市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第29講

87 狭い戸口(13章22〜30節)

 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。(一三・二二)

 ここまで(一三・一〇〜二一)ガリラヤでの働きの時期に行い語られたものとしても読めるような記事が続きましたが、ここでルカは、イエスと弟子の一行がエルサレムへ向かう旅の途上にあることを思い起こさせます。エルサレムがイエスの受難の地であることは、読者はよく知っています。イエスがエルサレムへ向かって進んでおられたということは、ここで語られる言葉が、死に至る苦しみを受けるメシアの言葉として聞くように、聞く者に促します。

 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。(一三・二三〜二四)

 当時のユダヤ教では、神が最終的に世界を裁かれるとき、「救われる者は少ないのか、それとも多いのか」という問題が熱く議論されていました。ラビたちは、イスラエルは(頑迷な反抗者を除いて)結局全員が救われると教える傾向にありましたが、黙示思想家はイスラエルの中の少数者だけが救われると主張していました。たとえばラテン語エズラ記(八・一〜三)は、「いと高き神はこの世を多くの人のために造られた。しかし、来るべき世は、わずかな人のために造られている。・・・・確かに造られた者は多いが、救われる者は少ない」と主張しています。この質問をした人は熱心なユダヤ教徒で黙示文学にも通じていて、終わりの日の裁きが迫っている今、その日に救われる者が多いのか少ないのかという問題について思い悩み、神の霊によって力ある働きをするこの高名なラビはどう考えているのか、意見を聞こうとしたと思われます。
 ここでもイエスはその質問に対して、救われる者は多いとか少ないと答えるのではなく、その質問の立場そのものを覆すような答えをされています。この質問者は救いを第三者の立場から見ています。終わりの日に神が世界を裁かれるとき、救われて神の国に入る者は多いのか少ないのか、自分はそれを観察する者の立場で問題にしています。そのような見方に対して、イエスは救いとは客観的に考察するものではなく、自分が救いに入れるのかどうかの問題、きわめて主体的な問題であることを教えられます。自分が救いに入るのかどうかが問題であって、救いに入る他の人が多いか少ないかは問題になりません。
 イエスはその質問者だけでなく、この問答を聞いている人たち一同に、このことを教えるために言われます、「狭い戸口から入るように努めなさい」。「狭い戸口から入る」かどうかは自分の問題であって、自分が入れるように「努める」ことだけが問題です。そのことを強調するために、「入ろうとしても入れない人が多い」という事実がつけ加えられます。あなたも狭い戸口から入るようによほど努めないと、多くの人のように入れないのだから、と努める必要が強調されます。
 ここで「努める」ということが誤解されてはなりません。わたしたちが神の国に入るのは、神の恩恵によるのであって、わたしたちが努力して積み上げた善い業によるのではありません。この「努める」は、救われるための資格を積み上げるための努力を指すのではありません。救われて入る神の国は、すぐ後に出てくる「大宴会」のたとえ(一四・一五〜二四)が語っているように、宴席を用意した方が、その場にふさわしくない(資格のない)人たちを迎え入れてなされる宴会です。わたしたちはその招きを拒むことなく、宴会がいつ始まってもよいように備えていることが求められています。すなわち、終末的な事態にふさわしい生き方を維持していること、目を覚ましていることです。それは困難ことです。わたしたちはこの世の中に埋没して、眠りに陥りやすい者です。また、この世とは違う原理で生きる少数者を迫害します。その中でいつも神の国に備えて生きるには、たえず「努める」必要があります。

この「狭い戸口から入れ」という言葉は、マタイにある有名な語録(マタイ七・一三〜一四)を思い起こさせます。マタイの語録の成立と意味、およびルカの語録との比較については、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』344頁の「狭い門・狭い道」の項を参照してください。

 「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。(一三・二五)

 「神の国」に入ることが「戸口から入る」という比喩で語られたことを承けて、戸口は夜には閉められることから、この比喩は、戸口が閉められる前に、戸口から入るように努めよ、という終末的な勧告になります。この勧告は、神が世界を裁かれる終わりの日が迫っているのだから、その日が来る前に、今戸口が開いているうちに、悔い改めて神の恩恵に身を投げ入れ、「神の国」に入るように迫っています。
 「戸口が開いているうちに」ということが、「家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは」遅いのだとして、閉められた戸の外に立って戸をたたく者たちと家の主人との対話で劇的に描かれます。家の主人は、戸口を開けていたときに入ってこようとしなかった者たちに、「お前たちがどこの者か知らない」と言って、もはや戸を開けようとはしません。この比喩は、神の裁きが行われる終わりの日が来る前に、この今の時に悔い改めて福音を信じるように呼びかけています。

J.M.Robinson, P.Hoffmann, J.s.Kloppenborg, "The Critical Edition of Q " は、主人の返事を「わたしはお前たちを知らない」とし、「どこからの者か」はルカの付加としています。そして、マタイ二五・一〇〜一二を並行欄に置き、マタイがこの語録を「十人のおとめ」の比喩に用いたとしています。

 「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。(一三・二六〜二七)

 「お前たちがどこの者か知らない」という家の主人の返答に対して、外に立つ者たちは、「あなたはわたしたちをよくご存知のはずです。わたしたちはあなたと御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、あなたはわたしたちの広場で教えられました」と、主人と親しい関係にあった者だと言い立てます。この抗議は、これに対する主人の答え(二七節)の意味を説明する言葉(二八〜三〇節)からすると、ユダヤ人がイエスと自分たちとの親しい関係を言い立てている言葉になります。少なくとも、ルカはそのような意味の言葉としてここに置いています。
 このような言い立てに対して、主人は断固として「わたしはお前たちを知らない」と宣言し、「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と彼らを退けます。主《キュリオス》として立てられたイエスは、たしかにユダヤ人の一人であり、ユダヤ人の中でその人生を送られました。また、ユダヤ人は身近にイエスの教えを受けました。しかし、神から遣わされた義人を拒否し、ついには殺すという最大の不義を行いました。このような不義を行った者たちに対する主人の拒否は不可避です。

この語録も「語録資料Q」から採られていますが、同じ語録をマタイは違った文脈に置き、違った意味内容を与えています。ルカが「不義」《アディキア》と書いているところは、マタイ(七・二三)では「不法」《アノミア》となっています。ルカはこの語録を「神の国」がユダヤ人から取り上げられて異邦人に向かうことを語る文脈に置いていますが、マタイは違った文脈に置き、違った意図でこの語録を用いています。マタイ(七・二一〜二三)では、イエスに向かって「主よ、主よ」と言い、主イエスの名によって力ある働きをしながら、律法に反する行いをする共同体内部の反律法主義者を否定するために用いられています。

 「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。(一三・二八〜三〇)

 ここで「戸口のたとえ」の結論が明らかにされます。ユダヤ人は神の約束を受けたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であることを誇り、預言者たちによってまことの神に従うように教えられた民として、自分たちこそ神の国の宴に預かる者と自負していました。しかしイエスは、イエスを受け入れようとしないユダヤ人は父祖たちや預言者たちに約束されていた神の国から追い出され、外の暗闇で泣きわめいて歯ぎしりするようになり、世界の諸国民(異邦人)が東から西から、また南から北から来て、神の国の宴にあずかるようになると言われます。そして、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」という格言が、後回しにされていた異邦人が先に神の国に入り、先に召されて約束を受けていたユダヤ人が後になることを語る言葉として引用されます。

二八〜二九節については、前出の "The Critical Edition of Q "は、並行するマタイ(八・一一〜一二)の形を「語録資料Q」の本文として掲げています。マタイはこの語録を、ルカとは全然別の、信仰が賞められた異邦人百人隊長の記事の結びの位置に置いています。

 ルカは、このようなイエスの語録を「戸口のたとえ」の結論としての場所に置き、この「戸口のたとえ」を扱う段落を、ユダヤ人が退けられ、福音が異邦人に向かうことを語るものとして構成しています。先に見たように、二三〜二四節の問答は深く霊性に関わる語録ですが、それも「戸口のたとえ」を導入するために利用され、このたとえの構成要素の一つになっています。