市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第43講

47 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(8章26〜39節)

湖の向こう岸で

 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。(八・二六)

 イエスが「湖の向こう岸に渡ろう」と言って、弟子たちと舟に乗られた(八・二二)のは、向こう岸のユダヤ人にも「神の国」を宣べ伝えるためだったのでしょうか。それとも、これから語られることになる悪霊につかれた人をいやして神の栄光を現すように、神の啓示を受けての行動だったのでしょうか。福音書は動機や目的については何も語らないで、イエスが湖の向こう側へ行かれた行動だけを報告します。その途中の湖上で嵐に遭いますが、イエスがひと言で嵐を静め、一行は無事に対岸に到着します。
 

ルカはマルコをそのまま踏襲して「ゲラサ人の地」に着いたと書いていますが、ゲラサはガリラヤ湖から南東六〇キロあまりにあり、間には他の町もありますから、その領域がガリラヤ湖に達していたとは考えられません。マタイはマルコを修正して「ガダラ人の地方」としていますが、ガダラもガリラヤ湖南端から南東へ一〇キロ離れており、「豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」という記述は、不可能ではないにしても、ありそうにはありません。共観福音書の写本の中には「ゲルゲサ」と読むものもあります。ゲルゲサはガリラヤ湖東岸の中程にあり、山が湖に迫っている地形は豚の記述と合致します。三つの地名はギリシア語ではよく似ているので、セム語系の地名をギリシア語で表記する時とか、写本の段階で混乱があったのかもしれません。エウセビオスも「主が悪霊を追い出されたゲルゲサ」と書いています。この出来事は、イエスが舟で向こう岸に着き、陸に上がられたときに起こったことですから、地名は特定できなくても、ガリラヤ湖東岸での出来事とすれば十分だと考えられます。
この対岸のことを、ルカは「ガリラヤの向こう岸」と書いています。デカポリス地方にあるゲラサは異邦人の地ですから、ユダヤ人の地であるガリラヤではないという理解から、このような表現になったのでしょうか。ガリラヤ湖東岸のゲルゲサであれば、同じく東岸北部のベトサイダ(ペトロ、アンデレ、フィリポの出身地)から遠くなく、ユダヤ人の居住地である可能性もあり、悪霊につかれた男もユダヤ人である可能性もあります。しかし、豚が多く飼われていたことから、やはり異邦人の土地である可能性が高いでしょう。

 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来ます(八・二七a)。この悪霊に取りつかれた男の様子について、ルカはこう書いています。

 長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。・・・・この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。(八・二七b、二九b)

 この記述は、マルコ(五・三〜五)と内容はほぼ同じですが、マルコの方が、悪霊の支配がいかに強力かを印象深く描いています。

 この男はイエスを見ると、わめきながらひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と大声で叫びます。それは、イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからです。(八・二八、二九a)

 マルコ福音書とマルコに従う共観福音書は、イエスが悪霊を追い出す働きをされたことを、イエスの働きの中心的な位置に置いて繰り返し報告し、その意義を「ベルゼブル論争」(一一・一四〜二三)で語っています。そして、その悪霊追放の働きの中で代表的な事例として、ガラテヤ伝道初期のカファルナウムの会堂での出来事(四・三一〜三七)と、ここのガリラヤ湖東岸での出来事を詳しく伝えています。
 その両方において、人に取り憑いている悪霊は、イエスに直面すると、イエスが誰であるかを知っていて、自分を苦しめないでくれと叫びだしていることが共通しています。霊界の住人である悪霊は、地上の人間より霊界のことをよく知っています。地上の人間には、イエスは自分たちと同じナザレの一ユダヤ人にしか見えていませんが、悪霊《ダイモニオン》は霊界のイエスの姿を知っています。それでイエスに向かって、「あなたは神の聖者だ」(マルコ一・二四)とか、「いと高き神の子イエスよ」と叫び出すのです。
 しかし、このような悪霊に取り憑かれている人の状況は、ここに描かれているように悲惨です。通常の人間の理性とか心はもはやその人を支配せず、狂気が支配し、人間社会から放逐されるような結果になります。しかし、悪霊にとっては、この人のように完全に支配することができるところこそ、自分が好き勝手にできるもっとも居心地のよい場所です。それで、イエスが神の霊によって悪霊を追い出す権威をもつ方として来られると、イエスの命令に反抗し、かなわぬと見ると、追い出さないように哀願します。

悪霊「レギオン」

 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオンだ」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。(八・三〇)

 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、その人の中の悪霊が、「レギオンだ」と答えます。その「レギオン」という名の意味を、福音書は「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」と解説します。古代の霊能者は、諸霊を礼拝した り追い出したりして、霊界で行動するために、対象となる霊の名を知ることを重視しました。しかし、イエスは、カファルナウムの会堂での場合のように、名を聞くまでもなく、悪霊を追い出しておられます。ここでも名を聞く前に、汚れた霊に男から出るように命じておられます(二九節)。
 しかしここでは、この人の並外れて悲惨な状況の原因となっている悪霊の名を訊ねられます。男から出るように命じてから名を聞くのは、この悪霊が命令に抵抗し、執拗に「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」からでしょう(八・三一)。イエスは改めて、相手の悪霊の名を追及されます。悪霊を追い出すという働きは、一種の格闘技のような面があり、駆け引きも行われます。
 イエスの追及に、悪霊は「レギオンだ」と白状します。ここの《レギオーン》というギリシア語はローマの軍団を指すラテン語「レギオ」からの借用語です。ローマの一軍団は、五個から六個の百人隊からなる連隊が一〇集まって構成され、ほぼ五六〇〇人の兵士が含まれます。このようなギリシア語が用いられたので、ルカはこの名の意味を、「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」と解説します。マルコ(五・九)では、悪霊自身が「レギオンだ。われわれは大勢なのだから」と答えています。この名の解釈は、この男の並外れた悲惨な状況を説明するのに好都合です。
 しかし、これを悪霊の数が多いと理解するには問題があります。イエスは終始この悪霊に対して、「汚れた霊(単数形)に命じた」とか(二九節)、「イエスはその霊(単数形)に」名を訊ねたとか(三〇節)、一霊として扱っておられます。また、ルカも「悪霊(単数形)によって荒れ野へと駆り立てられていた」(二九節)とか、「その霊(単数形)は言った」(三〇節)と、一霊扱いで記述しています。複数の霊を一つの勢力として集合的に単数で指すことも可能ですが、ここでは言語上の問題があるようです。
 アラム語に詳しいJ・エレミアスはこの記事を言語上の誤解から生み出された奇跡の記述の例として挙げています。彼によると、ここで悪霊の名として用いられているアラム語には、「軍団」と「兵士」という二つの意味があり、悪霊の答えは本来「私は兵士という名の者だ。私の同類は数が多いから(われわれは兵隊同志のようにお互いに似ている)」という意味であった(ギリシア語原文では、悪霊は「われわれの名」ではなく単数の「私の名」と言っている)。ここでこのアラム語の名が誤って「軍団」の意にとられた結果、「私の名は軍団という。われわれの数は多いから(われわれの一軍団がこの病人に取りついている)」ということになり、この病人に何千という悪霊が取りついているという表象が生まれたのである、としています。

J・エレミアス『イエスの宣教 ― 新約聖書神学T』(角田信三郎訳・新教出版社)168頁参照。

 このような言語上の誤解から生まれた表象が、奇跡物語の常として、伝承されていく過程で誇張され、次の多くの豚の出来事となったと見られます。この段落の記述には、順序や用語に混乱が見られ、伝承過程の分析は複雑を極めています。わたしたちには、悪霊が一霊か多霊かの数の問題ではなく、このように強力に人間を支配する霊的存在に対して、「出て行け」と命じることができるイエスの権能に驚き、イエスをそのような権能を持つ方として信じることが重要です。

イエスの奇跡が及ぼした影響

 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。(八・三二〜三三)

 悪霊が取り憑いている男から出て行くかわりに豚の中に入る許しを願い、イエスはそれをお許しになります。そうすることで、この人から悪霊が出て行ったことを明確に証明することができ、解放が完璧になるからでしょう。ここに一種の駆け引きが見られます。この箇所の悪霊と豚は複数形で、ルカは「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」という説明に辻褄を合わせています。マルコ(五・一三)はこの豚の数を「ほぼ二千匹」としていますが、ルカは(そしてマタイも)数には触れないで、「多くの豚」としています。ルカもマタイも、伝承過程で生じたこのような誇張を受け入れるのに躊躇を感じたのでしょう。
 イエスがお許しになると、悪霊どもはその人から出て、豚の中に入ります。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死ぬという結果になります。追い出された悪霊が動物の中に入るということは、古代ヘレニズム世界では文献にも多く報告されているということです。

 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。(八・三四〜三五)

 悪霊に取り憑かれていた人が正気になっているのを見て、人々は感嘆して神を賛美するのではなく、恐ろしくなります。これは、豚のこともあり、あまりにも異様な霊的現象に直面したときに人間が感じる本性的な恐れです。

 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせたので、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。(八・三六〜三七)

 すっかり恐れに取りつかれたこの地方の人たちは、イエスに立ち去ってくださるように願います。原文は「ゲラサ地方の人々」とありますが、これは先に見たように「その地方の人々」と読んでいいでしょう。彼らは、イエスにおいて神の救いの力が現れているのに、それを歓迎せず、理解できない異様な霊的事態に恐れをなし、また、一人の魂の救いよりも多くの豚を失うという損失に目を奪われて、イエスを歓迎できなかったのです。

しかし、もしこの地方がユダヤ人の町とか村であるなら、イエスを迎え入れることによって町とか村全体が律法に違反する汚れた町という疑いを最高法院からかけられることを恐れたからかもしれません。事実、イエスが多くの奇跡を行われたガリラヤの町や村が、この恐れからイエスを拒否して、イエスから厳しい断罪の言葉を受けることになります(マタイ一一・二〇〜二四、ルカ一〇・一三〜一五)。ただ、この断罪の言葉は、イエスの時代のものではなく、受け入れを拒否されたQ共同体が形成したものと見られることもあり、ここでの拒否の説明にはならないかもしれません。この点については拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』163頁「ガリラヤの町々への告発」の項を参照してください。

 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。(八・三八〜三九)

 舟に乗って帰ろうとされるイエスに、悪霊を追い出してもらった人が、お供して一緒に行きたいと切に願いますが、イエスはお許しにならず、その人を家にお帰しになります。正気に戻ったこの人は、放逐されていた社会に復帰します。これも救いの素晴らしい結果です。
 ただ、よく伝道集会などで、悪行や悪癖に溺れていた人が、イエスを信じることで更生し、立派な社会人になったことが救いとして喧伝されますが、そのような更生と社会復帰は救いの一つの実であって、救いそのものではありません。もし社会復帰が救いであれば、もともと正常な社会生活をしている人は救いを必要としないことになります。
 むしろ、イエスを信じて救われ、新しい命に生きるようになった結果、それまで平穏に暮らしていた社会から締め出されて、苦難の生涯になる場合もあります。救いとは、この死ぬべき命の中に、もはや死ぬことのない新しい命、永遠の命をいただき、神に生きるようになることです。その結果、まともな人間になって、放逐されていた社会に復帰することもあれば、逆に伝統的な価値観から逸れた者として、社会から疎外され、孤独と苦難の道を歩むことになる場合もあります。どちらの場合も、自分が置かれている境遇において、神がキリストにおいて自分にしてくださったことを言い広めることが、救われた者の使命となります。