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76 イエスの仲間であると言い表す(12章8〜12節)

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。(一二・八〜九)

 ここでこの小区分(一〜一二節)の本題が出てきます。すなわち、人々の前でイエスを言い表すことの必要性と重要性です。
 ここで「イエスを言い表す」と「イエスを知らないと言う」が対照されています。「イエスを言い表す」とは、自分がイエスと関わりのある者であることを認めることであり、新共同訳はそれを「イエスの仲間であると言い表す」と説明的に訳しています。それに対して「イエスを知らないと言う」は、イエスのことについて無知であるという意味ではなく、自分がイエスと何の関わりもないと、イエスと自分の関わりを否認することです。イエスの裁判のとき、大祭司の館で「お前も彼の仲間ではないか」と問い詰められて、三度まで「わたしはあの人を知らない」と言ったときのペトロがその典型です(二二・五四〜六二)。

ここで「言い表す」と訳されている動詞《ホモロゲオー》は、まれに「罪を言い表す」という用例もありますが(ヨハネT一・九)、新約聖書ではほとんど「イエスを主と言い表す」(ローマ一〇・九)というような形で、キリストを言い表すことを指していて、その名詞形《ホモロギア》と共に、「信仰」と一体のものと扱われています(ローマ一〇・九、一〇、ヘブライ三・一、四・一四、ヨハネ九・二二、一二・四二など)。

 イエスはご自分に対するユダヤ教社会の敵意を十分知っておられます。イエスを神から遣わされた方と信じてイエスに従う者は、周囲の人々からの敵意に囲まれることになることを見通しておられます。「人々の前で」は、迫害する人々の前で、とくに法廷で、という意味です。その敵意の中で自分がイエスの仲間であると認めることは、自分も社会の敵意にさらすことになります。しかし、イエスを信じるとかイエスに従うとは、心の中だけの問題ではなく、社会に生きる全人の在り方ですから、周囲の人々の前で自分がイエスに従う者であるという立場を明らかにしなければなりません。それが敵意に囲まれる結果になっても、それを恐れて自分とイエスの関わりを否定するのでは、イエスを信じて従う弟子としての実際の歩みは成り立ちません。
 では、なぜそのように苦難を覚悟してもイエスとの関わりを人々の前に言い表さなければならないのでしょうか。それはイエスが「人の子」であるからです。この地上でイエスとの関わりを認める者だけを、「人の子」が天使たちと共に現れて世界を裁くときに、ご自分の仲間と認めてくださるからです。地上でイエスとの関わりを否認する者は、そのとき天使たちの前で否認されることになるからです。地上でイエスとの関わりを認めるか否認するかが、「人の子」が現れる終わりの日に、「人の子」の栄光にあずかるか拒否されるかの分かれ目になるからです。
 これはユダヤ教黙示思想の世界です。たしかにこの語録では、イエスはご自身を終わりの日に天から現れて世界を裁く、あの黙示思想の「人の子」としておられます。ところが、イエスが「人の子」について語られるとき、いつも三人称で指しておられることから、イエスは自分とは別の「人の子」の到来を待ち望んでいたのだと見る説があります(ヴェルハウゼン、ブルトマン)。その説はとくにルカのこの箇所を根拠にして主張されています。しかし、この説はイエスを終末的救済者ではなく、その先駆者に過ぎないとするものであり、マタイ一一・五をはじめとするイエスの多くの言葉と矛盾します。むしろこの箇所は、イエスが自分を「人の子」であるとされていたことを指し示す語録です。
 ところで、共通の「語録資料Q」から取られたと見られるマタイの並行箇所では、「人の子」ではなく「わたし」が用いられています。

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。(マタイ一〇・三二〜三三)

 「人の子」と「わたし」が競合する場合、素朴な「わたし」の方がより原初的な形であると見なければなりません(エレミアス)。以前に「人の子」の用例について見たように、アラム語では「人の子」という句は「ある人」とか「わたし」という意味でも用いられる表現です。イエスが「わたし」という意味で用いられたアラム語のこの句が、黙示思想的傾向が強いパレスチナ・ユダヤ人の中で伝承される過程で、黙示思想の「人の子」と解釈され、黙示思想の「人の子」の表象にいつも伴う「天使たちと共に」が加えられて、(マルコ八・三八の影響もあって?)ルカの形になった可能性も考えられます。
 マタイの形には黙示思想の視点は必要ではありません。この語録は、イエスだけが父に至る道であることを語っています。イエスを拒むならば人は父なる神に至ることはできず、イエスと結びつくときはじめて父との関わりをもつことができると主張しています。それは、イエスこそ父から来られた方、復活して父の御前に出ておられる方だからです。このイエスの仲間になってはじめて人は父の御前で、イエスと共に生きることができるのです。この語録は、人を父と結びつける仲保者はイエスだけであると宣言しています。

「人の子」伝承を重視する「語録資料Q」の流れの中にいるマタイが「人の子」を用いずに「わたし」を残し、もはや「人の子」が理解されない異邦人世界で著作しているルカが、「人の子」という黙示思想的表現を含む伝承を用いている事実は、伝承が福音書記者に用いられる過程の複雑さを垣間見させます。その動機が理解しにくいルカの方が、「語録資料Q」の原型に近いとする見方もあります。

 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒?する者は赦されない」。(一二・一〇)

 イエスが「人の子」であることを語ったルカは、「人の子」に関するもう一つの語録を続けます(マタイはこの語録を別の文脈に置いています)。「人の子の悪口を言う者」は、人々の前でイエスを拒む者です。イエスを「詐欺師」だとか「異端者」などと言って非難し、自分は彼の仲間などではないと言う人たちです。そのような者たちが赦されるというのは、当然彼らが悔い改めてイエスを受け入れたとき、彼らが発したイエスに対する悪口や非難は赦されるということです。福音は、「人の子」であるイエスに対して行った罪は、イエスを十字架につけたことも含めて赦されると宣言します。
 それに対して、「聖霊を冒?する者」は赦されることがないと宣言されます。「冒?する」は「悪口を言う」と同じで、言い逆らうことです。この言葉は、マルコ(三・二八〜三〇)ではベルゼブル論争の場に置かれ、イエスが聖霊によって行っておられる悪霊の追放を、「あれは悪霊の頭によって追い出しているのだ」とした律法学者たちに向けられていました。しかし、ここではそのような文脈はありません。ルカでは、イエスを言い表す者に対する迫害の文脈に置かれています。イエスと「人の子」を結びつけて語った直前の語録を受けて、ここで地上のイエスに対して悪口を言って逆らった者と、聖霊によって告知されている復活者イエスに逆らう者が対比されていると見られます。この理解は、次ぎに置かれている語録(一一〜一二節)が復活後の状況を示唆していることからも補強されます。地上のイエスに逆らうことは赦されても、聖霊として働かれる復活者イエスに逆らい続けるときには、もはや悔い改めて命を受ける可能性はありません。

聖霊に逆らう罪については、拙著『マルコ福音書講解T』169頁の「聖霊に逆らう罪」の項を参照してください。

 「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。(一二・一一〜一二)

 「会堂」はユダヤ教の会堂であり、イエスを信じて言い表す者が律法違反を咎められて会堂での審問にかけられることを指しています。「役人・権力者」はローマの官憲を意味し、異邦人世界での信仰告白がローマ帝国の法廷で追及される事態を指しています。このことをマタイの並行箇所(一〇・一七〜二〇)は「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」と明言しています。
 この状況はイエスの復活後、聖霊によって復活者イエスがユダヤ人と異邦人の両方に告知されている状況を指しています。イエスを言い表すことは、ユダヤ教の中でも外の異邦人世界でも法廷で追及される(ギリシア語では「迫害される」と同語)ことになりますが、そのとき何を言おうかと心配することはないのです。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださるからです。信じる者の中にいます父の霊(聖霊)が、信じる者の中で語ってくださるのです(マタイ一〇・二〇)。その聖霊によって語る者は、いくら強制されても「イエスは呪われよ」と、イエスを否定することはできません。「イエスは《キュリオス》である」と言い表します(コリントT一二・三)。聖霊は、法廷に立たされている信者に語るべき言葉を与え、大胆に語る力を与えて下さいます。初期の迫害時代に、キリストの民は小さい庶民にいたるまで法廷で大胆にイエス・キリストの証しを立てましたが、それは聖霊の働きによる出来事でした。

地上の富

 ここまでイエスはおもに弟子たちに向かって、終わりの日の裁きを前にして、迫害する人々の前に恐れずイエスを言い表すことの重要性を語られましたが、群衆の中の一人が遺産相続の問題でイエスに助力を求めたことがきっかけとなって(一三〜一四節)、この終わりの日が迫っている時に地上の富をどのように扱うべきかを、集まっている群衆一同に向かって説かれます(一五〜二一節)。そして再び弟子たちに向かい、富に頼らず父にだけに頼って「神の国」を追い求めるように説かれます(二二〜三四節)。この小区分の中でも、イエスが語りかける対象が「(群衆)一同に」と「弟子たちに」と変わっています(一五節、二二節)。