市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第7講

65 善いサマリア人(10章25〜37節)

「旅行記」とルカの特殊資料

 「七十二人の派遣」記事に続いて、ルカは「善いサマリア人」のたとえを置いています。ルカがどのような意図とか目的でこのような配置にしたのかを推察することは困難ですが、ルカは彼だけが持っている特殊資料(L)のたとえ話をすべて「旅行記」に配置しています。この「善いサマリア人」のたとえをはじめ、有名な「放蕩息子」、その他「愚かな金持ち」、「失った銀貨」、「不正な管理人」、「金持ちとラザロ」などの印象深いたとえ話はみなこの「旅行記」の中に置かれています。
 この「旅行記」には、ルカの特殊資料Lからだけでなく、マタイと共通の「語録資料Q」からのたとえや記事も多く収録されています。ルカは基本的にマルコの構成を受け入れながらも、マルコにはない「語録資料Q」と自分の特殊資料(L)からの素材を置く場所として、マルコのガリラヤとエルサレムという二極構造の中にサマリアとユダヤという地理的な場を舞台とする「旅行記」を割り込ませたのではないかと推察されます。そうすると、「旅行記」と呼ばれながら実際の行程の記事がほとんどないという現象もうなずけます。
 先に「序論・ルカ二部作の成立」の「第四節・ルカの資料と叙述」で見たように、ルカはエルサレム、アンティオキア、カイサリア、エフェソ、ローマ、その他の地中海地域を広く旅行したり滞在して、各地に伝えられているイエス関連の伝承と福音活動の資料を集めていました。その中のルカだけが持っている特殊資料の素材をここに集中して配置しています。その結果、この「旅行記」は、ルカだけが伝えている貴重な伝承の宝庫となり、ルカの特色を色濃く出している魅力ある部分となっています。その価値は、「善いサマリア人」や「放蕩息子」のたとえのない福音書を想像してみると分かります。

永遠の命への問い

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。(一〇・二五)

 「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」という問いは、当時のユダヤ教徒の最大関心事でした。ここでの「永遠の命」は、来るべき世での命を指しています。旧約聖書ではダニエル書(一二・二)に最初に現れ、その後ユダヤ教世界が黙示思想的傾向を強めて「来るべき世」の待望に生きるようになるのに伴い、その世において神の祝福を受け、神の栄光にあずかるようになることが「永遠の命」として、ユダヤ教徒の宗教生活の目標となります。
 その命は、この世において獲得するものではなく、神が終わりの日にもたらされる「来るべき世」のものであることは、「受け継ぐ」という表現にも表れています。その日に神から資格のある者と認められて、相続分として受け継ぐ命です。昔イスラエルの諸部族が約束のカナンの地を受け継いだように、終わりの日に神の民は、来るべき世に約束された朽ちることのない永遠の祝福と栄光を受け継ぐとされ、その命を受け継ぐ資格があると認められるにはこの世で何をするか、どのように生きるかが最大の問題となっていました。
 同じ問いをある資産家がイエスにしたことが、マルコ福音書(一〇・一七以下)に伝えられています。この物語は三つの共観福音書すべてにあり、マタイ(一九・二〇)では「青年」とあって若い資産家であり、ルカ(一八・一八)では「議員」となっています。その人に対するイエスの対応についてはそれぞれの箇所で扱っていますが、ここではルカの特殊資料に伝えられたこの場合について見ていきます。
 質問をしたのは「律法の専門家」《ノミコス》です。この用語はルカだけに出てきます。ユダヤ教徒向けに書いているマタイでは「律法学者」《グラマテュース》だけですが、異邦人の間で書いているルカは、資料にある「律法学者」も使っていますが、一般のローマ社会で「法律家」を指す用語《ノミコス》も使ってユダヤ教の律法学者を指しています(七・三〇、一一・四五、一四・三など)。

ここで用いられている《ノミコス》がローマ社会の法律家を指す用例は、テトス書三・一三の「法律家ゼナス」に見られます。ルカ文書と牧会書簡の間にはある種の親近性が認められ、牧会書簡の著者をルカとする研究者もいます。なお、新共同訳のマタイ二二・三五にある「律法の専門家」《ノミコス》は、写本上の支持は少なく、後の時代の挿入と見られます。

 彼は「イエスを試そうとして」この質問をします。金持ちの青年は同じ質問を、自分の永遠の命運に関わる問題として真剣に問いかけています。それに対して律法学者は、自分たちの立場に真正面から挑戦するようなイエスの教えの矛盾と誤りを暴き、イエスを陥れるために質問します。イエスの対応もおのずから違ってきます。

「何をすべきか」の立場

 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。(一〇・二六〜二七)

 律法学者のこの質問に対してイエスは、「律法には何と書いてあるか」と逆に問われます。この問いは、「もしあなたが何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるかと問うのであれば、その回答は律法に書いてあるではないか。律法は何をすれば神に喜ばれるかを指し示しているではないか」と指摘しておられるのです。その上で「あなたはそれをどう読んでいるか」と、その人の受け取り方を問われます。
 この律法学者の答えは、当時のユダヤ教の律法理解を要約しています。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、ユダヤ教徒が日々唱える「シェマー」(申命記六・四〜五)の言葉で、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主《ヤハウェ》は唯一の主である」という根本信条に続く、最も重要な戒めです。
 律法学者は、この戒めに「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記(一九・一八)の戒めを加えて、この二つが律法全体を要約していると、自分の律法理解を申し述べます。これは当時のユダヤ教の標準的な律法の要約であり、イエスも律法全体がこの二つの律法にまとめられることを認めておられます(マルコ一二・二九〜三一)。イエスはその答えに対して、「正しい答えだ」と言っておられます。しかし、正しい答えをすれば永遠の命が得られわけではありません。正しい答えをしたその律法学者にイエスは次のように言われます。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。(一〇・二八)

 同じ質問をした若い資産家(議員?)にもイエスは同じように、何をしたらよいかは律法に書いてあるではないかと指摘し、基本的な律法を引用しておられます(一八・二〇)。それはすべて守ってきましたという青年に、イエスは「あなたには一つ足りないものがある」と言って、永遠の命は律法を行うことによって得られるものではないことを指し示し、すべてを捨てて(=自分の価値を捨てて)イエスと一緒に命の道に従うように招いておられます。
 それに対して、イエスを試みるためにこの質問をした律法学者には、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と突き放して、律法を実行すれば命が得られるという彼の立場に放置しておられます。永遠の命は律法を実行して得られるものではなく、神の恩恵の賜物です。「何をしたらよいか」という問いの立場そのものの誤りに気づかなければならないですが、彼はあくまで律法を実行すれば命が得られるという立場に固執して、その立場で次の質問をします。

隣人とは誰か

 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。(一〇・二九)

 この律法学者は、昼も夜も律法を研究し、その律法に従って神の御心を行うように毎日熱心に努力していたので、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めは十分に守っていると考えていたのでしょう。それで、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを守っていると認められるならば、それで律法を実行していることになり、永遠の命を得ることができることになる、と考えたのでしょう。自分は日頃接する人たち、家族や仲間、同じ契約に属する同胞ユダヤ人に善くしているのだから、もしこの戒めの「隣人」がこの範囲の人を指すのであれば、自分は十分律法を実行していることになり、「義人」として命を得ることになるのではないか、そういう結論を期待して「わたしの隣人とはだれか」という質問をイエスにします。「自分を正当化しようとして」と訳されている句は、原文では「自分を義としようとして」という表現です。
 律法学者の「隣人とはだれか」という質問に、イエスは客観的に隣人の範囲を限定する境界線を引くのではなく、一つのたとえを語って、律法がわたしたちに求めているところを指し示されます。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」。(一〇・三〇〜三二)

 エリコはエルサレムから東へ約二七キロにあり、死海の方に下る道を五時間ないし六時間行かなければなりません。その道は荒野を通る道で、「追いはぎ」に襲われる危険の多い道でした。この「追いはぎ」《レーステース》という語は、たんなる物取りの盗賊ではなく、イエスの時代に活動していた武装革命家を指していました。彼らはイスラエルを異教の支配者から解放するために武力闘争を辞さず、必要に迫られた場合は同胞のユダヤ人からも金品を奪うことがありました。《レーステース》(強盗)というのは、このような熱心党系の者たちをローマ側から呼んだ名称です。
 イエスの時代にはこのような「追いはぎ・強盗」が横行し、エルサレムからエリコに下る寂しい道は、彼らの格好の稼ぎ場になっていました。イエスがこのたとえを語るのに、一般的に「寂しい道」とされず、具体的に「エルサレムからエリコに下る道」とされたことに、時代の状況が反映しており、イエスがこれを語られたことを印象づけています。
 追いはぎ(複数形)に襲われた人はユダヤ人であることが、当然のこととして前提されています。襲ったユダヤ人「追いはぎ」も同胞の命までは奪わなかったようです。半殺しにされて横たわっているこのユダヤ人の側を、同胞の祭司やレビ人が通り過ぎますが、彼らは見て見ぬふりをして通り過ぎて行きます。襲われた人も、見過ごした祭司やレビ人も、エリコからエルサレムの神殿に詣でたり、そこで奉仕したりしたユダヤ人であり、エリコに帰るところであったと考えられます。

 「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」。(一〇・三三〜三五)

 ところが、そこに旅をしていたサマリア人が通りかかります。彼は半殺しにされて横たわっている人を見て「憐れに思い」ます。ここにも、イエスについてよく用いられている、《スプランクナ》(内蔵)を語幹とする「憐れむ」という動詞が用いられています。イエスは苦しむ者に対する御自身の深い憐れみの心をこのたとえの登場人物に投影しておられます。このサマリア人は、普段は交際のないユダヤ人を親切に介抱します。イエスはその親切ぶりをきわめて具体的に生き生きと描いておられます。しかし、このたとえの重点は彼の親切ぶりではなく、彼がサマリア人であることです。ユダヤ人はサマリア人を、異邦人の血が混じった民、モーセ律法を誤った形で継承している異端的な宗教の民、汚れた民として軽蔑し、いっさい交際をしませんでした。そのサマリア人が、自分を差別し軽蔑しているユダヤ人を憐れみ、親切に介抱したのです。

 「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。(一〇・三六〜三七)

 律法学者は「わたしの隣人とはだれですか」と質問しています。それに対してイエスは、「だれが隣人になったか」と問い返しておられます。律法学者の質問は、隣人の範囲を限定する線を引いて、その範囲内の人は愛しているのだから律法を満たしている、という自己義認の願いが潜んでいます。それに対してイエスは、隣人の範囲を限定する線を引くのではなく、どのような関係の人でも、助けを必要とする人を見たら、その人を助けることで「隣人になる」ように神は求めておられるのだとされます。それが「隣人を自分のように愛しなさい」という律法が求めるところだとされます。
 「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われて、律法学者は「その人を助けた人です」と答えます。そう答えざるをえません。神の求められるところを、イエスは律法の細々とした解釈を重ねて示すのではなく、生き生きとしたたとえを語って、律法の根底・根幹を納得せざるをえないようにされます。その知恵に驚きます。これは、イエスが絶対恩恵の場で敵をも愛する愛に生きおられ、苦しむ人を憐れみ、すべての人の隣人となって生きておられるところから出る知恵です。それがこのようなたとえを自然に語り出させるのです。
 ここでも、「その人を助けた人です」と正しい答えをした律法学者に、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言っておられます。このたとえを聞いて神の求めておられるところを悟り、そこでこのイエスの呼びかけを聞いた者は、助けを必要とする人のところに行って、その人の隣人となろうとせざるをえません。この「善きサマリア人」のたとえは、その後の二千年のキリスト教の歴史において、助けを必要とする人たちに民族や国境の壁を越えて援助の手を差し伸べる運動の源泉となり、原動力となってきました。
 ここで倒れていた人を助けたのは同胞のユダヤ人ではなくサマリア人であったということをイエスが語られたのは、隣人愛の戒めは同胞の間だけでなく民族の違いを超えて行わなければならないということを求めているだけではありません。それは宗教の違いを超えて「隣人となる」ことを求めています。
 当時のユダヤ人とサマリア人の対立は宗教的な対立でした。ユダヤ人というのはユダヤ教徒のことであり、サマリア人というのはサマリア教徒のことです。同じモーセ律法を聖典としていただきながら、エルサレム神殿での祭儀で神を礼拝するユダヤ教徒とゲリジム山で礼拝するサマリア教徒は、互いに異端視し、相手を汚れた民として一切の交際を絶っていました。このたとえのサマリア人(サマリア教徒)は、この宗教上の対立という壁を越えて、人間同士としての憐れみからユダヤ教徒を助けたのです。神が求めておられる隣人愛は、宗教の枠の中に閉じこめられてはならないのです。それは民族や国家の境界を超える(international)だけでなく、宗教の違いをも超え(interreligious)、文明間の対立をも超える(intercivilizational)ものでなければなりません。

たとえの寓喩的解釈

 ところで、この「善いサマリア人」のたとえ話は、キリスト教の歴史においてしばしば寓喩として解釈されてきました。その代表的な例として、アウグスティヌスの解釈をあげておきます。

「ある人がエルサレムからエリコに下っていった」というのは、アダム自身を意味している。「エルサレム」は天にある平和の都である。その都の浄福からアダムは堕落した。「エリコ」は月を意味しており、またわれわれの死ぬべき性質を意味している。なぜなら、月は生まれ、満ち、かけて、死するからである。「強盗ども」は悪魔とその使い達である。「その着物をはぎとり」とはその人の不死性をはぎとることである。「彼を打ちたたき」とは、その人を罪を犯すように説きすすめることである。「半殺しにしたまま逃げ去った」というのは、こういうことである。人間は、神を理解し知ることができる限りにおいて生命をもち、罪によって弱められ、圧倒されている限りにおいて死んでいる。ゆえに彼は「半殺し」とよばれているのである。これを見て向こう側を通っていった「祭司」と「レビ人」は、旧約聖書の祭司職と教職者を意味し、救いのためには何ら益なきものである。「サマリア人」は守護の天使を意味する。それゆえ、主ご自身がこの名で意味されているのである。その傷に「ほうたいをしてやった」とは、罪を抑制することである。「オリブ油」とは、よき望みを与えて慰めることであり、「ぶどう酒」とは、熱い霊に満たされて働くようにとの勧めである。「家畜」とは肉のことであり、その肉の姿で主はわれらのところに来られるように計画されたのである。「家畜にのせ」たとは、キリストの受肉を信じることである。「宿屋」は教会であり、天の国へ帰ってゆく旅人達が巡礼の旅を終えた後、元気を回復する所である。「翌日」とは主の復活の後のことであり、「二デナリ」とは愛の二つの訓戒か、またはこの世の生命と来るべき世の生命の約束かである。「宿屋の主人」は使徒(パウロ)である。余分の支払いは、使徒の独身の勧めであるか、または、彼が自分の手で働いたという事実である。「福音によって生活すること」は、彼にとって正当なことであったが、新しく福音に接した弱い兄弟達の誰にも重荷にならぬようにと自分で働いたのである。
     (C・H・ドッド『神の国の譬』(室野・木下訳、日本基督教団出版部)14頁以下の
        Quaestiones Evangeliorum 16 の抄録)

 まことに見事な寓喩化です。イエスが語られたたとえの語句の一つ一つの言葉に具体的な意味内容を持たせて、人間の救済についての説話を作り上げています。そのような福音書の記事を素材とする説教もそれなりの意味はありますが、それがこのたとえの真意だとすると、イエスがこのたとえで語りかけようとされた(前述の)核心が見えなくなる恐れがあります。
 イエスのたとえを寓喩として解釈することは、実は福音書の時代から始まっています。先に「種を蒔く人」のたとえのところで、イエスがそのたとえの意味を説明されたという記事がありました(八・一一〜一五)。その箇所の講解で述べたように、実はこの説明はイエスご自身のものというよりは、最初期の福音告知活動の状況において、御言葉(=福音)を聴く姿勢について勧告する寓喩になっています(拙著『ルカ福音書講解T』359〜361頁参照)。聖書(旧約聖書)の記事を寓喩として解釈する聖書解釈法は、すでに一世紀のアレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンにも見られましたが、その後のヘレニズム文化の中で成長し活動した教会は、そのヘレニズム哲学や宗教の得意の手法を継承し、福音書の寓喩的解釈を発展させてきました。ここにあげたアウグスティヌスの寓喩的解釈はその典型となります。
 アウグスティヌスの解釈は彼が置かれていた教会的状況における説教として有益であり、傾聴すべきものですが、わたしたちはやはり、寓喩化される前のイエスが語られたときの原意を第一に探求すべきです。その上で、そのたとえを通して示されたイエスの精神を現代の状況の中で生きていくことが求められています。