市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第46講

50 ヘロデ、戸惑う(9章7〜9節)

洗礼者ヨハネとイエスに対するヘロデ

 このようにしてガリラヤに響き渡るイエスの名と不思議な出来事のうわさは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの耳に入ります。

 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。(九・七〜八)

 このイエスについての民衆のささやきは、時代の終末的待望の雰囲気をよく示しています。すでに洗礼者ヨハネの出現とその告知は終末の切迫を強く響かせていました。そのヨハネが処刑された後、生き返って働いているのだという見方は、イエスが終末到来のしるしであるという見方を強めています。終わりの日の前にエリヤが現れるという待望は、この時代に広く行き渡っていました。また、マラキ以来絶えていた預言の霊の再来は、終わりの日のしるしでした。このような民衆のささやきは、イエスを終わりの日に遣わされると信じられていたメシアではないかという期待が行き渡っていたことを示しています。
 このようなイエスの出来事と民衆のメシア期待の声を伝え聞いた領主ヘロデは、不安に陥り、途方にくれます。もしイエスがメシアとして民衆を糾合して蜂起するならば、自分の支配権力は覆ります。ここでヘロデの心理状態を描く動詞は、自分を見失うほどの強い困惑を指す動詞です。
 マルコは十二人の派遣の記事の後に、ヘロデによる洗礼者ヨハネ処刑の詳しい記事を入れています(マルコ六・一七〜二九)。ルカはヨハネ処刑の経緯には触れず、それがすでに行われたことを、人々の「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」といううわさや、ヘロデ自身の「ヨハネなら、わたしが首をはねた」という独白で示唆するだけです。ヘロデは、洗礼者ヨハネの運動に自分の権力を脅かす危険を感じて、ヨハネを逮捕し処刑しました。今ヨハネの再来として、ヨハネ以上に民衆の終末待望を熱く燃え上がらせている人物が活動しています。ヘロデはこの人物に対して不安を覚えて、こう言います。

 「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」。(九・九b)

 弟子たちは、嵐に向かって命令し、風と波を静めたイエスに驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言いました(八・二五)。ヘロデは不安と困惑から同じ問いを発しました。イエスの側に立つ者も反対の立場に立つ者も等しく問わないではおれないこの問いこそ、福音書全体の主題であり、世界が直面する重い課題です。ルカの物語も、ペトロの告白で迎えるこの頂点(九・二〇)に向かって進んで行きます。
 ヘロデは、このうわさの主、すなわちイエスに会ってみたいと思います(九・九c)。この願いは、イエスが逮捕され、ピラトの裁判にかけられたとき、イエスがヘロデ統治下のガリラヤの民であることを知ったピラトが、ちょうどエルサレムに滞在していたヘロデにイエスを送ったときに実現します(二三・六〜一二)。四福音書の中で、イエスがヘロデの裁判を受けたことを伝えているのはルカだけです。おそらくルカは、ヘロデの宮廷に親しい人物(マナエン)を擁するアンティオキア共同体(使徒一三・一)から、このようなヘロデに関する独自の伝承を得たのでしょう。その出来事を準備する記事として、イエスに会いたいと思ったヘロデの願いを、この段階で入れています。