市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第12講

70 真の幸い(11章27〜28節)

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」。しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。(一一・二七〜二八)

 イエスが神の力で病人をいやされるのを見たり、神の知恵で「神の国」の奥義を語られるのを聞いたりしたガリラヤの民衆は、イエスの存在に圧倒されて賞賛を惜しまなかったことでしょう。その中から一人の女性がこのような叫び声をあげた情景は、十分想像することができます。胎と乳房は女性を女性とする器官です。それは子を宿し、産み、育てる女性だけの器官です。偉大な人物を産み、育て、世に送り出すことは、女性の誇りです。それは神からの祝福です。イエスのような人物を産み、育て、世に送り出した母親に対して、女性としての幸せを賛嘆する声が、女性の中から湧き上がります。
 そのような女性の幸いに対する賛嘆の叫びに対して、イエスは別の幸いを指し示されます。すべての女性に胎と乳房はあります。しかし、それがあるからといって、すべての女性が幸いであるとは限りません。イエスはどの女性でも幸いであるうる道を指し示されます。それは「神の言葉を聞き、それを守る人」です。「神の言葉を聞き、それを守る」ことは、どのような境遇の女性にもできます。子がない女性、できの悪い子の反抗に苦しむ母親、不幸な結婚に苦しむ女性、結婚していない女性など、女性の境遇も様々です。その境遇や状況にかかわらず、「神の言葉を聞き、それを守る」ことはだれにでもできます。
 「守る」という動詞は、周囲のユダヤ教世界では律法を守ることを意味していました。しかし、イエスが「神の言葉を聞いて守る」と言われるとき、その「守る」は律法の規定を順守することとは違います。イエスが語られる神の言葉、わたしたちがイエスを通して聴く神の言葉は、わたしたちの行動を外から規制する律法の言葉ではなく、「恩恵の言葉」です。神が無条件にわたしたちを受け入れてくださっているという恩恵の語りかけです。その恩恵に身を委ねて、恩恵の場に生きることが「神の言葉を聞いて、それを守る」ということです。それが「神の支配」の場にいることです。その恩恵の場に生きることが、いかなる境遇にいる女性をも幸いな者にするのです。イエスは先に、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(八・二一)と言っておられますが、これも同じ消息です。
 この語録は、他の福音書にはなく、ルカだけにある語録です。おそらくルカはこれをエルサレム共同体の伝承から受け取ったと考えられますが、この語録を語り伝えたエルサレム共同体の状況にこの語録を置いてみますと、最初期エルサレム共同体の一面をうかがい知ることになります。というのは、母マリアをはじめヤコブら兄弟たちも、イエスの復活後エルサレムに移住して、発足したばかりのエルサレム共同体に加わっており(使徒一・一四)、共同体の中で重要な位置を占めるようになっていたからです。
 イエスを復活したメシアと信じるユダヤ人たちの共同体で、イエスを産んだ母マリアに対する賛美が湧き上がり、マリアを特別な目で見るようになるのは自然の勢いです。それに対して、共同体はこのイエスの言葉を(八・二一と共に)語り伝えることで、肉親のつながりが霊の共同体を支配することを抑えようとしたのではないかと推察されます。「肉は何の役にも立たない」というヨハネ福音書(六・六三)の言葉も、これと同じ流れにあると思われます。もっとも、「主の兄弟ヤコブ」が後にエルサレム共同体を代表するようになり、指導的な立場に立つようになります。それはイエスとの肉親関係が信仰共同体の中でも重視されていた結果とも見られますが、ユダヤ教共同体における長老会議の制度とヤコブの義人としての評価の結果でもあり、肉親関係だけではありません。エルサレム共同体での使徒たちとイエスの家族との関係は複雑な様相を見せています。

最初期前期(七〇年まで)のエルサレム共同体におけるイエスの家族の位置については、拙著『福音の史的展開T』264頁の「主の兄弟ヤコブ」の項を参照してください。

 このように、イエスを産んだ肉親の母親を賛美することを戒めるイエスの言葉があるにもかかわらず、後世のキリスト教会はイエスの母マリアを崇拝するようになり、マリアに向かって祈り、マリアの像を祭壇に置くに至ります。ついには、神の子であるキリストを産んだのですから、マリアを「神の母」と呼ぶようになり、そう呼ぶことを拒否した司教を異端とするまでになります。マリア崇拝の起源は複雑ですが、後世のキリスト教会のマリア崇拝は、どう見ても福音にふさわしいものとは言えません。