市川喜一著作集 > 第18巻 ルカ福音書講解U > 第3講

61 七十二人を派遣する(10章1〜12節)

「七十二人の派遣」記事の性格

 この「七十二人の派遣」はルカだけにある記事で、その歴史性と意義が論争されています。ルカはすでにイエスのガリラヤでの活動期間の最後に「十二人」派遣の記事を置いて、ガリラヤでの活動時期を締めくくっています(九・一〜六)。そして、イエスがエルサレムに顔を向けて旅を始められたことを明記した後に(九・五一)、この「七十二人の派遣」の記事を置いています。では、「御自分が行くつもりのすべての町や村」とはどこを指すのでしょうか。このルカだけにある「七十二人の派遣」の記事は、その位置からだけでも、解釈者にこの記事の性格について考えさせます。
 「七十二人の派遣」は、この「七十二人を派遣する」の段落だけでなく、これに続く「悔い改めない町を叱る」、「七十二人、帰って来る」、「喜びにあふれる」の段落を含め、一〇章一節から二四節に至る一つの区分(セクション)を用いて描かれています。それでまず、「七十二人の派遣」を主題とする一〇章一〜二四節の区分の性格を全体として考察してみましょう。
 この「七十二人の派遣」のセクション(一〇・一〜二四)は、それがエルサレムへの旅が始まった後に置かれているという事実からも、ガリラヤ時代の最後に置かれている「十二人の派遣」の記事(九・一〜六)とは性格が違うことを示唆しています。「十二人の派遣」の記事はマルコにあり、マタイとルカはほぼマルコの記事をそのまま引き継いで語っています。それに対して「七十二人の派遣」の記事には、マルコにはなくマタイと共通している資料、すなわち「語録資料Q」からのものと考えられる記事が圧倒的に多く、「語録資料Q」を生み出したパレスチナのユダヤ人の信仰運動の状況を反映していることがうかがわれます。
 「十二人の派遣」の記事は、十二人の名前をあげて、イエスの地上の働きの時期のものであることが具体的に示されていますが、それに対して「七十二人の派遣」の記事は具体的な名はなく、「七十二」という象徴的な数(後述)だけで語られ、派遣先もガリラヤなど具体的な地名を特定することはできず、また(多くの研究者が認めているように)派遣の言葉も様々な機会に語られた言葉が収集され編集されたものであることなど、これがイエス復活後に「語録資料Q」を生み出したパレスチナのユダヤ人の信仰運動の状況を反映していることを指し示す指標が多くあります。
 「七十二人の派遣」の記事は、イエスの時代の出来事ではなく、イエス復活以後のパレスチナにおける状況を反映した記事であることは、マタイとの比較からも示唆されます。マタイ福音書では弟子の派遣は一〇章にまとめられていますが、その中で前半の五〜一五節はイエスの時期の「十二人の派遣」のときのイエスの言葉ですが、後半の一六〜二五節はマタイの時の状況を反映しています。その違いは、「十二人の派遣」のときは「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われているのに対して、一六節以下では「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」(一八節)と異邦人世界での伝道活動が語られており、さらに終末時の苦難を預言する「マルコの小黙示録」(マルコ一三章)を引用して弟子たちが受ける迫害を予告していることからも、十分明らかです。

マタイの弟子派遣の記事の構成については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』の「第五章・弟子の派遣」を参照してください。

 マタイはこの二つの状況(イエスの時の状況とマタイの時の状況)を重ねて、一つの「十二人の派遣」の記事に構成しましたが、ルカはその二つの状況を別々の派遣記事に構成したのではないかと推察されます。すなわち、イエスの時の弟子の派遣は「十二人の派遣」の記事(九・一〜六)にして、イエス復活後の弟子たちの状況は「七十二人の派遣」の記事(一〇・一〜二四)に構成したのではないかと考えられます。この推察が正当で根拠があるかどうかは、このセクションのテキストを検討した後で判断されることですから、この視点からこのセクションを検討してみたいと思います。

収穫を前にして

 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた(一〇・一)。

ここを「七十人」と読む有力な写本が多くあります。底本は「七十」の後に「二」を括弧に入れて加えています。NRSVは本文で「七十人」とし、欄外の注で「七十二人と読む写本もある」としています。「七十」(聖数七の十倍)も「七十二」(十二の倍数)もユダヤ教では象徴的な意味を担う数で、互換的に用いられています。たとえば、ギリシア語訳旧約聖書は、その成立を語る「アリステアスの手紙」では、七十二人の翻訳者によって七十二日で行われたとされていますが、一般には「七十人訳ギリシア語聖書」と呼ばれています。また、創世記一〇章の「民族表」にある世界の民族の数は、ヘブライ語聖書では七十ですが、七十人訳ギリシア語聖書では七十二となっています。「七十」も「七十二」も共に世界の民族の数を指し、全世界を象徴する数です。この数の象徴性は、この記事の性格を理解する上で一つの示唆となります。

 「十二人の派遣」の場合には「イエスは・・・された」でしたが、「七十二人の派遣」の場合は「主は・・・・遣わされた」となっています。ルカは「主」《ホ・キュリオス》をごく日常的な場面でも用いていますから、この称号が使われているからといって直ちにここが復活されたイエスの働きを描いているとは言えませんが、ナインの寡婦の息子を生き返らされときにもこの称号が使われていたように、ここでもこの派遣が復活されたイエスによる派遣であることを語る伝承が自然に、この記事の主語をイエスではなく、復活者イエスを指す「主」《ホ・キュリオス》という称号を選ばせたと見ることもできます。従ってここでの「主」称号の使用は、「七十二人の派遣」記事が復活者イエスによる派遣の記事であると見る論拠の一つになります。

ナインの寡婦の息子を生き返らせた方が「イエス」ではなく「主」《ホ・キュリオス》と呼ばれていることの意義については、拙著『ルカ福音書講解T』316頁の「主《ホ・キュリオス》の働き」の項を参照してください。

 派遣される弟子の数が七十二人(あるいは七十人)という象徴的な数で語られているのは、この記事が具体的な出来事の記録ではなく、イエス復活後の広範な福音告知の活動を描いていることを示唆しています。記事のこのような性格から、派遣される地域も特定されず、「御自分が行くつもりのすべての町や村」という一般的な表現になっています。

 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。(一〇・二)

 このイエスのお言葉はマタイにもあり、「語録資料Q」から取られていると見られます。ただこのお言葉は、マタイでは弟子の派遣の前に置かれていますが(マタイ九・三七)、ルカでは派遣説教の中に置かれています。どちらにしても、イエスが「収穫」という比喩を用いて、神の支配到来の切迫と、その時に備えるための福音告知の働きの緊急性を語り出し、神の支配到来のために準備をする働き手がさらに多く送り出されるように祈るように求めておられる点は同じです。
 地上のイエスと少数の弟子は、ごく限られた地域にしかその声を聞かせることができませんでした。しかし、復活されたイエスはより多くの弟子を派遣して世界の隅々にまで福音を告知して、「収穫」に備えようと願われます。そして、そのイエスの願いに弟子たちが身を投じるように求められます。この復活者イエスの意志に応えることが、すべての福音告知活動(ミッション)の原点です。
 「収穫」は世の終わりです。収穫の時は迫っています。「収穫の主」である神は、世界の隅々から御自身の民を集めようとされますが、呼び集める働きをする働き手が少ないのを嘆かれます。そして、弟子たちにこの働きに参加するように求められます。

 「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」。(一〇・三)
 このお言葉もマタイにあり、「語録資料Q」からのものと見られます。マタイでは、派遣説教の後半部(復活後の状況)を始める位置に置かれています(マタイ一〇・一六)。ご自身で激しい批判と迫害を体験されたイエスは、弟子たちが遭遇する迫害を見通して、このような狼と子羊の比喩で、弟子たちに覚悟を促されます。復活されたイエスにより派遣されてパレスチナ・シリアの地域でイエス・キリストを告知した最初期の巡回伝道者が、周囲から激しい反対と迫害を受ける状況で、このお言葉を伝承したのでしょう。

派遣された者の働き

 イエスは派遣される働き手に、その働き方について具体的な指示をお与えになります。

 「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」。(一〇・四〜七)

 この指示を「十二人の派遣」の場合(九・三〜五)と較べますと、旅には何も待たず、ただ神が備えてくださるものだけに頼って進めという指示は同じですが、「十二人の派遣」の時の「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」という具体的な指示に較べると、ここでは「財布も袋も履物も持って行くな」と、やや簡略にまとめられています。しかし、「途中でだれにも挨拶をするな」という指示が加えられています。これは、当時のベドウィン的な環境での挨拶の慣行で、身の安全と便宜のためにキャラバンに挨拶して一行に加えてもらうようなことをして、旅程を遅らせてはならないという意味とも考えられますが、それに限らず一般的に知人の家を訪問して安逸に時を過ごすなという意味も考えられます。いずれにせよ、使者の働きが急を要するものであることが強調されています。
 この最初の旅の緊急性を語る箇所(四節)と、最後の使者の働きの二つの内容(九節)、すなわち病人をいやすことと神の支配の切迫を告知することは「十二人の派遣」の場合と同じです。ところが、中間部の迎えられた家での振る舞いを指示する所(五〜七節)は、「十二人の派遣」の場合の「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」(九・四)と較べると、ずっと詳しくなっています。
 イエスの使者として、「この家に平和があるように」というメシア的な平和《シャローム》の使信を携えて入ってきた弟子を迎え入れる家の主(あるじ)は、「平和の子」であり、使者がもたらしたメシアの平和はその人にとどまります。使者を受け入れる者は、その使者を遣わした方を受け入れているのですから。その家がイエスの使者を拒むならば、使者がもたらした平和は、その家に入らず、使者に戻ってくるだけです。「平和の子」がいて家に迎え入れられるならば、その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲み、その家を拠点として使者としての働きを進めなさい、と指示されます。働く者が報酬を受けるのは当然だからと言われていますが、その報酬は神からの報酬であり、神が使者の働きをさせるために与えてくださっているものです。さらによい待遇を求めて、家から家へと渡り歩くようなことをしてはならないとも念を押されます。神が備えてくださった拠点に腰を据えて、その町で働きを進めるように促されます。
 このような具体的な指示は、イエス復活後の時期に町から町へと巡回してイエスの教えを広めた巡回預言者(伝道者)と、彼らに拠点を提供した定住の信者の家の関係を反映しているものと見られます。このような巡回預言者(伝道者)がパレスチナやシリアで活躍したことは、マタイ福音書(七・二一〜二三)や使徒時代直後に成立した「ディダケー」などからも知られています。このような巡回伝道者に関する具体的な指示の記事も、この「七十二人の派遣」記事がイエス復活後のものであることを示唆する材料の一つとなります。

使者を迎え入れる町と拒む町

 「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」。(一〇・八〜一一)

 続いて、このような「神の支配が近づいた」というイエスの使者の終末使信を受け入れる町と拒む町の対比が取り上げられます。ここで、イエスを受け入れるとか拒むという行動の単位が、個人ではなく町であることが注目されます。イエスがガリラヤで神の国を宣べ伝えられたときには、個人がイエスを信じていやされたり罪の赦しを受けたりして救いを体験していました。町単位で信じたり拒否したりして、救いと祝福を受けたり断罪されることはありませんでした。ところがここでは、町が祝福されたり断罪されています(このことの意味は後述)。とくに断罪の言葉が詳しくて印象的です。この事実も、イエスの状況と「七十二人の派遣」の記事の状況が違うことを示唆しています。
 イエスからの使者を受け入れる町については、その町の病人をいやし、神の栄光と祝福に満ちた支配があなたがたに近づいている、すなわちあなたがたがその栄光と祝福にあずかる日が近いと宣言されます。それに対して、使者を拒む町については、去るときに広場に出て、「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す」と言って、以後この町とはいっさい関わりがないことを宣言し、その上で「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と宣言されます(この場合には「あなたがたに」はありません)。ここでは迫っている「神の支配」は全世界に対する神の審判を指し、使者を拒んだ町がその責任、メシアであるイエスを拒んだ責任を問われることが宣言されています。しかもその責任に対する処罰はソドムよりも重いものになるとされます。その理由は次の段落で語られることになります。