市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第22講

80 分裂をもたらす(12章49〜53節)

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。(一二・四九)
 「わたしが来たのは〜するためである」という形でイエスがご自身の使命を語られたとされる語録は各福音書にあります。その中で、「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」というお言葉は三つの共観福音書に共通していて(マルコ二・一七、マタイ九・一三、ルカ一二・四九)、「恩恵の支配」というイエスの使信の核心を表現しています。しかし、各福音書はこの形式でそれぞれの特色を示すメッセージを表現しています。たとえば、マタイ(五・一七)は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」という形で、律法についてのマタイの主張を掲げています。ヨハネ(一〇・一〇)は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」という形で、イエスが神から遣わされて世に来られたのは、彼を信じる者が永遠の命を受けるためであるというヨハネ独自の使信を宣言しています。ここの「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」というお言葉はルカだけにあり、イエスの「神の国」告知の終末性をよく示しています。
 当時のイスラエルの民には、預言者の終末預言とユダヤ教黙示思想によって、終わりの日が火の中に現れるという思想が行き渡っていました。終わりの日には、神は火をもって世界を裁き、罪を焼き滅ぼし、それによってご自身の民を清められるという信仰です。この火による終末審判を告知した大預言者が洗礼者ヨハネです。彼の告知は、「わたしは水でバプテスマするが、わたしの後に来られる方は火によってバプテスマされる」という内容であったと考えられます。

洗礼者ヨハネの後に出現されたイエスが、復活者キリストとして聖霊を与えることで終末的な現実をもたらされたことを体験した最初期共同体は、火を聖霊の象徴と理解して、洗礼者ヨハネの預言を「わたしは水でバプテスマするが、わたしの後に来られる方は聖霊と火によってバプテスマされる」としました。この点については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』の87頁を参照してください。また、終わりの日が「火の中に現れる」という思想については、拙著『パウロによるキリストの福音U』100頁の注記を参照してください。

 イエスはご自身の使命が、終わりの日をもたらす神の火を世界に投ずることであると自覚しておられて、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語られます。しかし、イエスはご自身の聖霊体験から、その火が黙示思想が描く世界を焼き尽くす火ではなく、世界を変革変容させる聖霊の火であることを見ておられました。その火がご自身の中で熱く燃えて「神の支配」の現実を体験させているように、その火が世の人々の中に燃えて、神の「恩恵の支配」という終末的現実が地上に実現することを切に願われます。それが「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」という、イエスには珍しい願望を現す形で語り出されます。

 「しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。(一二・五〇)

 その願いが実現するためには、すなわちイエスの中に燃えている終末的現実をもたらす聖霊の火が世の人々の中に燃えるようになるには、イエスにはその前に受けなければならないバプテスマがあることを自覚しておられます。それは「洗礼」という語が指し示すような儀礼ではなく、「浸されること」という原意の《バプテスマ》という語で示される事態です(協会訳参照)。ここの原文は、「わたしには浸(バプティゾー)されなければならないバプテスマがある」という形です。
 では、この表現はイエスがどのような事態に「浸される」ことを指しているのでしょうか。それはイエスご自身がすでに予告されていたご自身の受難です。それはたんにこの世で迫害され、痛い目に遭わせられ、殺されるという苦難だけではなく、イザヤの「主の僕」の預言を成就する者として、神の民を贖うために、民の罪を負い、神の裁きに服する苦しみです。その苦しみはゲツセマネでの祈りにおいて姿を現し(二二・四四)、十字架の上で終わる苦しみですが(ヨハネ一九・三〇)、それが終わるまでイエスはずっとその苦しみを担い続けられます。イエスはこの苦しみを、受難の地エルサレムに入る直前に、「わたしが飲む杯、わたしが受けるバプテスマ」と語っておられます(マルコ一〇・三八)。

ここで「苦しむ」と訳されている動詞は、新約聖書の一二回の用例中九回までルカ文書に出てくる、ルカ特愛の表現です。それは「固定する、取り囲む、締め付ける、捕らえる、強制する」などの意味の動詞です。ここでは受動態で、イエスが神の定めに捕らえられ、それに強いられている内面が吐露されています。「わたしはどれだけ押し迫られることだろうか」と訳することもできるでしょう。

 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」。(一二・五一〜五三)

 イエスは「わたしが来たのは、地上に分裂をもたらすためである」と言われます。そして、その分裂を具体的に語り出されます。これは激しい言葉です。あの「柔和な方」と呼ばれるイエス(マタイ一一・二九、二一・五)が、このような激しい言葉を語り出されるのはどうしてでしょうか。それは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われたことの、避けられない結果だからです。
 イエスが地上に投じる火は、終末の現実をもたらす聖霊の火です。この火を身に受けた者は、この世の原理とは違う原理で生きるようになります。イエスを言い表し、イエスに所属し、この火に燃やされて生きる者は、イエスを拒み、この火を受けることなく、この世の命に生きる者と一緒に歩むことはできないのです。聖霊は「来るべき世」の命です。その命に生きる者は「この世」の命に生きる者とは別の種類の命、別の原理で生きるようになるからです。
 イエスはすでに、神の言葉に従う者の間の絆は、親子や兄弟という血縁による絆を超えるものであることを語っておられました(八・二一)。ここではさらに強い形で、イエスに従うことが家族の血縁の絆よりも優先されなければならないことが語り出されます。この語録は、マタイ(一〇・三四〜三六)にも並行箇所があり、「語録資料Q」から取られていると見られますが、マタイの表現はルカと少し違っています。マタイでは「わたしが来たのは、剣をもたらすためである」とあり、最後に「自分の家族の者が敵となる」という言葉で結ばれています。形は少し違いますが両方とも、イエスに従って終末の現実に生きる者は、この世とは厳しい対立、敵対、迫害の中に歩むことを覚悟しなければならないことを語っています。
 聖霊の火に燃やされた者は、家族の絆を捨て、この世から隔離された別世界に閉じこめられるのではありません。聖霊の火は、家族に染みこんでいる伝統的な宗教や慣習の鎖からわたしたちを解放し、宗教とか文化の違いにとらわれない自由な交わり、開かれた世界に導き入れます。それは、「わたしのために家・・・を捨てた者は、今この世でその百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ一〇・二九〜三〇)と言われているとおりです。

この言葉は昔から、キリスト教は家族の絆を破壊するものであるという非難の根拠にされてきました。また、最近ではカルト的な宗教が青年を家族から引き離して隔離された世界に引き込むような事例があり、信仰と家族の関係が社会問題になっています。福音の場合はこのようなカルト宗教とどのように違うのかは、先に拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』145頁の「平和でなく剣を」の項でやや詳しく論じましたので、それを参照してください。