市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第13講

71 人々はしるしを欲しがる(11章29〜32節)

 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」。(一一・二九〜三〇)

 先にイエスがなさっている悪霊を追い出す働きを批判した者たちが、「イエスを試そうとして天からのしるしを求めた」(一一・一六)ことに対して、ここでイエスの答えが与えられます。悪霊を追い出し病気をいやすことは、他のユダヤ教の霊能者も行っている。イエスがたんなる霊能者ではなく、今の時代に神から遣わされた預言者であるというのであれば、それを証明する「天からのしるし」を見せよ、という要求です。モーセは紅海の水を分けたり、天からマナを降らせて、神から遣わされた者であることを示しました。神から遣わされた者として、神の力で奇跡を行っていると主張するのであれば、悪霊を追い出すというような地上の「しるし」ではなく、「天からのしるし」を見せよ、と要求したのです。ましてモーセ律法を超える者であるような主張をするからには、モーセを超える「しるし」を見せよ、「モーセは荒野で天からマナを降らせてイスラエルの民に食べさせたが、あなたはそれに勝るどんなしるしを行なうのか」と迫っているのです(ヨハネ六・三〇〜三一)。
 イエスは、そのようにしるしを欲しがる「今の時代の者たち」を「よこしまだ」として、そのよこしまな今の時代の者たちには「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えられます。「しるし」を求めることは不信の現れです。人を信じていれば、その人が言っている言葉だけで、それをそのまま事実であると受け取ることができます。人が言っている言葉がそれだけでは信じられない時は、その言葉が事実であることを証明する言葉以外の何かを要求することになります。その要求はその人の信実を試すことです。昔イスラエルの民は荒野でモーセを試して、モーセが本当に神から遣わされた者であり、モーセが語る言葉が神からの言葉であることを示す「しるし」を求めました(出エジプト記一七・一〜七)。ヘブライ書(三・九〜一一)は、イスラエルの四十年の荒野の旅の期間を、イスラエルが主を試みた時としています。
 イエスを信じないで、「イエスを試そうとして天からのしるしを求めた」ユダヤ人たちに対して、イエスはその不信を嘆き、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とお答えになります。この言葉は、イエスが語られたときには、謎の言葉《マーシャール》です。なぜ預言者ヨナの物語がイエスの信実を示す「しるし」になるのか、その時のユダヤ人には理解できない《マーシャール》(比喩、謎、諺)だったはずです。ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいた後、吐き出されてニネベに行き、神の裁きを宣べ伝え、ニネベの人たちが悔い改めたという、童話のようなヨナの物語が、なぜイエスの信実を示す「しるし」になるのか、理解できなかったと見られます。
 「ヨナのしるしのほかには」という句が理解できないのであれば、イエスの答えは「しるしは与えられない」というのと同じです。並行しているマルコ(八・一二)では、「しるしは与えられない」だけで、「ヨナのしるしのほかには」という句はありません。あってもなくても、イエスの言葉を聴いたユダヤ人には同じであったと思われます。「天からのしるし」を求めるユダヤ人たちに、イエスはしるしを見せることを拒否されます。
 イエスはすでにご自身の受難を見ておられます。そして、復活の約束に身を委ねておられます。弟子たちにはひそかにその秘密を語られましたが、外の者には漏らさないように厳しく命じておられます(九・二一〜二二)。したがって、ご自身の復活が最終的な「しるし」となることを明言はされませんが、それを《マーシャール》(謎)の形で暗示されます。しかし、少数の弟子の他にはその《マーシャール》を悟る者はいません。
 復活者イエスの顕現を体験した共同体は、神はイエスを死者の中から復活させてメシア・キリストとされた、と明白な言葉で告知するようになります。もはや《マーシャール》は必要ではありません。しかし、地上のイエスが《マーシャール》で暗示された「ヨナのしるし」の語録を伝承して、ヨナの物語はイエス復活の予表であることをユダヤ人に語り続けます。あるいは、イエスご自身はマルコが伝えるように、しるしの要求をきっぱりと拒否されたのですが、イエスの復活を告知したパレスチナ・ユダヤ人の活動の中で「ヨナのしるしのほかは」が加えられて「語録資料Q」に記録され、それがマタイとルカに用いられた可能性も考えられます。
 イエスの復活を告知する場では、三日三晩大魚の腹の中にいて陸地に吐き出され、ニネベに行って悔い改めを宣べ伝えたヨナの物語は、三日目に死者の中から復活されたイエスの出来事の予表となります。イエスはご自身を「人の子」として、ご自分の身に起こる「人の子」の受難と復活という奥義を弟子たちには語り出しておられます(九・二二)。その出来事は「今の時代の者たちに対してしるしとなる」のですが、イエスが語られた時には、それは《マーシャール》のままです。しかし、イエスの復活を告知する福音活動においては、明白にイエスの復活こそイエスがメシア・キリストであることを今の時代に指し示す「しるし」となります。

 「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」。(一一・三一)

 イエスは、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」南の国の女王(列王記上一〇・一〜一三)を引き合いに出して、神の言葉を語るイエスを身近に見ながら信じようとしない「今の時代の者たち」の不信の責任を問われます。その不信は終わりの日の裁きの時に問われることになると警告されます。最後の「見よ、ここにソロモン以上のものを」(直訳)という句は、復活者イエスを告知するパレスチナ・ユダヤ人共同体が、「見よ、ここにソロモン以上のものが来ておられるのだ」と宣言して、イエスの言葉に耳を傾けようとしないユダヤ教会堂に向かって警告していると読めば、迫力が倍加します。

 「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」。(一一・三二)

 先に取り上げられたヨナが、ここで終わりの裁きの日に「今の時代の者たち」の不信を告発する証人として登場します。 ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたのに、今の時代のユダヤ人たちは復活されたイエスの告知を聴いても悔い改めないからです。ヨナは象徴的な物語に過ぎませんが、イエスは実際に死の暗闇の中から復活されたのです。その復活されたイエスの告知を聴いても悔い改めてイエスを信じようとしない今の時代のユダヤ人に警告します。

「ソロモンにまさるもの」と「ヨナにまさるもの」は、共に中性単数形の形です。ここでは、ソロモンの知恵とかヨナの象徴的な物語の本体となる事態が起こっているということを意味していると考えられます。その事態(中性単数)は、イエス・キリストにおいて来ているのですから、「ソロモンにまさるもの」と「ヨナにまさるもの」は、「ソロモンにまさる者」と「ヨナにまさる者」の到来を意味すると理解してよいでしょう。