市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第33講

91 「大宴会」のたとえ(14章15〜24節)

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。(一四・一五)

 議員の盛大な食事の宴席で、イエスが食事に招かれる客と招く主人についての勧告を語られるのを聴いた客の一人が、神の国の祝宴に招かれる者の幸いを思ってこう発言します。この人は、イエスの勧告が神の国への招きを指し示す比喩であることを理解したのでしょう。この発言をきっかけにして、イエスは現在行われている神の国への招きを指し示す、さらに一つのたとえを語られます。このたとえは、先に語られた客と主人への勧告の形をとったたとえとは違い、実際的な勧告と誤解する余地のない、実際の社会ではありえない招き方になっています。

 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。(一四・一六〜一七)

 このたとえは、神の国で食事をする人の幸いを賛嘆した発言を承けて語られたものですから、はじめから「神の国」の比喩であることは分かっています。「神の国」が大勢の人を招く宴会の比喩で語られています。そして、「時刻になった」とか「用意ができた」という表現が示唆しているように、これは救済史の面から見た「神の国」の比喩です。天地万物の創造者である神は、御自身に背き悲惨の中に陥っている世界を救済し、最後には大いなる祝祭を祝うために、計画を立て、歴史の中でその準備を進めてこられました。イスラエルの歴史はそのための準備でした。神はイスラエルの民を選び(=招き)、その中で祝祭のための準備を進めてこられました。今や準備が整い、宴会を開く時刻になったので、神は招いておいた人たち、すなわちイスラエルの人たちに御自身の僕(単数形)を遣わして、用意ができた宴会への招きを告知されました。イエスの「神の国」告知は、まさにこのような終末的な祝宴への招きであったのです。イエスの告知は、「時は満ちた。神の国は近づいた」と要約されます。

 「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」。(一四・一八〜二〇)

 ところが、このイエスの告知を聞いたイスラエルの民は、この招きを拒絶したのです。イエスは、ご自身が告知された恩恵の招きを拒否したイスラエルの人たちの姿を、畑を買った人、牛を買った人、妻を迎えた人を比喩として語っておられます。ここにあげられている宴会への出席を断る理由は、イスラエルがイエスの告知を拒否した理由を比喩で示していますが、その一つ一つを寓喩的に解釈する必要はないでしょう。要するにイスラエルは、自分の都合で、すなわちその招きが自分たちの宗教規定に合わないという理由で、神からの終末的な招きを拒否したのです。

「次々に」と訳されている句は、「一つの〜から」という不自然な形で、〜の位置に「声」とか「意見」などの女性名詞が略されている形と理解されます。それで「異口同音に」(岩波版)という訳も可能です。断りの理由は、並行する「トマス福音書」の語録六四と較べると、かなり自由に構成されている様子がうかがわれます。 "The Critical Edition of Q " は、この部分のQの原文を「一人は農園のことで、ほかの人は商売のことで断った」と簡潔な文にしています。

 「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』」。(一四・二一)

 このような事態の報告を受けた主人は怒って、その僕に町の広場や路地へ出て行き、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を宴会に連れてくるように命じます。ここにあげられている人たちは、先に宴会に招く側の主人に、こういう人たちを招くようにと勧告された人たち(一三節)と同じです。このような貧しい人たちは、ユダヤ教社会から疎外された人たちであり、イエスはまさにこういう人たちのところに行って、彼らに恩恵の招きを告げ知らされたのです。このような人たちは、イエスの招きが、ユダヤ教律法の規定に合わないからといって断るようなことはなく、むしろユダヤ教律法の場では罪人として排斥されている人たち、「イスラエルの民」からこぼれ落ちた人々ですから、イエスの恩恵の告知を深い感謝をもって受け取る人たちです。そのような人たちに向かって、イエスは「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」と宣言されます。

 「やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』」。(一四・二二〜二四)

 こうしてイスラエルの中では、イスラエルの宗教を代表する人たちは宴会に来なかったので、イスラエルの中の「貧しい人たち」が招かれて、終末的な祝宴にあずかることになりましたが、まだ席が余っているので、主人は僕に「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。これは、少数の「貧しい人たち」を例外として、イスラエルの民は全体としてはイエスの「神の国」告知を拒否したので、この招きがイスラエル以外の諸国民(=異邦人)に向かうことを指しています(二二〜二三節)。
 イエスが語られた言葉としては、これは将来のこととして預言になりますが、ルカはすでに福音の招きが異邦諸国民に広く告げ知らされていることを知っています。ルカはすでにイエスのガリラヤでの活動の最初にナザレの会堂での出来事を置き、そこでイエスが、時が満ちたこと、イスラエルがイエスを拒否すること、招きが異邦人に向かうことを宣言されたとしています。今この宴席で語られたたとえ話でも、同じことが宣言されています。ルカはイエスの語録を、福音が異邦人に向かうことを預言するような形に構成しています。
 最後に、イスラエルがイエスの招きを拒否したことに対する厳しい言葉が置かれます(二四節)。「あの招かれた人たち」というのは、本来神の国を受け継ぐように招かれたイスラエルを指すはずですが、断らなかった「貧しい人たち」もいるのですから、イスラエルを代表する人たち、契約の言葉である律法を委ねられた人たちを指すと理解せざるをえません。彼らは自分が理解する律法を絶対化して固執し、それに合わないイエスの告知を拒否しました。彼らの中のだれ一人として、「わたしの食事を味わう者」はない、すなわちイエスが告知される神の祝宴の喜び、無条件絶対の恩恵の場で聖霊がもたらす歓喜を味わう者はないと言って、イエスはイスラエルが退けられることを預言されます。

マタイ(二二・一〜一四)にも、これと並行する宴会への招きのたとえがあります。しかしマタイでは、宴会は王が王子のために催す婚礼の宴であり、招かれた者が断るとき使者に乱暴したり殺したりし、それに対して王も軍隊を送って彼らを滅ぼすなど、ルカとは随分違った語り方になっています。マタイとルカは共通の資料(「語録資料Q」)を用いたのでしょうが、それぞれの意図に従ってたとえを構成しています。両者の比較、さらに並行記事のあるトマス福音書も含めた比較、とくにマタイの構成については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』296頁の「王の婚宴のたとえ」の項を参照してください。
"The Critical Edition of Q " は、マタイよりもルカの形が「語録資料Q」の原型に近いとしていますが、それも二一節から二二節にかけての「すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』。やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと」という部分を除いた形をQの原型としています。この部分はルカの構成とされます。ルカはイエスの語録を用いて、イスラエルの代表者たちに拒否された福音が、イスラエルの中の「貧しい人たち」に向かい、さらに異邦人に向かうという現実の福音の進展に合わせた「たとえ」を構成したことになります。