市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第32講

90 客と招待する者への教訓(14章7〜14節)

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。(一四・七)

 この段落90と次の段落91は、ファリサイ派の議員が安息日に客を招待して開いた食事の宴(一四・一)でイエスが語られたことになっています。これは、他の機会にイエスが「招き」について語られた語録が、それを置くのにふさわしい場所として、この議員が設けた宴席が用いられたのかもしれません。そうであるとしても、この場所で語られたとされるイエスの「招き」についての言葉を、今「神の国」の宴に招かれている者として、わたしたちは真剣に聴かなければなりません。
 まず招かれた者の姿が語られます。イエスは招待を受けた客が上席を選ぶ様子をごらんになります。これはどの宴席でも見られることで、人間は少しでも他の人の上に立ちたいと願うものであることを示しています。この願いは、自分の価値が隣人よりも高いことを誇りたい気持ちと、それを他の人にも認めさせたい気持ちの表れでしょう。そこでイエスは「たとえ」を語られます。以下のイエスの言葉は「たとえ」であること、すなわち、そこで語られていることはそれ自体を教訓として述べているのではなく、ある他の事態(イエスの場合は「神の国」)のことを指し示すための比喩であることを忘れてはなりません。

 「婚礼に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる」。(一四・八〜九)

 席順がいちばん問題になるのは婚礼の宴席です。招待する方はどの招待客をどの席に着いてもらうかで気苦労が絶えません。間違うと大事な招待客の気分を損ねることになりかねません。ですから、招待された客が自分で上席に着いていると、その席が招待した側の予定と違う場合は、その席を譲って末席に移らなくてはならないことになります。

 「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」。(一四・一〇)

 ですから、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座る」のが賢明な態度ということになります。末席であれば、さらに下の席に移ることを求められる心配はありません。招いた側が決めた序列によって、自分がついている席よりは上の席に移るように求められる可能性があるだけです。
 「婚礼に招待されたら、上席に着いてはならない。むしろ末席に行って座りなさい」という教訓は、実際の社会生活で賢明に振る舞うために有益な教訓です。しかし、イエスはこの議員の宴席で、社会生活のための教訓を与えておられるのではありません。これは「たとえ」です。イエスが語られた「神の国」のたとえの一つです。それは、「神の国」の招きを受けた者の姿勢を指し示す「たとえ」です。イエスはしばしば「神の国」を宴席への招きとして語られました。イエスの「神の国」告知の働きは、神の国の祝宴への招きです。その招きを受けた者は、自分の価値を言い立てて上席に座るような姿勢ではなく、価値のない者として末席につく姿勢で、その招きを受けなければならないことを指し示しています。このたとえは、自分が律法を順守したことを誇り、その功績によって神の国に入る資格があるとするファリサイ派に対する批判が含意されています。どの席に着かせるかは、招いた方が決めることで、招かれた者が自分で決めることではありません。このことが次の格言で表現され、この招待客についての箇所を締めくくります。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。(一四・一一)

 この文の原文は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからである」と、「自分を」が入っています。すなわち、自分で自分を高くする者は、(神によって)低くされ、自分で自分を低くする者は、(神によって)高くされるのです。「低くされる」とか「高くされる」という受動態の行為者は招いた方、神としなければなりません。
 このことは昔から預言者が叫び、詩編の敬虔がうたってきたことでした。この大原則が、「・・・だからである」という理由を示す語で導かれて加えられ、ここで語られた「たとえ」の根拠として引用されます。イエスは「神の国」が「恩恵の招き」であることを、このようなたとえで語られたのです。「神の国」、「神の支配」とは恩恵の支配のことですから、そこには自分の義を誇る者は入ることができず、ただ自分を無とする者だけが入るのです。

 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」。(一四・一二)

 招かれた客への教訓を「神の国」のたとえとして語られたイエスは、続いて招く側の主人に向かって、招くときの心構えを諭す言葉を語られますが、これもたんなる社会生活上の勧告ではなく、「神の国」のたとえです。
 イエスは、宴会に客を招くとき、お返しをすることができるような友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも招くのではなく、お返しができないような人たちを招くように勧められます。これはわたしたちの常識とは逆です。わたしたちはパーティーを開いて客を招くとき、何らかの意味でその招待が自分に利益をもたらす人を選んで招待します。しかし、もし招いた人からお返しを受けるならば、招いた善意は地上で報いを受けたことになり、神から受ける報いはなくなるからです。

 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。(一四・一三〜一四)

 当時の社会では「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」などの障害者は差別され、物乞いをしなければ生きていけないような人たちでした。そのような「貧しい人たち」はお返しができないから、そのような人たちを招待をした人は、その善意の報いを招かれた人から受けるのではなく、神から受けるようになるので、幸いだと言われます。貧しい者を顧みられる神は、そのような貧しい恵まれない人たちが受けた善意は、自分に対してなされた善意として見ておられるからです(マタイ二五・三四〜四〇)。
 この神から受ける報いを、イエスは「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と言っておられます。ここに用いられている「義人たちの復活」という表現は、当時のユダヤ教主流をなすファリサイ派や独特の終末待望に生きたエッセネ派の教義を指しています。敬虔なユダヤ教徒は、終わりの日に神が世界を裁き、神御自身が支配される世をもたらされるとき、律法を順守した義人は死者の中から復活し、来るべき世の命と栄光にあずかると信じていました(ヨハネ一一・二四)。イエスは、このユダヤ教徒の復活信仰を前提として、神の終末的な報いを語っておられます。終わりの日の死者の復活を否定するサドカイ派の批判に対して、イエスはご自身が体験しておられる神の力からする聖書の解釈をもって退け、この死者の復活の信仰を擁護しておられます(二〇・二七〜四〇)。イエスがこのような終末待望を保持しつつ、現に隠された姿で到来している「神の支配」を告知されたことは、イエス理解の基本的な内容ですが、それは福音書講解の全体にわたって見なければならないことであって、ここではイエスが当時のユダヤ教の終末信仰を共有しておられた面が出ていることを指摘するにとどめます。
 このようにお返しができない貧しい人たちを招く主人の姿は、神が資格のない者を無条件絶対の恩恵をもって神の国に招いておられることの比喩です。この恩恵の招きは、イエスがユダヤ教社会では罪人として疎外されている徴税人や遊女たちと食事を共にして仲間であることを示された行動によって具体的に示されていました。今その恩恵の招きが、貧しい者を宴会に招く主人の姿を比喩として語られているのです。