市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第53講

57 いちばん偉い者(9章46〜48節)

小さい者

 イエスが語り出された受難の予告を理解できない弟子たちは、自分たちの理解でメシアとしているイエスがエルサレムに入られる時に実現する栄光を期待して、その時には「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論をし始めます。

 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。(九・四六)

 この場面も、ルカはマルコ(九・三三〜三七)の記事をかなり大幅に簡略化しています。マルコによると、この場面は一行が山から下りてカファルナウムに帰って来たときの出来事になっています。イエスはいよいよ受難の地エルサレムに旅立つ前、ガリラヤ伝道の本拠地となっていたカファルナウムでしばしの時を過ごされます。その時にもなお、人の上に立つことだけを考えている弟子たちに、イエスは神の国における在り方を教え諭さなければなりませんでした。イエスは一人の子供の手を取り(マルコではさらに「抱き上げて」)言われます。、

 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われます。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。(九・四七〜四八)

 イエスが指し示される「子供」は、無邪気とか純粋さの象徴ではなく、自分では何もできない「小さい者、低い者」の象徴です。存在する価値もないとして社会で無視されている者の象徴です。このような「小さい者」を「イエスの名のために受け入れる」とは、イエスがそのような小さい者を愛し、ご自分を一つにしておられる故に受け入れることです。自分にはそうする理由は何もありませんが、イエスがそうされ、またわたしたちにそうすることを願われる故に、そのような小さい者を受け入れ、自分をその小さい者と同じ場に置くことです。
 そのように「小さい者」を受け入れる者は、イエスを受け入れているのです。その「小さい者」とイエスが一つになっておられるからです。そして、そのようにイエスを受け入れる者は、イエスをお遣わしになった方、すなわちイエスの父を受け入れているのである、とイエスは断言されます。これは大変な宣言です。神を自分の中に迎え入れ、神と共に生きることは人間の究極の境地です。その境地に到達する道が、ここにじつに大胆に提示されています。神と共に生きる境地に到るのは、特定の宗教に精進してその奥義を究めた者ではなく、イエスの名によって「小さい者」を受け入れて生きる者であるというのです。神に最も近いのは、諸宗教の高位の聖職者ではなく、日常の生活の場で「小さい者」と苦しみを分かちながら共に生きている「小さい者」たちです。真剣に受け取れば、このみ言葉はあらゆる宗教制度を粉砕する爆破力を秘めています。
 こうして、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という議論をしている弟子たちに、イエスは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と、神の国での価値の物差しを明示して、弟子たちを諭されます。人の価値を測る物差しが、神の国と人間社会では全然違うのです。人間社会では、その能力によってどれだけ多くの人や物を支配するかで価値が測られます。しかし神の国では、大きな能力のある者がどれだけ自分を小さく低くすることができるか、そうすることによってどれだけ多くの人に仕え、どれだけ有効に役立つことができるかで測られます。この観点からすれば、イエスこそ最も偉大な人物、あるいは偉大な人物の原型であると言えます。