市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第28講

86 「からし種」と「パン種」のたとえ(13章18〜21節)

 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」。(一三・一八〜一九)

 イエスは「神の国」を告知するとき、たとえを用いられました。神の国とか神の支配という霊的現実を直接人の言葉で語ることはできません。それでイエスは、わたしたちが地上で日常体験する事例をたとえとして用いて、神の支配の現実を指し示されました。「たとえ」を意味するギリシア語は《パラボレー》ですが、この語は「並べて置く」という意味の語で、示そうとする神の支配の現実と共通点のある日常の事例を並べて置くことで、目に見えない神の支配の姿を、その共通点から指し示そうとします。ガリラヤの農民の間に生活されたイエスがたとえとして用いられる日常の事例は、農民の生活体験から取られることが多くなります。
 ここでは「神の国」はからし種に似ている(からし種と共通点がある)とされます。そして、その共通点が「人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」という言葉で説明されます。「からし種」は当時の社会で小さいものの代表でした。小さい信仰は「からし種一粒ほどの信仰」(一七・六)と表現されます。並行するマルコ(四・三一)は、「土に蒔くときは、地上のどんな種よりも小さいが」と、その小さいことを強調していますが、ルカはからし種が小さいことは当然としているのか、そのような説明をつけていません。しかし、蒔かれると「成長して木になり」とされ、その大きさが「その枝には空の鳥が巣を作る」という表現で強調されているところから、ルカにおいてもマルコと同じく、このたとえは「対照のたとえ」であることは確かです。すなわち、小さな始まりと驚くべき大きな結果の対照を指し示す比喩であることは明らかです。
 神の終末的支配は、イエスの中に宿り、イエスにおいてこの世に突入してきています。しかし、そのイエスにおいて到来している神の支配は、今はイエスを取り巻く少数の弟子たちとイエスを信じる僅かのユダヤ人に限られています。それは、預言者が語った神による終末の世界支配から見れば、無きに等しいような小さな事態です。しかし、イエスの中に到来している神の支配の現実は、やがて全世界を包み込む大きな現実となる、とこの比喩は語っているのです。
 その全世界的な大きさは、「その枝には空の鳥が巣を作る」という表現で指し示されています。イエスご自身を含め聖書に親しんでいるユダヤ人には、この表現はエゼキエルの預言の言葉を思い起こさせます。

 主なる神はこう言われる。「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」。(エゼキエル一七・二二〜二三)

 この預言の前半が何を指しているにせよ、後半の主が移し植えられた若枝が「枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」姿が、このイエスの比喩に響いています。この預言は、主が打ち立てられる神の支配の下に世界の諸国民が安住の地を見いだすことを預言しています。イエスが語られたこの比喩を福音書に書き記すとき、ルカは彼の時代に力強く進んでいた異邦人伝道の進展を思い浮かべていたことでしょう。ガリラヤの片隅で始まったイエスの「神の国」運動は、今や当時の人たちにとっての全世界であるローマ世界に広がり、あらゆる国民が主の恩恵の支配の下に来つつあります。イエスのこの比喩は具体的な形をとって歴史の中に実現しつつあります。

 また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」。(一三・二〇〜二一)

 このパン種のたとえはマルコになく、マタイ(一三・三三)にほぼ同じ形で見出されます。ルカは、「語録資料Q」にあるこのパン種のたとえを、同じことを指し示しているからし種のたとえと一組にしてここに置きます。
 「サトン」は容積の単位で、約一二・八リットルに相当します。そうすると三サトンは約三八リットルになり、小麦粉を練ったパン生地としてはかなり大きなものです。この量の粉を焼いてパンにすると、約一五〇人の食料になるといわれています。「三サトンの粉」は、日常の生活体験では巨大なパン生地を連想させます。その巨大なパン生地が、女がその中に埋めた僅かのパン種によってさらに大きく膨れあがり、一五〇人分のパンという驚くような大きさになることが語られています。そして、「神の国」もそれと同じであり、今はごく僅かの小さい現実であるが、それは必ず人目を驚かす大きな現実となって立ち現れるものであると、このたとえは語っています。
 ここに一組にして置かれている「からし種」のたとえと「パン種」のたとえは、小さな始まりと大きな終局を指し示す「対照のたとえ」と言われていますが、これは小さいと大きいという量の対照ではなく、今は隠されていて見えないものとやがて現れ出る圧倒的な現実との対比、質の対比であると考えられます。からし種は地に蒔かれて見えなくなります。パン種は粉の生地の中に埋め込まれて見えなくなります。このように、「神の国」は今は隠されていて見えない現実であるが、やがて誰も否定したり抵抗したりできない圧倒的な現実として現れるのだ、ということを語っています。「神の国」は今イエスの中に隠された形で到来しているのだが、ガリラヤの一農民イエスの中に終末的な神の支配が到来していることを誰も見ることができない。しかし、今イエスの中に隠された姿で到来している神の支配は、やがて必ず世界にその栄光の姿を顕わな形で現すことになる、とこれらのたとえは語っているのです。イエスは「隠されているもので現われないものはなく、秘密にされているもので明るみに出ないものはない」と言われましたが(マルコ四・二二)、この言葉は「神の国」のこのような姿を語られたものです。
 ルカはすでにマルコ(四章)の「たとえ集」にあるイエスのたとえ話をガリラヤでの活動の時期に置きましたが(八・四〜一八)、マルコでは「たとえ集」の中にある「からし種」のたとえは別に取っておき、「語録資料Q」の「パン種」のたとえと一組にして、「旅行記」の中で神の支配がイエスの中にすでに到来していることを語る区分の中に置きます。