市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第35講

93 塩気のなくなった塩(14章34〜35節)

 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい」。(一四・三四〜三五)

 この塩のたとえはマルコ(九・五〇)にもマタイ(五・一三)にもあります。新共同訳はこれを独立した段落にしていますが、内容と位置からすると、これは二五節から始まる「弟子の覚悟」を語る段落の結びとして、その段落に含ませる方が適切です。
 塩は防腐のために、また食物の味付けのために有益です。ここでは塩がその味付け作用の面から見られています。塩は他の食材の味付けに用いられますが、もしその塩自身が塩味を失うことがあれば(それは普通ありませんが、そういうことがあるとすれば)、塩自身を味付けるものは他にありません。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけとなります。
 これは、イエスの弟子がここに求められている覚悟とか決意を持たないならば、この世で何の役にも立たない者になるということの比喩です。このすべてを捨てる覚悟が、イエスの弟子を「地の塩」ならしめる塩味なのです。キリスト者は、この世にありながらこの世とは別の原理で生きます。この世での成功と栄光を求めることなく、父の御旨を行うことだけを求めて生きます。このように世を捨て、世に死んで生きる民が、この世界の腐敗を防ぎ、生きる意義と喜びを指し示す民、「地の塩」となるのです。