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98 律法と神の国 (16章14〜18節)

人に尊ばれるもの

 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。(一六・一四)

 この段落の困難な問題点は、全体としてはこの世の富に対する姿勢とか心構えを説く一六章の真ん中に、このような律法に関する語録が置かれているのはなぜか、という問題です。この問いに対する答えは、この段落の終わりに改めて取り上げますが、ここでは差し当たって、「金に執着するファリサイ派の人々」という表現が、この段落を富に関する一六章の中に組み入れていることを見ておきます。
 弟子たちに世の富に対する心構えを説かれたイエスの言葉(一〜一三節)を傍で聴いていたファリサイ派の人々が、イエスを「あざ笑い」ます。この動詞は、ここと議員たちが十字架につけられたイエスをあざ笑ったところ(二三・三五)の二カ所だけに用いられています。彼らは「金に執着する」者たちであったので、イエスが弟子たちに説かれた、富にではなく神に仕える生き方を嘲笑します。現在でも、イエスに従おうとする弟子の生き方を、世の人たちは非現実的だとか、世間知らずと嘲笑します。
 ファリサイ派の人々がイエスをあざ笑ったのは、彼らが「金に執着する」者であったからだと、その理由が示されています。当時のユダヤ教諸派の中でファリサイ派がとくに金銭欲が強かったことを示す資料はありません。ここではそういう意味ではなく、表面は宗教熱心(律法熱心)を看板にしているファリサイ派の人々が、人間としての本性的な自己愛からくる金銭への執着を免れてはいず、イエスの言葉に反発したことを指していると考えられます。

 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。(一六・一五)

 イエスは嘲笑するファリサイ派の人々の実態を見抜いておられます。彼らの律法熱心は周囲の人々に自分の義を見せびらかすためのもので、その内面において、すなわちその「心」において、自己愛からくる金への執着を断ち切ってはいないことを、イエスは見抜いておられます。それを「神はあなたたちの心をご存じである」と表現されます。
 「神は(外面ではなく)心を見る」というのは、旧約聖書の基本的な神理解の一つです(サムエル記上一六・七、列王記上八・三九、詩編七・一〇、箴言二一・二など)。イエスは、このイスラエル本来の神理解から、当時のファリサイ派の人々を人間の前で自分を義とする者だと、彼らの在り方を痛烈に批判されます。このイエスのファリサイ派批判は弟子たちに引き継がれ、後に(とくに七〇年以後に)ファリサイ派がユダヤ教を代表するようになったとき、キリスト信仰共同体がユダヤ教会堂を「偽善者」と決めつけて激しく批判するようになります(たとえばマタイ二三章)。
 最後の文で、「人に尊ばれるもの」は、この文脈では富を指しているようにも見えますが、「神は心を見られる」という原則からすると、神が忌み嫌われるものは富そのものではなく、富によって人から尊ばれることを求める人間の心(虚栄)であり、人から尊ばれることで自分が価値ある者だとする傲慢、あるいは人に尊ばれるために「人に自分の正しさを見せびらかす」偽善であると言えます。

もし「金持ちとラザロ」のたとえ(一九〜三一節)が一五節にすぐに続いておれば(内容的によく続きます)、一六章はすべてルカの特殊資料とルカの編集句で構成される一貫性のある章(世の富に関する章)となります。ところが一五節と一九節の間に、「語録資料Q」から採られた三つの語録(一六節、一七節、一八節)が入れられており、解釈を困難にしています。なぜこの三つの語録が世の富に関する区分の中に入れられているのかという問題と、この位置における三つの語録の意味が解釈困難です。以下において、一応それぞれの語録の解釈を試みます。、

「神の国」が告知される時代

 「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。(一六・一六)

 一四〜一五節はルカだけにあるファリサイ派の人々との対話ですが、この一六節はマタイ(一一・一二〜一三)に並行記事があり、「語録資料Q」から採られたものと見られます。しかし、ルカの文はマタイの文とかなり違っており、ルカの文だけで聴くと比較的理解しやすいのですが、マタイと較べると困難な問題が生じます。ルカの文の意味を理解するために、はじめにマタイの文と比較して見ます。マタイではこうなっています。

 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。(マタイ一一・一二〜一三)

 マタイの文は、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言って、イエスが群衆に洗礼者ヨハネについて語られた言葉の中に置かれています。この文で「力ずくで襲われている」と訳されている《ビアゾマイ》という動詞の意味が問題です。《ビアゾマイ》は《ビアゾー》(暴力をふるう)という動詞の受動態で「暴力を受ける」という意味です。ところがこの動詞の主語が「天の国」(=「神の国」)ですから、天の国が暴力を受けるという意味は理解しがたいとして、この動詞形を自動詞的な意味で用いられる中動相として、「力をふるっている」とか「力をもって突入している」と理解する解釈があります。

この解釈の一例として、織田『ギリシア語新約聖書小辞典』の解説をあげておきます。この辞典はここを、「王なる神の御支配という出来事が激しい勢いで進み始めている。受ける人もまた奪い取る熱意と激しさで受け始めている」と解説しています。この方向の解釈は、(すぐ後に見る)ルカの理解の線上にあり、ルカの文との整合性を図る解釈であると見られます。

 しかし、この解釈は、続く文の「暴力をふるう者《ビアステース》がそれ(天の国)を奪い取っている」という文と整合しません。暴力的に突入してきている「神の国」を暴力的に奪うということは整合しません。第一の文と第二の文の「暴力をふるう」者は同じとするのが自然です。それに、《ビアゾー》(暴力をふるう)という動詞は、つねに敵対的な暴力とか攻撃・非難を意味していますから、「神の国」が暴力をふるうというのも、暴力をふるう者が「神の国」に入るというのも不自然です。
 ここはやはり理解困難な訳ですが、「暴力をふるう」という敵対的な暴力を指す語をそのまま訳し、「天の国は暴力をふるわれている。そして、暴力をふるう者がそれを奪っている」と直訳するのが適切でしょう(岩波版佐藤訳を参照)。するとこの文は、「彼(洗礼者ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで」、すなわちイエスの時に至るまで、「神の国」を告知する活動は激しく暴力的に攻撃されており、暴力的に攻撃する者が、(ヨハネやイエスが告知する)神の国を民から奪い取っている、という意味になります(動詞は現在形)。
 このイエスの言葉を伝承したQ共同体も、周囲のユダヤ教社会から激しい反対を受けていました。彼らにとって「今に至るまで」は、自分たちの時代までを意味したことでしょう。「語録資料Q」は洗礼者ヨハネとイエスを共同の戦線に立つ同志として描く傾向があります。洗礼者ヨハネの告知とイエスの「神の国」告知は、同じ終末的成就の時期における出来事とされます(もちろん、その中でヨハネは先駆者であり、イエスこそ成就者であるという面も強調されています)。Q共同体にとっては、洗礼者ヨハネが活動し始めた時から自分たちの今に至るまでは同質の時、終末的成就の時であり、その時期には「神の国」告知の活動は激しい攻撃にさらされており、「神の国」告知は暴力的に奪取されています。マタイはこの語録をそのように理解して、イエスが(権力者の暴力を受けて投獄されている)洗礼者ヨハネについて語られた講話(マタイ一一・七〜一九)の中に組み入れて伝えています。
 一方ルカは、「語録資料Q」にあるこの語録をかなり書き換えて理解しやすいようにし、別の文脈に置いています。マタイではなくルカが書き換えたことは、第一の「神の国」を主語とする文で、マタイの「暴力をふるわれている」という動詞とルカの「福音されている」という動詞を較べれば明らかです。「福音する」という動詞はパウロ系の福音活動において用いられる動詞であって、Q共同体では用いられていません。終末的な救済を告げ知らせる活動を、「福音」とか「福音する」という用語を中心に据えて語ったのはパウロであり、パウロなき後エーゲ海地域でパウロの働きを継承したパウロ系の共同体です。パレスチナ・シリアの地で活動したQ共同体には疎遠な用語です。「語録資料Q」には用いられていません。パレスチナから遠く離れ、もはやQ共同体の状況と関わりのない状況で異邦人に向かって著作しているルカは、この理解しがたくなっている語録を、読者に理解しやすい表現に書き換えます。「神の国」は「暴力を振るわれる」のではなく、「(力をもって)福音される」のです。「神の国」はイエスによって力ある業をともなって福音されているのです(四・四三)。
 それに伴って第二の文も書き換えられます。「暴力をふるう者」という主語は「すべての者」となり、「奪い取っている」という動詞はなくなり、代わりに「暴力をふるう者」という名詞が「暴力をふるう」という動詞形で用いられ、しかも「それ(神の国)の中へ」という方向を示す句を添えて用いられて、「(力ずくで)神の国に突入している」という意味になっています。

共観福音書やその他の資料を厳密に比較検討して「語録資料Q」の原文を復元しているRobinson et al., "The Critical Edition of Q"は、この箇所の原文を次のようにしています(英訳)。それはほぼマタイの文に近い形です。
 " The law and the prophets (were) until John. From them on the kingdom of God is violated  
 and the violent plunder it. "

 こうしてルカの文は、「神の国」の福音が力強く告知され、すべての者、すなわちすべての民族の異邦人たちが、困難な状況にもかかわらず熱烈な信仰をもって「神の国」に入ってきているルカの時代の状況を描く文になります。そして、このルカの理解がその後のキリスト教会の理解に決定的な影響を及ぼします。マタイの方も、このルカの理解の線上で解釈され、(先に見たように)「神の国は暴力をふるわれている」は「神の国は力をふるっている」とか「神の国は力をもって突入している」と解釈され、後半の「激しく襲う者がそれを奪い取っている」は、「激しく(=熱心に)追求する者が神の国に入っている」と解釈されます。
 この理解の仕方の違いと関連して、洗礼者ヨハネの救済史上の位置についても、マタイとルカでは違いが見られます。ルカは「律法と預言者は、ヨハネの時までである」とし、「その時から(イエスによって)神の国の福音が告げ知らされ」、新しい時代が始まったとしています。すなわち、ヨハネまでの律法と預言者の時代と、イエスから始まる終末的成就の時代を区別しています。それに対して、マタイは「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで」、すなわち洗礼者ヨハネの活動の時期からイエスの時代、またマタイの時代までを、同じ終末的成就の時代に含ませています。その上で、「すべての律法と預言者が預言したのは、ヨハネの時までである」として、ヨハネまでの時代をイエス到来の預言とし、ヨハネを最後の預言者エリヤであると意義づけています(マタイ一一・一二〜一四)。

「その時から」という句は、字義としては「ヨハネの時から」と理解できますが、そうすると「神の国の福音が(ヨハネとイエスの両者によって)告げ知らされている」ことになります。それは、「律法と預言者はヨハネの時までである」という、ヨハネとイエスの救済史上の位置を対比している文と整合しません。ここは、「律法と預言者はヨハネまで。イエスから新しい成就の時が始まる」と理解すべきでしょう。マタイが「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで」と一体に扱っているのは迫害についてであって、救済史上の位置については「すべての律法と預言者が預言したのはヨハネの時までである」と別にしています。

 「神の国は力をもって突入している」という理解は、われわれのイエスの「神の国」告知の質の理解と合致し、「激しく(=熱心に)追求する者が神の国に入っている」という宣言は説教の主題として魅力的です。しかし、福音書のテキストの理解は、ここで不十分ながら試みたように、マタイとルカのテキストを厳密に比較検討してなされなければなりません。その上で、このイエスの語録が現代に語りかける内容を議論することが可能になります。
 ところで、伝承された語録をルカのように書き直して理解しやすいようにした場合、イエスの「神の国」告知の基本的な内容との整合性が問題になってきます。イエスは「神の国」を終末的な恩恵の支配の到来として告知されました。イエスの「神の支配」の告知では、圧倒的な恩恵の支配が人間の側の状況や条件を吹き飛ばして、イエスを信じ、ひれ伏して恩恵を受ける者を無条件に受け入れ、「貧しい者は幸いだ。神の国はあなたたちのものだ」と宣言されます。このようなイエスの「神の国」告知に対して、この語録のルカの理解はどのような関係になるのでしょうか。ルカによるとこの語録は、力を尽くして(原文では「暴力をふるって」)神の国に入るように促しています。これは、イエスの恩恵の支配の告知と方向が逆のように感じられます。
 しかし、イエスの「神の国」告知には、力のない者(無能力の者)を無条件で受け入れる恩恵の面と共に、「神の国」の現実に入ることの難しさを語る言葉もあります。イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言っておられます(一三・二四)。ここに用いられている「努める」という動詞《アゴーニゾマイ》は、競技のとき力を尽くして奮闘することを指す動詞で、パウロはよく用いていますが(コリントT九・二四〜二七など)、福音書ではここだけです。また、イエスは「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたとも伝えられています(マルコ一〇・二四)。
 この両面、すなわち「神の国」は無条件の恩恵の支配であるから誰でも入ることができるという面と、「神の国」に入ることの難しさの両面は矛盾しません。「神の国」は誰でも入れるのですが、この地上で「神の国」の現実を歩み抜いて、それを全うして終末的な「神の国」の栄光に到達することは困難な課題であり、それに達するためには、競技選手が力を尽くして奮闘するように、身を挺して努めなければならないのです。このことをパウロはこの《アゴーニゾマイ》という動詞を用いて繰り返し語っています。「狭い門、細い道」(マタイ七・一三〜一四)の語録も、この難しい面を語っています。
 ただ、ルカ一六章一六節の場合、《アゴーニゾマイ》ではなく「暴力をふるう」という動詞が用いられているので、ここはやや不自然な表現になっていることは否定できません。直訳すると、「すべての者が神の国の中へと(神の国の方へと)力をふるっている」となります。「暴力をふるう」という動詞を使ったのは、依拠した元の語録の動詞を生かすためであったと考えられますが、そのために不自然な表現になっています。このことを理解した上であれば、ルカの書き換えも受け入れることができます。

律法の位置

 「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」。(一六・一七)

 前節(一六節)で、律法はヨハネの時までであり、その後では(イエスによって)神の国が福音されていると宣言した後を承けて、本節で、それでは律法は(「神の国」の福音が告知されているところでは)もう意味が無くなったのかという問題、福音と律法の関係の問題が取り上げられます。
 ルカは「しかし」という小辞で、前節の誤解を防ぐ文を導入します。前節は、ヨハネの時までは律法は有効であったが、イエスによって「神の国」の福音が告知されている今は、もはや律法は必要がないと理解される可能性があります。それに対して、ルカは「語録資料Q」の語録を用いて、律法が永遠に有効であることを宣言します。
 この言葉はマタイ(五・一八)に少し違った形ですが並行記事があり、「語録資料Q」から採られています。Q共同体が伝承したこの語録は、ユダヤ教内キリスト信仰のユダヤ人共同体がユダヤ教律法に対して抱いている確信としては当然であり、その流れを汲むマタイがそれを基本的な立場として宣言するのも自然ですが、ルカの場合はどういう意味を持つのでしょうか。ルカは、律法の外での救済を唱えて異邦人の間に福音を告げ知らせたパウロの流れに属する者であり、ユダヤ教の枠の外でキリストを信じて生きている異邦人のためにこの福音書を書いています。そのルカがマタイと同じように、律法の永遠性を宣言する語録を採り入れていることは、どう理解すればよいのでしょうか。
 第一に考えられることは、ルカの歴史家としての誠実さです。ルカは各地を巡り歩いてイエスに関わる伝承を集め、それを資料としてできる限りイエスの出来事に忠実な物語を書こうとしました。その中に「語録資料Q」があり、その中に伝えられているイエスの語録は残らず伝えようとします。前節の書き換えに見られるように、ルカは読者である異邦人信者に、あるいは周囲のヘレニズム世界の知識人に理解されやすいように変更を加える場合もありますが、「語録資料Q」を資料として用いる限り、律法に関わるユダヤ人の確信や、「人の子」に関する黙示思想的な語録など、異邦人には縁遠い語録や思想も忠実に採り入れることになります。
 第二に、パウロの時代と状況が大きく変わっているという事実があります。パウロは、異邦人信者に割礼を求めるユダヤ主義者と生涯戦わなければなりませんでした。そのためパウロは、ユダヤ教律法が相対的なものである(救いのために絶対的に必要なものではない)ことを激しく主張しなければなりませんでした。しかし、七〇年以後は状況が変わります。ユダヤ教内キリスト信仰の牙城であるエルサレム共同体は舞台から退場し、異邦人信者に割礼とかユダヤ教律法の順守を要求する勢力はなくなります。ユダヤ教律法との葛藤は消滅します。異邦人が救済史の担い手となる「異邦人時代」が始まっています。この時期に成立したコロサイ書やエフェソ書には、律法という用語さえ出てきません。
 ルカはこの時期の最後の頃に著作しています。もはや異邦人共同体にユダヤ教化を求める勢力はなく、むしろ異邦人信者が周囲の異教社会の悪習に逆戻りしたり埋没しないように、ユダヤ教の高い倫理性を受け継ぐことが目指されるようになります。そのことは、この時期のキリスト信仰を証言するコロサイ書やエフェソ書がよく示しています。
 こうして、パウロの時代にはパウロを批判する勢力のスローガンであった律法の永遠性を宣言する語録も、今や異邦人共同体にユダヤ教の高い宗教倫理を要求する根拠として用いることができるようになっています。ユダヤ教律法は、聖書の神が人間に求めておられる在り方を啓示するものとして尊重されます。その中でとくに強調されたユダヤ教宗教倫理は、偶像礼拝を避けることと性関係における秩序です。そのような文脈で見ると、次節の離縁に関する語録が唐突にここに置かれている理由も理解できます。それは、ユダヤ教律法が求めている異教世界とは異なる高い倫理の一つの実例なのです。

離婚について

 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。(一六・一八)

 最初期の共同体が生活していた異教のローマ社会では、性関係は乱れ、離婚はごく日常的な出来事でした。その中でキリスト者共同体は、ユダヤ教の性倫理を継承して厳しい姿勢を維持しました(ローマ一・二四〜二八参照)。この離婚して再婚する行為を姦通の罪とする語録は、「神の国」の福音の場でもユダヤ教律法がいっそう厳格に適用されることを主張しています。それは、前節の律法の永遠性の宣言の具体例です。
 ユダヤ教律法(=モーセ律法)は、夫が妻に離縁状を渡して離縁することを認めていました(申命記二四・一〜四)。ただ離縁する理由についてラビたちの間で論争があっただけです。しかし、律法学者がこの律法規定を持ち出して離縁について質問したとき、イエスはこう答えて、離縁はあってはならないこととされました。

 「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。(マルコ一〇・五〜九)

 この「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というイエスの言葉によって、キリスト者共同体は離婚をあってはならないこととしてきました。それは、一定の理由で離婚を認めるモーセ律法との違いを示しています。その違いは、律法の場と恩恵の場の違いです。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」というイエスの言葉が示しているように、離婚を認めるモーセ律法は(そしてどの国の法律も)、人間本性の「心のかたくなさに向かって」(直訳)、すなわち、人間本性の自我心から生じる悲惨な状況の中で、正義を守り、秩序を維持し、弱い女性や子供を保護するために書かれているのです。それに対してイエスは、恩恵によって人間本性の自我性を克服して生きる場で起こることを語っておられます。その場では創造者なる神が二人を結び合わせてくださっているのだから、その結びを人間が切り離すことはありえないのです。

離婚に関するイエスの言葉が、律法の場と恩恵の場の違いを語っているものであることについて詳しくは、拙著『マルコ福音書講解T』
396頁以下の「離婚について」の項を参照してください。ここではその要旨を引用しています。

 離婚についてのルカ福音書のこの記事(一六・一八)の最大の問題点は、(他の福音書の並行記事との用語や表現の違いではなく)離婚に関するイエスのこの原理的な言葉を含む段落(マルコ一〇・二〜九)を全部省略し、伝えていないことです。マタイ(一九・三〜一二)はマルコの記事を用いています。ルカには、マルコでは弟子たちに後で語られた言葉(マルコ一〇・一〇〜一二)だけが、少し違った形であるだけで、離婚をありえないこととして原理的に否定するイエスの言葉はありません。

ルカはこの語録をマルコからではなく「語録資料Q」から採っていると見られます。Robinson, "The Critical Edition of Q"は、マルコにも並行記事があるこの語録を「語録資料Q」のものとして扱いQの原文を復元していますが、それはルカの形と同じです。

 恩恵の場ではありえない離婚も、現実の人間生活では問題として起こってきます。キリスト者共同体に所属する者も、様々な過去と状況を背負っています。信仰に入ったがゆえに夫婦間に決定的な亀裂が入る場合もあります。そのような現実に対して、すでにパウロは現実的な指針を与えています(コリントT七・一〇〜一六)。このような実際的な状況に対応するために、共同体は成員の結婚や離婚に関する指導を法文として整備するようになります。それが伝承されて、現在各福音書に保存されているような離婚に関する規定となって伝えられることになります。ルカのこの箇所(一六・一八)も、その一つの場合です。

離婚を禁止する法文は、マルコ一〇・一一〜一二、マタイ五・三二、一九・九、ルカ一六・一八にあります。それが各福音書に現在のような形で記録されるに至るまでの伝承過程はきわめて複雑で、ここで取り上げることはできません。ただ、マルコが妻が夫を離縁するというローマ社会特有の状況を示していることや、マタイが「《ポルネイア》の場合を別にして」というようなラビ的な例外規定をつけていることなど、その成立の場を反映していることだけを指摘しておきます。詳しくは拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』180頁の「離婚に関する福音書の記事」の項を参照してください。

 ルカはマルコを資料として用いています。そうすると、マルコ(一〇・二〜九)にある離婚に関するイエスの重要な発言をなぜ伝えなかったのかが問題になります。その理由を理解することは困難ですが、あえて推察すると、最初期共同体は恩恵の場で成り立つイエスの離婚否定の言葉の真意を理解できず、それを律法的に(共同体の法文として)理解したため、それに耐えられず、例外規定を付け足したり、特定の場面に限定したり、様々な制限をつけて福音書に保存したのではないかと考えられます。ルカの場合は、妻を離縁して他の女と再婚する男性(ギリシア教父にはここを「他の女と再婚するために妻を離縁する者」と解釈する人もいるということです)、および離縁された女性を妻とする男性というように、男性の特別の場合に限定しています。そのように限定するために、離婚を全面的に禁じたと受け取られていたイエスの言葉を省いたのではないかと推察されます。
 そうだとすると、わたしたちは恩恵の場に生きる者として、「神が合わせられたものを、人が離すことはありえない」とされたイエスの言葉の現実に生きるべきであって、その現実の場以外のところで起こる悲劇、離婚せざるをえないような人間関係の亀裂は、「人の心のかたくなさに向かって」立てられた社会の法律に委ねざるをえません。