市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第52講

56 再び自分の死を予告する(9章43節b〜45節)

謎の言葉

 イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。(九・四三b〜四四)

 エルサレムに向かう旅の途上で、イエスがご自分の受難を予告された言葉が三回記録されていますが(九・二二とここと一八・三一〜三三)、ここに置かれている二回目の予告の文、「人の子は人々の手に引き渡される」という簡潔で謎めいた言葉が、イエスが語られたもともとの予告の言葉であったと考えられます。先に見たように、イエスが話されたアラム語では、人を指すのに「人の子」という表現が用いられました。それで、イエスは「人の子は人の子らの手に引き渡されようとしている」と語られたと推察されますが、その言葉はアラム語を母語とする弟子たちには「人は人々の手に引き渡されようとしている」という謎の言葉《マーシャール》になります。この謎の言葉を聞いた弟子たちの困惑と恐れが次のように記述されています。

弟子の無理解

 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。(九・四五)

 イエスはエルサレムに向かう旅の途上で、ご自身の受難を予告されましたが、それがこのような謎の言葉でなされていたため、弟子たちはその意味が理解できず、イエスのように神の力をもって大いなる奇跡を行い、メシアとして来られた方が殺されるようなことは、最後の最後まで予想することができませんでした。ルカは、そのような弟子たちの無理解を、「彼らには理解できないように隠されていた(=神が隠しておられた)のである」と書いて、神の計らいの結果であるとしています。弟子たちは、「引き渡される」という言葉が示唆する悲惨な結末を聞くのを恐れて、その言葉の意味をイエスに尋ねることすらできませんでした。これは、イエスがすでにご自分が殺されることを明白に語り出されたとする記事(九・二二)と矛盾するようですが、その時の弟子たちの実際の姿としては、イエスの謎の言葉に戸惑い恐れている姿が事実でしょう。
 このように、ルカは弟子の無理解を率直に伝えています。イエスはエルサレムにおける受難を予告されたにもかかわらず、弟子たちはそれが理解できず、自分たちのメシア期待に燃えてエルサレムに向かって旅をします。同じくエルサレムに向かいながら、イエスと弟子たちは別の道を歩んでいるのです。イエスは受難の道を、弟子たちはメシアの栄光と支配の道を歩んでいます。
 そのことは、弟子たちが仲間の中でだれがいちばん偉いかという議論をしていたという事実からもうかがわれます(次の段落)。ルカは伝えていませんが、マルコ(一〇・三五〜三七)によるとエルサレムに入る直前、ゼベダイの子のヤコブとヨハネが「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と頼んでいます。これも、弟子たちが直前までいかにイエスの受難の道を理解せず、違った道を歩んでいたかを示しています。イエスはこの旅をも、弟子たちに神の国の奥義を教えるための期間としなければなりませんでした。それほど長い旅ではなかったはずですが、ルカはこの旅の期間にイエスの教えをぎっしりと詰め込んでいます。