市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第34講

2 弟子の条件(14章25〜33節)

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。(一四・二五)

 議員の家での宴会が終わり、イエスが外に出て旅を続けようとされたとき、大勢の群衆が後についてきます。先にこの議員の家がガリラヤではなくユダヤにある可能性があることを指摘しましたが、もしそうであれば、群衆はイエスがエルサレムにお入りになると何か大いなる出来事が起こると期待してついてきたと考えられます。たとえこれがガリラヤでの出来事であるとしても、この記事が「旅行記」に入れられているのですから、神の力で大きな働きをしておられるイエスがエルサレムにお入りになれば、メシア的な大きな働きをしてイスラエルを回復されるのではないか、と期待してついてきたと見ることも許されるでしょう(一九・一一参照)。弟子たちもそのような期待をもってイエスについてきたのです(マルコ一〇・三五〜三七)。
 イエスは振り向いて、そのような期待をもってついてきた大勢の群衆に向かって、弟子としてイエスについてくることが何を意味するのかを語り出されます。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。(一四・二六)

 この語録はマタイ(一〇・三七)に並行記事があり、「語録資料Q」から採られています。ただマタイの文は簡潔で、「妻、子供」と「自分の命」がありません。また「兄弟、姉妹」ではなく「息子、娘」となっています。形は少し違いますが、イエスが言おうとされていることは同じです。イエスに従うには、一度はこの世の人間関係の絆を断ち切る決意が必要です。自分の命さえ惜しまない覚悟が必要です。その決意と覚悟が「憎む」という動詞で表現されています。

このイエスの言葉は、家族の絆を破壊するものとして世間から激しい反発を招きました。現代のカルト的宗教が青年を家族から引き離し隔離された閉鎖集団に引き込むことと並べて、非難の的となりました。この点については拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』145頁の「平和でなく剣を」の項を参照してください。

 イエスは、エルサレムでは苦しみを受けることを覚悟しておられます。そのイエスに従う者は、イエスと共に、イエスが受けられた苦しみを受ける覚悟が必要です。イエスはこの世では見捨てられ十字架につけられて殺された方です。イエスに従うとは、この世で栄光を受ける道ではなく、イエスと共に苦難を受ける道です。その苦難の中に、この世でもっとも貴重なもの、家族との情愛や自分の命を失うことが含まれます。その苦難を引き受ける覚悟がなければ、イエスに従っていくことはできないのです。その苦難を引き受ける覚悟が「自分の十字架を背負ってついて来る」という形で表現され、次の語録となります。

 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。(一四・二七)

 この語録は、前の語録と共にマタイ(一〇・三八)に並行記事があります。これと同じ内容の語録がマルコ(八・三四)にもあります。ルカはすでにこの語録を、マルコに従って構成した第一部の最後(九・二三)で用いています。そこでは、マルコにはない「日々」が加えられ、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」となっています。これは「主の祈り」の中のパンの祈りで、マタイの「今日お与えください」が「日々お与えください」となっているのと同じく、ルカは、キリストの民は差し迫った来臨を期待するのではなく、これから歴史の中を歩まなければならないという理解で福音書を書いていることの表れでしょう。

この語録について詳しくは、九・二三について講解した拙著『ルカ福音書講解T』419頁の「十字架を負って従え」の項を参照してください。内容は同じですが文型が違うのは、二六節との並行関係から、「〜しないならば、わたしの弟子ではありえない」の形に揃えるためであると考えられます。

 「十字架を背負う」は、十字架につけられる殉教の死ではなく、自分の死の場である十字架の木を背負って、同胞の敵意と侮蔑の中を日々生きていく姿を指しています。そのような生涯を覚悟するのでなければ、イエスの弟子としてついていくことはできないのです。そのことが、「塔を建てようとする人」と「戦いに臨む王」の二つのたとえで語られます。この二つのたとえは、マルコにもマタイにもなく、ルカの特殊資料から採られています。ルカはこの特殊資料の二つのたとえを用いるために、この段落の場面を構成したのかもしれません。

 「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」。(一四・二八〜三〇)

 「あなたがたのうち、〜しない者がいるだろうか」という問いかけの形は、「もちろんそんな者はいない」という答えを期待しており、このたとえでは「塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算する」ことが必要であることを、印象深く訴えています。「塔」は、「あなたがたのうち」のある者が建てる塔ですから、城壁の砦の塔ではなく、せいぜい市場とかぶどう園の見張りの塔程度のものでしょう。それでも塔を建てるとなると、しっかりした土台を築かなければなりません。もし土台を築いたことろで資金がなくなれば、本体の塔を完成することはできず、残された土台が、かえってその人の無思慮を人目に曝し、嘲笑を招くことになります。

 「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」。(一四・三一〜三二)

 さらに同じ主旨のたとえが、同じ「〜しない者がいるだろうか」という問いかけの形で語られます。このたとえでは「ほかの王と戦いに行こうとする王」が主人公です。戦いに臨む王は、戦う前に勝算を冷静に判断して、勝算がなければ講和の使節を送って戦いを避けるはずです。そうしなければ破滅します。
 この二つのたとえは、「からし種」と「パン種」の二つのたとえのように、一対のたとえとして伝承されていたと考えられます。この二つのたとえは、先行する二つの語録、すなわち世の絆を断ち切る覚悟と十字架を背負う覚悟を求める語録をたとえで補強するものです。もしその覚悟がなくてイエスに従おうとするならば、土台を築いただけで塔を建てることができなかった人のように、世の物笑いとなるだけであり、勝算なく戦いをして破滅した愚かな王と同じだというのです。このような二つのたとえの主旨が次の節で明白に語られます。

 「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。(一四・三三)

 「同じように」という語が、この文が二つのたとえの主旨であり結論であることを指しています。従って、この文は先の二つの語録のまとめでもあります。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」覚悟と、「自分の十字架を背負う」覚悟が、「自分の持ち物を一切捨てる」という決意でまとめられています。この決意のない者は、二つのたとえの主人公のように、途中で挫折することになり、イエスの弟子としての道を貫くことはできないのです。イエスは、弟子として従おうとする者に、この世の絆を一切断ち切ることを求めておられます。
 この求めを聞いた金持ちの議員は、それができないことを悲しみます。その議員だけでなく、わたしたち人間にはできないことです。では、イエスに従って命の道を歩むのはどうして可能になるのか、この問いはその議員のことを扱う箇所(一八・一八〜三〇)で答えられることになります。