市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第20講

78 思い悩むな(12章22〜34節)

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。(一二・二二〜二三)

 このように、群衆一同に向かって地上の富に対する貪欲を戒められたイエスは、弟子たちに向かっては、地上の富に頼ることなく、ただ父の配慮に委ねて、思い悩むことなく生きるように励まされます。
 「だから、言っておく」の「だから」は、先の段落で人の命は神が決められるものだと述べたことを指しています。そこでは神が命を取り上げられる時のことが語られていましたが、ここでは神が命を支えてくださる方であることが語り出されます。命を与えた神がその命を支えてくださるのだから、あなたたちは命のことで「思い悩むな」と、イエスは諭されます。
 普通、人生の最大の関心事は「どうして生活していこうか」という問題です。イエスはそれを「何を食べようか、何を着ようか」という具体的な問いの形で語られました。現代では、お金を出せば食べるもの着るものは何でも手に入りますから、この問いは「どうしてお金を得ようか」という問題に帰着します。できるだけ楽に、生涯安定して、できるだけ高額の収入を得るためにはどうすればよいか。これが現代人の最大関心事です。現代生活はそのために「思い悩む」ことが満ちています。
 「何を食べようか、何を着ようかと(生活のことで)思い悩むな」という勧告(二二節)の根拠として、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切であるからだ」という(《ガル》で始まる)理由を示す文(二三節)が来ます。この二三節の解釈は争われています。食べるのは命を維持するためであり、着るのは体を保護するためです。食べることと着ることの目的物(より大切なもの)である命と体は、神が与え取り去ることを決められるのであるから、それを決めることができない人間が、それを維持し保護するための手段である食べることと着ることについて思い悩むのは愚かである、ということでしょうか。

この「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」という勧告の本筋は、思い悩まないではおれないわたしたちに、イエスは「空の鳥を見よ、野の花のことを思え」と呼びかけ、わたしたちが「ただ神の国を求める」ならば、空の鳥を養い、野の花を装ってくださる父が、必要なものを与えてくださるのだ、というイエスの語りかけにあります。この「空の鳥、野の花」を指してなされた簡明なイエスの語りかけに、二三節、二五〜二六節、二九〜三〇節が加えられて、イエスの語りかけの文を複雑にしています。これらの付加部分はルカとマタイに共通していて、すでに「語録資料Q」の段階で加えられていたと考えられます。ルカは最後に、資料の他の箇所にある語録(三二節と三三〜三四節)を加えて、この「思い悩むな」勧告を、マタイと違った形で締めくくっています。

 「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。(一二・二四)

 マタイには「空の鳥(とり)」とありますが、ルカでは「烏(からす)」となっています。イスラエルでは烏(からす)は汚れた鳥です(レビ一一・一五)。ルカはヨブ三八・四一や詩編一四七・九の影響で烏(からす)としたのでしょうか。鳥(とり)でも烏(からす)でもここの文意の理解には影響はありません。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない空の鳥を、汚れた鳥とされる烏(からす)も含めて、神は養っておられるのです。烏(からす)よりもはるかに価値があるあなたがたを、神が養ってくださらないことがあろうか、とイエスは言われます。
 このお言葉には、今夜命が取り去られることも知らないで、大きな倉を建ててこれからの命を保証しようとしたあの愚かな人間との対比が響いています。イエスの弟子は、自分の手の業に頼るのではなく、必要を知り給う神の配慮に委ねて、ひたすら神の国を追い求めるべきことが説かれます。
 もちろんこのお言葉は、わたしたちに働くことを禁じたり、必要なしとするものではありません。現実の社会に生きるためには、誰でも何らかの形で働くことが求められます。そして社会で働く以上は、計画や配慮や注意などが必要です。そのような心配りが必要でないと言っているのではありません。ただ、そのような心配りをして働くさいに、将来を心配して「思い悩むな」と言っているのです。イエスは、烏を養われる神を指して、わたしたちにその神を信じて、その神の配慮に委ねて、将来を心配したり思い煩ったりすることがないように励まされるのです。イエスの言葉は、働く必要がないと言っているのではなく、思い悩む必要がないことを教えています。思い悩むことは、何もよい結果を生みません。それは百害あって一利なしです。
 マタイでは、ここは「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」となっています。この表現は、イエスが神を父として親しい交わりの中におられることを示しています。そこからイエスはわたしたちにも、その方を「あなたがたの天の父」として示し、子が親を信頼して生きるように、創造者なる神を自分の父として信頼して生きるように招かれます。

 「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」。(一二・二五〜二六)

 ここで、思い悩むことの愚かさを示すために、本筋から離れた議論が加えられます。わたしたちはいくら思い悩んでも、寿命をわずかでも延ばすことはできません。この誰もが認めざるをえない事実を突きつけて、思い悩むことの愚かさと無益さを、イエスは聴く者に納得させられます(二五節)。

ここで「寿命をわずかでも延ばす」と訳されているところは、「背丈を一ペキュスほどでも伸ばす」と訳すことも可能です。ここに用いられている名詞はおもに「年齢、寿命」という意味で用いられる名詞ですが、「身長」という意味もあります。ペキュスは長さの単位(約四五センチ)ですから、これを文字通りにとると、「背丈を一ペキュスほどでも伸ばす」と訳すことになります(岩波版佐藤訳、ウルガタも)。イエスの比喩の使い方からすると、イエスがこう言われたことも十分ありうることです。しかし大多数の翻訳は、数値なしの「ペキュス」を副詞的に「わずかに」と理解して「寿命をわずかでも延ばす」と訳しています。どちらの訳をとっても、思い悩むことでそのようなことはできない、という大意は同じです。

 ここで思い悩んだからといってできないことの典型とされていること(寿命あるいは身長に僅かを加えること)が、「こんなごく小さな事さえできないのに」とされて、「なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と、思い悩むことの愚かさが人生のすべての範囲に広げられます(二六節)。この節はマタイにはなく、「語録資料Q」にはなかったと推察され、ルカが加えたものと考えられます。
 ところで、「寿命をわずかでも延ばすこと」、あるいは「背丈を一ペキュスほどでも伸ばすこと」は、どちらもできないのが当然で、それを「こんなごく小さな事さえできない」として、「まして他のことまで」と他の人生経験すべてについて思い悩むことの愚かさの根拠づけにする論理には、現代のわたしたちは抵抗を感じます。しかし、この「小さいこと」を、簡単なことという意味ではなく、人生のもっとも基本的なことを意味すると理解すれば、生まれる時と死ぬ時という存在のもっとも基本的なことを自分で決めることができない者が、人生の中の他のことを自分で決めることができるかのように考えて思い悩むことは、被造物の僭越であることを教えていると理解することができます。

 「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ 、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」。(一二・二七〜二八)

 次に「何を着ようか」という思い煩いについて、野原の花を指して、その愚かさが語られます。野に咲く花は、働きもせず紡ぎもしないけれども、あのように美しく装って咲いているではないか。その装いを、イエスは栄華を極めたソロモンに優るものとして指し示されます。旧約聖書にはソロモンの衣装の華麗さを記述する箇所はありませんが、イスラエル史上もっとも繁栄したソロモンの宮廷の華麗さは、後々の世の語りぐさになっていました。イエスは、野に咲く花の美しさを、その時のソロモンの衣装に優るものと見ておられます。

 ここで「野原の花」と訳されている原語《クリノン》は、「慣例的に『ゆり』と訳されるが、必ずしもユリ科の植物ではない平凡な野花を指した」とされます(織田・小辞典)。ここでは春のパレスチナを華麗に彩る紫アネモネではないかという推察もありえます。紫は王者の衣の色ですから、ソロモンの衣装との比較が自然に聞こえます。

 その上で「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださっているのだ」と言われます。ここでは「花」ではなく「草、乾し草」です。パレスチナの農民は乾し草や野の枯れ草を集めて燃料として炉に投げ込みました。そのような草に混じって一緒に炉に投げ込まれるような野の花も、「神はこのように装ってくださっている」と、イエスは言われます。わたしたちがただ「ああ、きれいだなあ」と見ている、野の草の中に花が咲いているという平凡な事実に、イエスは神の配慮と働きを見ておられます。これは、雨が降り太陽が照らすというごく日常的な事実の中に、父の絶対無条件の慈愛を見ておられた(マタイ五・四五)のと共通するイエスの霊眼です。
 神がこのように小さいものを配慮してくださっているのであれば、「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と続きます。このように野の花でさえその配慮を及ぼして美しく装ってくださっている神が、あなたたちのことを配慮して必要な着るものを与えてくださらないことがあろうか、とイエスは言われます。それだのに、「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩んでいるのは、父への信頼がないからだとして、そのように思い悩む弟子たちに、「信仰の薄い者たちよ」と言われます。これは叱責とか非難というより、父の配慮に全面的に委ねて、思い悩みを捨てるようにという呼びかけです。

 「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。(一二・二九〜三〇)

 この節では文頭に置かれた「あなたがた」が強調されています。他の者はともかく、弟子としてイエスに従おうとするあなたたちは、何を食べようか、何を飲もうかと考えたり思い悩むようなことはあってはならない、とされます。この強調は三一節の「ただ神の国を求めなさい」まで続いており、「あなたたち」はそのようなことに思い悩むことなく、ひたすら「神の国」を求めることに集中すべきだと続きます。
 その「あなたがた」との対比で、「あなたがた」以外の人たちが「世の異邦人」と呼ばれます。彼らが求めるところは「神の国」ではなく、「何を食べようか、何を飲もうか」の思いに代表される地上の生活のことだけです。「あなたがた」は「世の異邦人」のようであってはならない、そのようなものは、その必要を知っておられる父の配慮に委ねて、ただ神の国を追い求めなさい、と続きます。

これと同じ語録がマタイ(六・三一〜三二)の並行箇所にあり、これは「語録資料Q」から取られています。「異邦人」という句がイエスに遡るものか、あるいはイエスの語録集がユダヤ人の信仰運動であるQ共同体で形成される過程で、非ユダヤ教徒に対するユダヤ人の日常的な呼び方が混入したものかは議論があります。弟子の在り方を弟子以外の者たちとの対照で語るとき、「異邦人」という呼び方を用いるのは、「語録資料Q」の流れにあるマタイには多くありますが(五・四七、六・七、六・三二、一〇・五、一八・一七)、ルカではここ一箇所だけです。

 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。(一二・三一)
 では、イエスの弟子がそれだけを目標にしなければならない「神の国」とは何か。また、「神の国を求める」というのはどういう生き方を指すのかが問題になります。この問いは、福音書全体、いや新約聖書全体の探求の結果として答えることができる問いであって、ここはその答えを出す場所ではありません。ここでは、弟子としてイエスに従う者は、「何を食べようか、何を着ようか」と地上の生活のことで思い悩むことなく、イエスがそれに生涯を捧げておられる「神の国」の告知の働きに、自分の生涯を捧げて専心すべきことが求められています。そうすれば、生活に必要なものは、その必要を知っておられる父から、「神の国」のための働き対する霊的報酬に「加えて」与えられるのだ、とイエスは約束されます。これはイエスご自身の生き方から出る約束です。そして多くの弟子が、その約束が信実であることを実際に体験してきました。

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。(一二・三二)

 イエスと共に「神の国」を専心追い求める弟子は、この世ではいつも少数派です。イエスの時も、福音書が書かれた時期においても、そしていつの時代でも少数派です。違う生き方をする少数派は、周囲の多数派から非難され、迫害されるのが常です。少数派として迫害される弟子たちの群れに向かって、イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と励まされます。「恐れるな」と言われる根拠は、「神の国を与えることは、あなたたちの父の意志である」からです。この文ははっきりと理由を示す接続詞で、先の「恐れるな」に続いています。
 少数派であるイエスの弟子の群れは、今の時代、この世では苦難の道を歩まなければなりません。しかし、やがてすぐに現れようとしている「来るべき時代、来るべき世」においては、神の支配に参与し、神の栄光を与えられます。それは神の定めです。ここのイエスの言葉には、救済史の計画が必ず実現することを指し示す《デイ》(そうならなければならない)― 受難の予告(九・二二)にも用いられたあの《デイ》― が響いています。
 そう定められた神が「あなたがたの父」であるのだから、あなたたちは地上の生活に必要なものについては思い悩むことなく、子としての信頼をもって父の配慮に委ね、また迫害を恐れることなく、父の定めである「神の国」に向かってひたすら歩むように、イエスは小さい群れの弟子たちを励まされます。

 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。(一二・三三〜三四)

 この語録はマタイ(六・一九〜二一)にもあり、「語録資料Q」から来ています。マタイは別の文脈に置いていますが、ルカは、「この世」と「来るべき世」の対比の中でこの世の富について語られたこの小区分(一二・一三〜三四)の締めくくりとして、この位置に置きます。新共同訳ではこの語録は弟子たちに語られた「思い悩むな」の段落に入っていますが、群衆に語られた先の「愚かな金持ちのたとえ」の段落も含めて、地上の富に関わる小区分全体の締めくくりとして置かれていると考えられます。

この語録の主題となる《セーサウロス》を新共同訳は「富」と訳していますが、この語は本来「集められた(貴重な)品物」を指しており(この語の動詞形は「集める」の意)、土地や家屋、家畜や穀物というような資産(一二・一三〜二一)ではありません。また、虫や錆や盗人の被害の対象になるのは、高価な衣類や香料、貴金属や宝石などであるので、協会訳のように「宝」と訳す方が適切と考えられます。

 マタイの並行箇所と較べると、宝は地上に積まず、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない天に積むようにという主旨は同じですが、ルカはマタイにはない「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という言葉を加えて、天に宝を積むにはどうすればよいかを具体的に指し示しています。ここにも地上の富に対するルカの厳しい姿勢が見られます。
 たしかに地上に蓄えた宝は、「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したり」します(マタイ六・一九)。天に積まれた宝にはそのような心配はありません。天に宝を蓄えるとは、地上で神に喜ばれる歩みと働きをして、天において、すなわち神との霊的な関わりにおいて、自分が豊かになること、信仰や愛や希望というような霊性における持ち物が豊かになることです。
 このような宝は、地上の境遇がどのようになっても奪われることはありません。それは「盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」宝です。それは内に与えられた御霊の泉から溢れ出る「尽きることのない富」です。それは周囲の状況によって絶え果てることのない富です。死でさえ奪うことのできない宝です。自分のためだけに地上に富を蓄え、神との関わりで豊かでない者の愚かさは、先の「愚かな金持ち」のたとえで語られていました。ここではその反対に、真に賢くあって、神の前に豊かになるように説かれます。
 「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」という結びの言葉は、人生の主要関心事をどこに向けるか、その選択を迫ります。地上に宝を積むことを目的として生きるか、天に宝を積むことを人生の大事として生きるか、選択を迫ります。もちろんイエスの言葉は、天に宝を積むことこそ真の知恵であるとして、神の前に豊かになるように説き勧めています。
 宝は地上ではなく天に積むようにというところは、マタイとルカは共通しています。おそらくこれが「語録資料Q」の内容であったと考えられます。ところが、ルカはこの語録の前に「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という言葉を置いて、「語録資料Q」の内容をこの「施しなさい」という勧告の目的あるいは結果として関連づけています。自分の持ち物を売り払って施すことによって、尽きることのない富を天に積むことになるとしています(一八・二二参照)。

先にも触れたように、ルカには地上の富に対する厳しい(否定的な)姿勢が見られるところから、ルカは最初期共同体の一部に見られたエビオニズム(一種の清貧主義)とかクムランのような修道院的傾向に近いのではないかという推察もあります。

 キリスト教の歴史の中では、この言葉に文字通りに従って、自分の資産全部を売り払って貧しい人々に施し、自分は無一物になって修道僧の生活に入った人たちがいました。そこまで行かなくても、この言葉に励まされて、自分の大きな資産を慈善事業に寄付する人がキリスト教社会にはよくあります。そのような人たちは、たしかに天に宝を積んだ人たちです。しかし、すべての人がそれができるわけではありません。できないことを悲しんでイエスのもとから立ち去ってはなりません(一八・二三)。「人間にはできないことも、神にはできる」と言って、イエスはそのような人をも受け入れてくださっています。人には様々に異なった召しがあります。召されたところに従って、イエスに従えばよいのです。時に応じて、わたしたちにできないことを神ができるようにしてくださいます。
 この三三〜三四節の言葉で、地上の富に関する小区分(一二・一三〜三四)が締めくくられます。