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時は迫っている


 ルカ福音書一二章(正確には一三章九節までを含む)は、迫っている終わりの日を前にしてどのように生きるか、どう備えるかを主題にした段落を集めています。その中で、その日を前にしてイエスを主と言い表すことの決定的な重要性を語る小区分(一二・一〜一二)と、地上の富に対する姿勢を語る小区分(一二・一三〜三四)が認められました。残りの一二章三五節から一三章九節までは、迫っている終わりの時に備えるためになすべき事に関して語られたイエスの様々な言葉が集められています。


79 目を覚ましている僕(12章35〜48節)

「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえ

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。(一二・三五)

 まず、迫っている終わりの時に備えることの必要性が、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という具体的な姿で表現されます。「腰に帯を締め」というのは、急な出来事に対処できるように帯を締めたきちんとした服装をしていることです。帯を締めていない寝間着のような服装では、客の急な到来や思いがけない事件にすぐに対応できません。「ともし火をともしている」というのは、その急な出来事がいつ起こっても、たとえ夜の暗闇で起こっても対処できるように準備していることです。昔イスラエルがエジプトを出るとき、過越の羊を食べるとき、「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして」食べるように命じられました(出エジプト記一二・一一)。そのような心構えが必要なことが、たとえを用いて語り出されます。

 「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。(一二・三六〜三七)

 最初に「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえが来ます。当時の婚礼の宴は夜中まで続き、帰宅は夜になるのが普通でした。しかも、宴がいつ終わるかは予測できず、婚礼に出席した主人の帰りの時刻は分かりません。留守をあずかった僕が眠りこんでいると、帰宅した主人が戸をたたいてもすぐに戸を開けることはできません。その時目を覚ましている僕は、すぐに戸を開けて主人を迎えることができます。そのように、終わりの時が近いことを自覚して、その到来がいつあるかわからないのであるから、いつもそれに備えて歩むように、イエスは「目を覚ましていなさい」という言葉で呼びかけられます。
 イエスご自身は、神の最終的な裁きの時が迫っているのだから、それに備えて目覚めているようにと呼びかけられたと考えられますが、イエスがその終わりの日の出来事として「人の子の顕現」を語られたのを聞いていた最初期共同体は、この「目覚めていなさい」という呼びかけを、キリストの来臨《パルーシア》に備えているようにという呼びかけと理解して、それを「人の子の顕現」預言の直後に置きました(マルコ一三・二四〜三七)。
 ルカも「目覚めていなさい」との呼びかけを「人の子の顕現」預言の後に置いていますが、それは別の形(二四・三四〜三六)のもので、「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえは、ここに見るように別の文脈においています。しかし、別の文脈に置かれていても、ルカの時代には「目覚めていなさい」はキリストの来臨に備えていること以外の意味にはなりえませんから、ルカは目覚めていてキリストの来臨を迎える者の幸いを、婚宴の比喩の続きとして、「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」という比喩で語ります。この比喩は、目覚めていて来臨されるキリストを迎える者たちに、キリストがご自分の栄光を分かち与えてくださることを指しています。これは、パウロが「将来わたしたちに現される栄光」として語っていること(ローマ八・一八〜二五)の比喩的表現です。この比喩は他の福音書にはなく、ルカだけにあります。

 「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」。(一二・三八)

 三五節からこの三八節までが「婚宴から夜中に帰宅する主人」のたとえを構成しています。この節の「幸い」の内容は、すでに三七節後半の比喩が説明していました。三八節では、主人が帰ってくる夜の時間帯がわからないことが強調されて、三七節の「幸い」が繰り返されます。

ここの「真夜中」と「夜明け」は、原文では「第二の見張り」と「第三の見張り」です。これは夜の見張りの交替によって夜を四つの時間帯に区分したローマ式の表現です。マルコ(一三・三五)では四つの時間帯が「夕方、夜中、鶏の鳴く頃、明け方」と説明的に記述されています。ルカは自分の時代のローマ社会の読者に分かりやすい表現を用いたのでしょう。

 「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」。(一二・三九)

 終わりの時は迫っているが、それがいつ来るのかは分からないことを語るもう一つの比喩が、この「泥棒のたとえ」です。泥棒がいつやって来るかは分からないのだから、家の主人はいつも用心していなければならないことを比喩として、イエスは弟子たちに常に終わりの日に備えて生きるように求められます。この泥棒の比喩は、最初期共同体において、キリストの来臨を指す「主の日」がいつ来るのかは分からないことを語るときに引き継がれています(テサロニケT五・二〜四、黙示録三・三、一六・一五)。

 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。(一二・四〇)

 「婚宴のたとえ」と「泥棒のたとえ」の二つのたとえで、常に目覚めて用意しているように語られた後に、どういう出来事のために備えるのかが語られます。それは突然世界に現れる「人の子」を迎えるためです。イエスは終わりの日の到来を「人の子の顕現」という形で語られました。その預言を語り伝えた最初期の共同体は、イエスの「目覚めていなさい」という言葉を、「人の子」の到来が迫っていることを語る場面で繰り返し用いました。ここもその中の一つです。

同じ「泥棒のたとえ」が、それを語り伝える共同体の信仰の質によって異なった意味を担うようになることが、トマス福音書との比較で分かります。この比喩は、「語録資料Q」では「人の子」到来の時が分からないことの比喩ですが、「トマス福音書」の二一―二の語録では、この比喩は人間の本来的自己を奪いに来るこの世の支配者と彼に対する防備の意味に転釈されています(荒井献『トマス福音書』―講談社学術文庫―155頁以下を参照)。

「忠実な僕と悪い僕」のたとえ

 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人はいったいだれだろうか」。(一二・四一〜四二)

 このペトロの質問は、この場面(一二・一〜一三・九)ではイエスが弟子たちに語りかけたり、取り巻く群衆に語りかけたりしておられる状況で、このたとえがどちらのグループに語りかけられているのかを訊ねています。「このたとえ」は単数形です。これは「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」を指していて、「泥棒のたとえ」はこの婚宴のたとえの結論として語られた四〇節に入る前に、主旨を強調するために同じ主旨のたとえが添えて挿入されたものと見られます。
 このペトロの質問とイエスの答えの部分では、ペトロは「主よ」と呼びかけ、イエスの答えについてルカは「主は言われた」と書いています。この「目を覚ましている僕」の段落(一二・三五〜四八)では《ホ・キュリオス》が何回も出てきますが、みな奴隷とか僕に対する「主人」の意味です。ここだけが復活者イエスを指す称号としての《キュリオス》を用いています。この事実は、この問答がイエス復活後の状況で、「目を覚ましていなさい」という呼びかけが誰に向かって語られたものかを明確にしなければならない必要に迫られて、共同体が復活者イエスから聞いた内容としてこの記事を構成した、と推察させます。それで「イエスは言われた」ではなく、「主は言われた」となっています。この呼びかけが誰に向けられたものかを明確にする必要があったことは、弟子たちに語られた「人の子の来臨」の記事の後に、マルコが「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」という言葉を付け加えていることからも分かります(マルコ一三・三七)。
 この「目を覚ましていなさい」という呼びかけが誰に向けられたものかという問いに対して、ルカはマルコとは少し違う独自の回答を与えています。このペトロの質問に対する「主」のお答えは、四二節の問いかけを導入として、四二節から四八節に至る部分全体で構成されています。

ペトロの質問に対する主の答えの言葉(四二節)は、「では、主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした者で、だれが忠実で賢い管理人であることを示すことになるのだろうか」と訳すことも可能です(WBC ノーランド)。この訳は、この問いかけが後に続く四三〜四六節の僕たちの振舞いを導入するものであることをよく示しています。

 「人の子はいつ来られるのか分からないのだから目を覚ましていなさい」ということを呼びかけるたとえは、ここに用いられた「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」と「泥棒のたとえ」の他にもう一つ、「商用で長旅に出る主人のたとえ」があったと考えられます。そのたとえはマルコ福音書一三章三四〜三六節にその骨格をとどめています。そのたとえでは、商用で旅に出る主人が僕たち各人に権限と仕事を与えて旅に出るのですが、その帰りがいつか分からないのだから、突然帰ってきたときに、忠実に仕事を果たしたのを見られるようにしなさい、という主旨です。ところがマルコ福音書のこの箇所では、後半が「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるようなことにならないようにしなさい」となっていて、これは婚宴のたとえにふさわしい表現です。ここでは「商用で長旅に出る主人のたとえ」と「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」が融合しているのが見られます。
 「商用で長旅に出る主人のたとえ」は、眠らないで目を覚ましているように呼びかける面よりも、任された仕事を忠実に果たすことに重点が置かれています。キリストの来臨を間近に実感しているマルコでは、このたとえも「目を覚ましていなさい」という呼びかけのために用いられていますが、共同体は来臨《パルーシア》までのある期間地上の歴史の中を歩まなければならないと覚悟しているマタイとルカでは、このたとえは「目を覚ましていなさい」よりも、委ねられた仕事を忠実に果すことを求めるたとえになり、それがさらに詳しく語る形に拡大されて、「忠実な僕と悪い僕のたとえ」(マタイ二四・四五〜五一)、「タラントンのたとえ」(マタイ二五・一四〜三〇)、「ムナのたとえ」(ルカ一九・一一〜二七)になります。
 「忠実な僕と悪い僕のたとえ」(マタイ二四・四五〜五一)は「語録資料Q」にある語録ですが、ルカはその語録を用いて、ペトロの質問に対する「主」の答えを構成します。四二節から四六節まではマタイ(二四・四五〜五一)とほぼ同文で、「語録資料Q」からの引用であることをうかがわせます。ところが、四七〜四八節はルカだけにあり、ペトロの質問に対する回答になっています。ルカは、イエス復活後の共同体が直面する問題をペトロの質問の形で表現し、それに対して「語録資料Q」にある「忠実な僕と悪い僕のたとえ」を素材として用いて、ルカ独自の回答を提出しています。
 素材となっている語録は、「主人が召し使いたちの上に立てた管理人」についてですが、すぐ後に「主人が帰って来たとき」と言われていることから、これが「商用で長旅に出る主人のたとえ」の一形態であることが分かります。この管理人は「召し使いたちに時間どおりに食べ物を分配させる」という仕事を委ねられた僕です。この表現は、羊の群れ(信者の共同体)の管理者として立てられ、群れに時に応じた御言葉という霊的糧を与える仕事を委ねられた人たちを指しているようです。主人はこの僕を「忠実で賢い管理人」と考えてその仕事に任じたのですが、その僕が主人の期待通りによい僕であるかどうかは、主人の留守中の行動が明らかにします。

 「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。(一二・四三〜四四)

 主人の留守中、主人から命じられたとおり忠実に職務を果たし、主人が帰ってきたとき、その忠実ぶりを見られる僕は、主人の信用を得て、主人の全財産の管理を任されるようになるであろうと言われます。この比喩は、主キリストが来臨されるとき、地上の歩みで主の言葉に忠実に従い、主から委ねられた使命を忠実に果たした弟子は、栄光の主と一緒に世界の支配にあずかることになることを意味しています。

 「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」。(一二・四五〜四六)

 その忠実な僕に対して、ここで悪い僕の姿が描かれます。その僕が悪い僕となるのは、「主人の帰りは遅れる」と思うからです。「語録資料Q」の段階ではそのような意味はなかったにしても、ルカの時代では、この句には「キリストの来臨《パルーシア》」が遅れていることを指す句として理解されたことでしょう。ルカはまさに、《パルーシア》が遅れていることで信仰の動揺が見られる時代に福音書を書いています(序論『ルカ二部作の成立』参照)。
 「主人の帰りは遅れる」と思う僕は、主人が帰るまでは自分が主人であるとして、自分の下にいる「下男や女中」を気に入らなければ殴るなどして、自分の思うままに支配しようとします。また、「食べたり飲んだり、酔うようなこと」になり、自分の欲望のままに振る舞い、主人から委ねられた仕事を果たすことを怠ります。このような僕は、主人が「予想しない日、思いがけない時に帰って来て」、厳しく処罰することになります。この比喩は、たとえイエスの弟子であっても、自分が主人であるかのように高ぶり、自分に委ねられた羊の群れを食いものにして自分の満足を追い求めるような者は、キリストが来臨されるとき、不信者と同じく栄光から放逐され、暗闇に落とされると警告しています。

原文では四六節の後半は、「(主人は)彼を二つに切り裂き、彼の受け分を不信者と同じにする」と激しい表現になっています。

 「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」。(一二・四七〜四八)

 ルカは、「語録資料Q」の「忠実な僕と悪い僕」の比喩を引用した上で(四二〜四六節)、その比喩が意味するところを書き加えて(四七〜四八節)、それをペトロの質問に対する主の答えとします。すなわちこの結論の部分は、一般の人もみな迫っている終わりの日に備えている必要はあるが、主の意思をより多く知らされている弟子たちは、それだけ責任が重い、ということです。
 ここで「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」というのは、四五〜四六節の悪い僕を指すことになりますが、そこではこの悪い僕に対する処罰は厳しい断罪であり追放でした。悪行の程度により処罰の重さが変わることはありません。ところがここでは「鞭打ち」になっています。その鞭打ちも「ひどく鞭打たれる」から「少しで済む」鞭打ちまで程度が変わります。引用されている素材の比喩と、ルカの結論には齟齬が感じられます。しかし、これは表現上の齟齬であり、ペトロの質問、すなわちルカの時代の問題に対して、ルカがイエスの語録を用いて答えようとした意図は一貫しています。
 差し迫っている終わりの日に備えなければならないのは、すべての人間に共通ですが、イエスの弟子として、また、イエス・キリストの十字架と復活という終わりの日の救いの出来事にあずかる者として、神の救済史の奥義を知ることを許された者は、他の人たちに較べて、終わりの日に備えて生きることで、その証しをしなければならない責任は格段に重いものがあります。その中でも、任された任務によって責任の重さに違いがあるでしょうが、キリストの民の責任の重さを自覚させようとして、ルカは「語録資料Q」の比喩を用います。そして、さらに「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」という格言を引用して、その意図を明確にします。