市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第48講

52 ペトロ、信仰を言い表す(9章18〜20節)

出来事の場所

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。(九・一八a)

 ルカの書き方からすると、この記事は荒れ野の大集会の直後にあり、イエスはまだガリラヤの荒れ野におられることになります。しかし、マルコ(八・二七)はペトロの告白が行われた場所として、ガリラヤ湖北岸から北へ四〇キロほどにあるフィリポ・カイサリアの地方という地名をあげています。おそらくこのような具体的な地名は、この出来事の当事者であるペトロ自身から出ているのでしょう。マルコでは、ガリラヤの荒れ野での大集会の後、イエスは民衆の追従を避けて、少数の弟子たちだけを連れて、ツロとかシドンという北方異教の地へ旅だっておられます。その旅を終えていよいよエルサレムに向かうために「イスラエルの地」に入ろうとして、その境界の地でご自身にかかわる重要な奥義を語り出されたと見られます。
 ルカはそのような旅の行程や出来事の地名は異邦人読者には必要はないと考えたのでしょうか、すべて省略し、ただ「イエスがひとりで祈っておられたとき」としています。「弟子たちは共にいた」のですから、この「ひとりで」はイエスだけがひとり離れて山や荒れ野で祈られたことを指しているのではなく、「群衆を避けて」弟子たちと一緒におられた状況を指し示しています。マルコの北方の旅の記事は、この時期(荒れ野の大集会から山上の変容に至る時期)がイエスの活動の分水嶺になっていることを印象づけますが、ルカにおいてもそれは同じです。この時以来、イエスはもはやガリラヤの群衆の中に立つことはなく、弟子たちだけと一緒に受難の地エルサレム向かわれることになります。

イエスの問いとペトロの答え

 この状況で、イエスは重大な奥義を語り出すために、弟子たちに問いかけられます。

 そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」。(九・一八b〜一九)

 この弟子の答えは、先にヘロデが聞いて不安に駆られたガリラヤの民衆のうわさ(九・七〜八)と同じです。弟子たちも、ガリラヤの民衆の間にイエスをこのような預言者とする熱狂があることを報告します。「洗礼者ヨハネ」というのは、ヨハネはすでに処刑されていますから、あの大預言者である洗礼者ヨハネが生き返って働いているのだから、あのような奇跡を行うことができるのだという見方です。「エリヤ」は、神が最終的な審判と救済を成し遂げられる直前にイスラエルに送られる預言者であると、当時のユダヤ教で広く信じられていた預言者です。また、イザヤとかエレミヤというような昔の預言者が生き返ってイエスという姿で働いているのだ、というような見方です。ガリラヤの民衆はイエスをそのような預言者と見て、長らく途絶えていた預言の声が再び響き渡り、最終的な解放の時が近いと熱狂していた様子が報告されます。
 それに対してイエスは、弟子たち自身はイエスをどのような方としているのかを問われます。

 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「神からのメシアです」。(九・二〇)

 ペトロが弟子たちを代表して答えます、「神のメシアです」(直訳)。ペトロはイエスを預言者以上の方としています。「メシア」とは、ヘブライ語で「油を注がれた(者)」を意味する語であり、終わりの日に神から油を注がれた者としてイスラエルに遣わされる救済者(解放者)の称号となっていました。イスラエルは長い苦難の歴史の終わりに、神の霊を注がれ(油は霊の象徴です)、神の力をもってイスラエルを解放する「メシア」の出現を待ち望んでいました。ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた「メシア」だと言い表したのです。預言者は終わりの日の解放を預言しました。それに対して、メシアはその解放をもたらす方であり、預言者以上の方、預言の成就・実体です。ペトロたちは、イエスと一緒いて、イエスの働きを身近に見て、民衆よりも一歩進んで、そのような確信をもつに至っていました。

ペトロの答えの翻訳は、「神のキリストです」と「神のメシアです」に分かれています。ギリシア語の原文は、《ホ・クリストス》ですが、ネストレ・アーランドの26版では《クリストス》が小文字で始まっています。「キリスト」という称号を指すときは大文字で始まりますので、これは「油を注がれた者」という普通名詞として扱っていることを示しています。「キリスト」という称号には、復活者キリストを指す意味が含まれますから、
この段階でペトロがその称号を用いることはありえません。あくまで当時のユダヤ教における「メシア」の概念で、そう言い表したと見るのが適切です。それで最近の翻訳では「メシア」が多くなっています。この翻訳の問題については、拙著『マルコ福音書講解T』330頁の「メシアとキリスト」の項を参照してください。