終末待望が燃えていました。しかし、その終わりの日への待望を言い表す仕方は、ユダヤ教内で一様ではなく、様々な表現がありました。その中に、神がダビデに約束されていたメシアが到来し、イスラエルを異教徒の支配から解放し、神がイスラエルを通して世界を支配されるというメシア思想があり、われこそがそのメシアであると名乗る人物による「メシア運動」が頻発していました。
 このように、当時のユダヤ教徒にとって、神の支配の実現は最重要関心事であり、それがいつ、どのように起こるのかが議論されていました。この問いを、民衆の間で広く「神の国」を説いてこられたイエスに、ファリサイ派の人々が持ち出します。「神の国はいつ来るのか」という問いは、「神の国はどのように来るのか」という問いを含んでいます。この問いに対するイエスの答えは、神の国(=神の支配)の到来に関するイエスの思想と教えを端的に示す重要な言葉となります。
 この問いに対して、イエスはまず二つの否定の文を用いて、神の支配の到来に関するファリサイ派や当時のユダヤ教徒の思い違いを指摘されます。その第一は、「神の国は、見える形では来ない」という言葉です。そして、神の国は人の目に見える地上の出来事として来るのではないことが、第二の「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」という言葉で具体的に表現されます。この二つの否定の文で、神の支配の到来を何か地上の歴史的出来事と考えている当時のユダヤ教徒の思い違いを指摘し、その結論として神の支配が到来するとはどのような性格の出来事であるのかを語り出されます。それが、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というお言葉です。
 ここで「の間に」と訳されている原語は《エントス》というギリシア語です。この語の意味については多くの議論が行われています。この《エントス》は本来「内に、内側に、中に」という意味の副詞であり、冠詞を付けて《ト・エントス》という形で「内側、内部」という名詞として用いられます(マタイ二三・二六)。ここでは変則的に前置詞として用いられており、「あなたたちの内に」という表現になっています。
 この文の述語動詞は「ある」《エイミ》という動詞の現在形です。それで、この文を素直に聴けば、「神の支配はあなたたちの内に(現に)あるのだ」という意味になります。ただ、この「あなたたち」をここでの対話の相手であるファリサイ派の人たちと理解することはできません。ファリサイ派はイエスの批判者であり、イエスの「神の国」告知を拒否した人たちですから、このような人たちの「内に」神の支配があるとは言えません。したがって、この「あなたたち」はイエスが語りかける人間一般を指すとして、神の支配は人間の内面の出来事として現にあるのだ、という意味になります。
 ところが、神の国とか神の支配を人間の内面に限定するのは、イエスの「神の国」告知の性格に合わないとして、ここの《エントス》を「の間に」という意味に理解し、あなたたちのただ中に現れたイエスにおいて神の支配の現実が来ていると言っておられるのだ、と解釈する傾向が最近出てきています。この文の正確な意味については、後続する弟子たちへの言葉(二二〜三七節)や、福音書全体におけるイエスのこの問題についての発言、さらにルカの立場などを総合して考えなければならないので、この段落の最後の「補説」で触れることにして、ここではファリサイ派の人々の質問への答えとしての意義に限定します。

《エントス》の訳は、旧い伝統的な翻訳では「の内に」、新しい翻訳では「の間に」とする傾向があります。たとえば英訳では、within you (KJV), in the midst of you (RSV), among you (NRSV―欄外にwithin you)。 邦訳では「汝らの中(うち)に」(文語訳)、「あなたがたのただ中に」(協会訳)、「あなたがたの間に」(新共同訳)、「あなたたちの(現実の)只中に」(岩波版佐藤訳)。

 ファリサイ派の人たちが「神の国はいつ来るのか」ということを問題にするのは、神の支配の現実は「見える形で来る」、すなわち「『ここにある』『あそこにある』と言える」形で来ると考えているからです。すなわち、神の支配は何らかの歴史的出来事として起こるものだと考えているから、それがいつ起こるのかが問題になります。しかし、イエスが告知される神の支配は、そのような歴史的出来事として起こるものではなく、「あなたたちの内にある」現実であるから、それが「いつ」起こるのかという問いは成り立たず、また必要でもないとされます。イエスの答えは、ファリサイ派の人々の質問そのものが見当違いであることを指摘しているのです。イエスはこの答えで、彼らの神の支配についての立場が間違っていることを指弾されているのです。イエスと批判者との対話においては、しばしばこのように質問者の立場そのものの間違いを指摘する答えがなされています。

稲妻がひらめくように

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。(一七・二二)

 このファリサイ派の人々との問答は、他の人たちも一緒にいる公開の場で行われたものと推察されますが、その後で弟子たちだけとおられる時に、イエスは弟子たちにこの問題についてさらに重要な秘密を語り出されます。この弟子たちへの語りかけにおいては、「神の国が来る」ことではなく、「人の子が現れる」ときのことが語られます。
 弟子たちに語られたイエスの言葉は、直訳すると「あなたたちは人の子の日々の一日を見たいと願う日々が来るであろう。そして、あなたたちは見ることはないであろう」となります。「人の子の日々」という複数形は二六節にも同じ形で出てきます。この複数形の「日々」はどのような時あるいは時期を指しているのでしょうか。この段落には「人の子が現れる日」という単数形も用いられており(三〇節)、そこでは「現れる」という動詞が用いられていて、明らかに「人の子」が天から現れる終末の日を指しています。それに対して二二節と二六節の「人の子の日々」には「現れる」という動詞はなく、三〇節の「人の子が現れる日」と対照的です。それで、単数形の「人の子が現れる日」と複数形の「人の子の日々」はどういう関係になるのかが問題となります。
 この「日々」の用法は、「イエスは、天に上げられる日々が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(九・五一)と同じ用法だと見られます。そこでは、十字架、復活、昇天という一連の出来事が起こる時、あるいはそれらの出来事自体を指しています。イエスは十字架の死も「人の子」に起こる出来事としておられます(二五節)。このような用例からすると、「人の子の日々」というのは、イエスが「人の子」としての役割を果たされる出来事が起こる日々、すなわち十字架、復活、昇天、天からの顕現(来臨)という一連の出来事が起こる日々、あるいはそれらの出来事そのものを指していると考えられます。
 そうすると、「人の子の日々の一日」というのは、これらの出来事が起こる日々の中の一日ということになりますが、神の支配の到来が話題になっているここの文脈では、「人の子」が天から現れて神の支配を地に確立される日、すなわち「人の子が現れる日」を見たいと願う時が来ることを予告されたと理解できます。イエスはやがて世を去り、弟子たちは十字架・復活・昇天によって自分たちのところから去られたイエスが「人の子」として天から現れる日を見たいと切に願う日々を迎えることになるであろうが、「人の子」が現れるのを見ることはないであろう、と言っておられるのです。
 この理解は、ここで「見ることを切望する」と「見ることはない」という形で、「見る」ことが主題になっていることとも整合します。この二二節は、二一節の「神の支配は見える形では来ない」と、二三節の「見よ、あそこだ、ここだ」という人々への警戒の間に囲まれて、見える形での終末の到来を待つことの間違いを指摘する文脈の中にあります。それで、イエスはここで弟子たちに「人の子」の現れを見える形で期待してはならないことを教えておられるのです。そのことが次の二三〜二四節の言葉で明確に語り出されます。

 「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」。(一七・二三〜二四)

 イエスはすでに、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言っておられますが(二〇〜二一節)、同じことを重ねて語られます。「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろう」は、マルコ福音書(一三・二一)に伝えられている「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない」という語録と同じ伝承が用いられていると考えられます。マルコはそれを終わりの日の到来に先立つ大患難の時の出来事とし、メシア僭称者の出現を終わりの日の「しるし」としていますが、ルカは「メシア」を省いて神の支配を歴史的出来事とする表現に変え、「神の国は見える形では来ない」ことを教える対話の中に置いています。そして、そのことをきわめて印象的に語られたイエスの「稲妻の比喩」をこの対話のクライマックスとして用います。
 「稲妻の比喩」(二四節)はマタイ(二四・二七)に並行記事があり、「語録資料Q」から採られたものと見られます。ルカの形は、直訳すると「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子も[彼の日には]そのようであろう」となります。[彼の日には](=人の子の日には)の句は有力な写本になく、底本も括弧に入れています。「現れる」という動詞もありません。この語録は、稲妻を比喩として用い、神の支配が現れるのは時空の枠を超えた出来事であることを指し示しています。
 古代では、稲妻はいつ起こるのか誰も予測することができない出来事、そして人間がコントロールすることができない出来事の代表格でした。それは一瞬の出来事です。しかし、その一瞬の出来事は、地の端から端までを照らし出し、全地をその出来事の中に巻き込みます。このように、稲妻は人間が限られた地域の中で、また日常の時間の経過の中で行っている営みとは全然別種の出来事として起こります。そのように、神の支配も、人間が地上で時間の中で行っている出来事(=歴史的出来事)とはまったく別次元の出来事として起こるのです。この稲妻の比喩は、「神の国は、見える形では来ない」(=時間と空間の枠の中で起こる歴史的出来事ではない)ということを指し示すイエスの重要な比喩です。
 このような性格の出来事を前にして、その日に備えるべきことを、ノアやロトの時代を引き合いに出して説く記事が続きますが(二六節以下)、その前にルカは、人の子がそのような形で(=稲妻のように)現れる前に、この地上では苦しみを受けなければならないことを思い起こさせる語録を置きます。

 「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。(一七・二五)

 イエスはすでに弟子たちに、ご自分が受けることになる苦しみを「人の子」を主語にして語っておられます(九・二二、四四)。ルカはその言葉をここに置いて、終わりの日に栄光の中に稲妻のように現れる「人の子」は、地上で苦しみを受けるイエスに他ならないことを、改めて思い起こさせます。

人の子の日に備えて

 「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。(一七・二六〜二七)

 二六節は直訳すると、「ノアの日々に起こったように、人の子の日々にもまた同じようにあるだろう」となります。ここで「人の子の日々」と複数形が用いられていますが、これは「ノアの日々」の複数形に対応する形であり、共に時代を指しています。そして、「ノアが箱舟に入るその日」に洪水が突如襲って来るまで、人々はそのような危機の時が来ることを意識せず、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという日常の生活に埋没していました。

 「ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった」。(一七・二八〜二九)

 「ロトの日々」にも同じようなことが起こったことが続いて語られます。聖書に親しんでいる者であればよくよく知っている有名な出来事を続けて引用して、世の人々が迫っている危機を自覚せず、日常の安逸に埋没している姿が描かれます。

 「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない」。(一七・三〇〜三一)

 ノアとロトの時代(日々)に起こったことを思い起こさせた上で、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」という警告がなされます。ここでははっきりと「人の子が現れる日」と単数形で、「現れる」という動詞を用いて、その日の出来事が描かれています(三〇節)。突如洪水が襲ってきたように、また突然天から火と硫黄が降ってきたように、その日には人の子が、稲妻が大空の端から端へと輝くように、思いがけないときに突如現れて、世界を裁くことになると警告されます。
 ところが、その日に備えて目覚めていなさいという勧告の部分に、マルコの「小黙示録」にある、差し迫っている戦禍から急いで逃れよという預言的勧告(マルコ一三・一五〜一六)がそのまま用いられています(三一節)。マルコのこの部分は、エルサレム神殿の崩壊を預言されたイエスの言葉の中で、迫っているローマ軍の徹底的な破壊から逃れるために急いで避難するように叫んだ(ユダヤ戦争時の)預言者の言葉が用いられたものと見られますが、その伝承を知っているルカが、それをこの世の安逸に埋没せず、地上の何物にも執着せず、すべてを捨てて「人の子の日」に備えるように説く素材として用いたと見られます。

 「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」。(一七・三二〜三三)
 すべてを捨てて滅び行くこの世界から逃れることの緊急性を指し示す実例として、ルカはロトの妻のことを思い起こさせます。ソドムの町がその悪行のゆえに天からの硫黄の火で焼き滅ぼされた日、ロトは主の御使いに連れ出されて、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と命じられます。ところが一緒に逃げた「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」と語り伝えられています(創世記一九章、とくに一七、二六節)。
 この後ろを振り返ったロトの妻のように、地上の命に執着して、それを維持することだけに汲々とするものは、結局滅び行くこの世界と共に滅んで命を失うことになるが、来たるべき「人の子」の日に備えて、この世の命を失うことも辞さないものは、かえってその地上の命を豊かに生き、最後には永遠の命に達するのだという、命の逆説が語られます。この命の逆説は、もともと苦しみを受ける人の子に従う弟子の心構えを説かれたときに語り出されたものでしょうが(マルコ八・三五)、ルカはその語録をマルコと同じく受難を告知された時にも用いていますが(九・二四)、「人の子の日」に備えることを説く文脈でも用います。

 「言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される」。(一七・三四〜三五)

 稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように、人の子が現れる日に地上に起こることが、印象深く語られます。この語録の二人の男と二人の女は、外から見ればまったく同じように見え、また同じような状況にあっても、目には見えない「人の子」との関わり方によって、まったく別の定めに渡されることを指し示しています。「連れて行かれる」と「残される」が何を意味するかが議論されていますが、「人の子」が天から現れて御自身に所属する民を集められるということが語られているこの文脈では、「連れて行かれる」は「人の子」のもとに集められることを意味し、「残される」は地上に残されて滅びに渡されるという意味であるとしなければなりません。「人の子」が現れる日には、そのような性質の出来事が起こるのであるから、地上の生活に埋没せず、「人の子」が現れる日に備えているように説き勧める語録となっています。

トマス福音書(六一・一)に「二人の男が一つ寝台に休んでいるならば、一人が死に、一人が生きるであろう」という語録が伝えられています。この語録はルカの文によっている可能性もあり、トマスの文を根拠にしてルカの文を解釈することはできません。しかし、トマスの語録の存在は、ルカの文が最初期にはこのように解釈されていたことを指し示しています。

 [畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される]。(一七・三六 異本による訳文)

 二人の男の場合は、マタイ(二四・四〇)では「畑にいる」となっているので、それに合わせた文が挿入されたものと見られます。底本は[ ]に入れています。

 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」。(一七・三七)

 これも解釈が難しい語録です。第一の困難は、弟子たちの質問の意味です。イエスがはっきりと「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言っておられるのに、「それはどこで起こるのですか」という質問は何を訊ねているのかという問題です。人の子は稲妻のように現れると言っておられるのですから、人の子が現れるのはどこですかという質問はありえません。強いて推察すれば、ノアの時の大洪水やロトの時の天からの火と硫黄のような終わりの日の大災害が起こるのはどこですかと訊ねていると考えられます。
 第二の、そして主要な困難はイエスの謎の言葉です。イエスは弟子たちの「どこで」という質問には答えず、謎の言葉《マーシャール》を語られるだけです。この困難な謎の言葉にはずいぶんと多くの解釈が提案されており、その一つ一つを検討するゆとりはないので、ここでは文脈から理解するように努めます。
 イエスの「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」という謎の言葉で、「死体」と訳されている原語は《ソーマ》(体)です。並行するマタイ(二四・二八)では「死体」を指す語《プトーマ》が用いられているので、また内容からも当然、ルカの《ソーマ》は「死体」と訳されています(《ソーマ》には死体という用例もあります)。どちらも単数形で用いられているので、この言葉が与えるイメージは、戦場などで累々と横たわる死体の上にはげ鷹(複数形)が集まってくるというものではなく、死体が一つあればそこにははげ鷹が集まってくるものだという原理を述べていることになります。
 「神の国」は見える形では来ない、あるいは「人の子」は稲妻のように現れることを主張するこの段落の文脈からすれば、その結びとなるこの謎の言葉もその線上で解釈されなければなりません。マタイ(二四・二七〜二八)では、稲妻の言葉とはげ鷹の言葉は続いていて、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」となっています。弟子の質問に対する答えではなく、「人の子」が稲妻のように現れることと直接結びつけられています。すなわち、はげ鷹の言葉は稲妻の言葉の比喩による確認となっています。死体のある所にはげ鷹が集まるのは確実なように、このような腐臭を放つ世界に「人の子」が稲妻のように現れて、最終的な神の裁きを行うのは避けられないと言っていると理解できます。
 ルカでは弟子たちの質問に対する答えとして、なおそれが起こる場所のことを考えている弟子たちの誤りを指摘するために、イエスはこの謎を語り、「人の子」が稲妻のように現れて世界を裁くことになる必然性を確認されたとしなければなりません。

Robinson et al., "The Critical Edition of Q"は、ルカ福音書に現れる順序に従って配置するという原則を破って、この「はげ鷹の言葉」を「稲妻の言葉」の直後に配置しています。すなわち、マタイの配列を「語録資料Q」のオリジナルに近いとしています。