市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第5講

63 七十二人、帰って来る(10章17〜20節)

イエスの名の権威

 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。(一〇・一七)

 「七十二人の派遣」の記事がイエス復活後の弟子たちによる福音告知の活動を反映するものであるならば、これは彼らの伝道活動において多くの奇跡が伴ったことを報告していることになります。彼らはイエスの名によって病人に手を置いていやし、悪霊を追い出しました。イエスは十二人を派遣するときに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」とされています(九・一)。復活後の伝道活動においても、この「十二人」を中核とする弟子たちは当然このような悪霊に打ち勝つ権能が与えられていることを確信し、「イエスの名によって」、すなわちイエスから派遣された使者として「神の国」の福音を告知し、病人をいやし悪霊を追い出すなどの働きをしたはずです。パレスチナやシリアの巡回預言者(巡回伝道者)が、イエスの名によって奇跡を行ったことは、マタイ福音書(七・二二)の記事にもその痕跡を留めています。

 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。(一〇・一八〜一九)

 悪霊までがイエスの名による命令に従う事実に驚く弟子たちに、イエスはその根拠を明らかにされます。イエスは悪霊の頭であるサタンがすでに天から落ちて支配権を失っていることを知っておられます。イエスはすでにサタンとの終末的な決戦に勝利しておられます。復活されたイエスは、御自身が「天と地の一切の権能を授かっている」者であることを宣言されます(マタイ二八・一八)。そして、御自身がサタンに打ち勝って得られたその権威と権能を弟子たちにお授けになっているのです。だから弟子たちは、敵からの危害を受けることなく、敵対する霊力を踏みつけることができるのです。「蛇やさそり」は、敵対する霊的な諸力を象徴しています。

ここでイエスが「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」ことに言及されるとき、それは「見た」という一回的な出来事ではなく、「見ていた」と継続的な出来事を指す時制(文法的にはアオリストではなくインパーフェクト)が用いられています。しかし、この「見ていた」はイエス復活後の弟子たちの働きの期間に限定する必要はありません。イエスはすでに「荒野の試み」でサタンに勝利し、地上での働きのときに、悪霊を追い出す力ある働きでその勝利を証しされ、その勝利を比喩で語っておられます(マルコ三・二七)。その勝利は復活によって世界に公示され、復活されたイエスは弟子たちの働きの中にサタンの支配の崩壊を見続けておられるのです。

 ここのイエスの言葉は、マルコ福音書の付加部分(一六・九以下)にある次の一段を思い起こさせます。これは復活されたイエスが弟子たちを福音告知の働きに送り出されるときに語られた言葉として伝承されていたものです。

 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。(マルコ一六・一五〜一八)

 この文章は、ルカ福音書の「七十二人の派遣」記事を要約するような内容になっています。信じない者に対する滅びの宣告や、イエスの名による病人のいやしや悪霊の追放など、信じる者に伴う「しるし」、蛇や毒からも害を受けない神の守りの約束など、ここまでに見てきた「七十二人の派遣」記事の内容を網羅しています。マルコ福音書の記事は明らかに復活後のイエスの派遣命令ですから、この二つの記事の相似は、ルカの「七十二人の派遣」記事がイエス復活後の弟子たちの福音告知活動を描いているという推察をますます確かなものにします。

マルコにあってルカにない「新しい言葉を語る」は、最初期共同体に見られた「異言」の現象を指していると考えられます。ルカは異言の現象をよく知っており、第二部の「使徒言行録」で記録していますが、地上のイエスのことを語ることを原則としている第一部の福音書では、この現象には触れていません。

天に名が書き記される者

 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。(一〇・二〇)

 これは、派遣された七十二人が帰って来て、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言って、悪霊を服従させた体験を「喜びをもって」報告した(一七節)ことに対するイエスのお答えです。このようなイエスの語録は、十二人が福音告知の活動から帰ってきて活動の結果を報告したときに(九・一〇)イエスが実際に語られたお言葉が伝承されていて、ルカがそれをこの「七十二人の派遣」記事の構成に用いたと考えられます。その構成に際して、ルカは一八〜一九節の黙示思想的表現を挿入して、その事実(悪霊がイエスの名に服従する事実)を根拠づけます。この表現は、先にマルコ福音書の付加部分との比較で見たように、パレスチナやシリアにおける最初期の福音活動が強い黙示思想的色彩を帯びていたことを垣間見させます。

弟子たちは「悪霊ども《ダイモニア》」と言っていますが、ここでは「霊たち《プニューマタ》」と言われています。ルカではこの二つの用語は互換的に用いられています。

 イエスは弟子たちに、諸霊を服従させる霊力を授かっていることを喜ぶのではなく、自分の名が「天に書き記されている」ことを喜ぶように諭されます。「名が天に書き記されている」という表現は、旧約聖書において「(命の)書に書き記される」という形で出てきていますが(出エジプト記三二・三二、詩編六九・二八、イザヤ四・三、ダニエル一二・一など)、神の民の名簿に登録されていることを意味するその表現がここで継承されています(新約聖書では他にフィリピ四・三、黙示録三・五、一三・八に見られます)。
 わたしたちは信仰生活において、ともすると霊的な成果や現れ(様々のカリスマなど)、また実際生活に現れた祝福などを喜び誇りますが、わたしたちが喜ぶべきことは、そのような結果ではなく、そのような結果を生み出す源泉、すなわち主イエス・キリストにあって神の子とされている事実、神の恩恵の場に置かれている事実にこそ目をとめて、それを喜び感謝すべきであることがここで諭されています。