市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第42講

46 突風を静める(8章22〜25節)

 先の「イエスの母、兄弟」の段落をたとえ集の結びとして「たとえ集」の区分に入れますと、ルカはマルコ(四・三五〜五・四三)の順序と内容に従って、「たとえ集」の後にイエスの権威と力を示す四つの顕著な奇跡を伝える物語を続けます。嵐を静められた奇跡、悪霊を追い出す働き、衣に触れた長血の女がいやされた奇跡、会堂司ヤイロの娘を生き返らされた奇跡の四つです。これらの奇跡に直面する者は、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問わないではおれません。この問いの前に立たせることで、この奇跡物語の区分(八・二二〜五六)は、九章のイエスに対する告白を準備します。

湖上の突風

 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。(八・二二)

 ガリラヤの町や村を巡回するさい、イエスの一行はガリラヤ湖を渡って対岸に行くこともしばしばあったことでしょう。ペトロとアンデレ、またヤコブとヨハネはガリラヤの漁師ですから、舟を利用することは容易であったことでしょう。
 最近(一九八六年)ガリラヤ湖で沈没していた古代の木舟が引き揚げられ、一世紀ごろのものと鑑定されました。その残骸から復元された模型は、長さ8・2メートル、幅2・3メートル、高さ1・2メートルで、真ん中に帆柱があり、舳先と船尾の部分は板張り、中央部が開いていて、数人の漕ぎ手が座ったと見られます。この大きさでは、一〇人から一二人も乗れば一杯になります(私市元宏『イスラエル一巡記』から)。おそらくイエス一行はこのような舟に乗り込んだのでしょう。

 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。(八・二三)

 イエスは船尾の板張りのところで眠られます(マルコ)。ところが、湖を渡っているとき突風が吹き降ろしてきて、舟は水をかぶり、沈みそうになります。ガリラヤ湖では、周囲の山から吹き降ろす突風がよく起こるということです。

 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪(なぎ)になった。(八・二四)

 ガリラヤ湖で漁をしてきた練達の弟子たちも、激しい嵐に恐れをなし、イエスを起こして、助けを求めます。すると、イエスは風と荒波とをお叱りになります。マルコは、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」とお命じになった、と伝えています。このあたりの描写も、ルカはマルコの劇的描写を簡潔にしています。イエスがこうお命じになると、風は静まり、湖は穏やかな凪になります。

この方はどなたなのだろう

 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。(八・二五)

 嵐を恐れて慌てふためく弟子たちを見て、イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われます。イエスは嵐の中で眠っておられました。その姿は、自分の全存在を父に委ねている姿です。これは、親の懐で眠っている幼子の姿です。状況はどうであれ、父の無条件の信実と慈愛だけを見て、自分を完全に父に委ねている姿です。ここでの「信仰」は、そのような父への全面的、絶対的信頼の姿です。
 このイエスの姿に対して、弟子たちは外の状況に恐れをなし、慌てふためいています。普段神への信頼を学んでいるはずのイスラエルの民でありながら、またイエスから父への信頼を教えられていながら、外の状況が急変すると恐れたり、慌てふためいたりする姿に対して、イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言って、改めてこの機会に、いかなる状況においても父への全身的信頼の必要を指し示されます。
 弟子たちは、イエスのひと言で嵐が静まったことに安堵しますが、助かったという喜びよりも、イエスの命令に風や波が従って、嵐が静まったという事実に驚愕します。そして、互いに「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言います。
 弟子たちは、それまでにもイエスがなされる多くの奇跡を見てきました。病人をいやし悪霊を追い出される奇跡を多く見てきました。しかし、そのような奇跡は、他の霊能者も行ったこともあり、イエスは彼らとは決定的に違う方であることが分かっていませんでした。ところが、この出来事に直面して、イエスの権能とか力が普通の霊能者のレベルとは違うことに気づき、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問わないではおれなくなります。
 ファリサイ派の人たちもイエスの奇跡を見ていました。しかし、病人をいやし悪霊を追い出すという「力ある業」では、イエスを神から遣わされた預言者とかメシアと認めることはできず、イエスに「天からのしるし」を要求しました(一一・一六)。モーセが天からマナを降らせたように、天界を支配する権能を示す「しるし」を求めたのです。イエスは、「しるし」を要求してイエスを試す彼らの不信仰を見て、この要求は拒否されます。しかし、弟子たちはここで、天界の事象である天候を支配されるイエスの権能を見て、この方は普通の人間ではないと感じ、「この方はいったい誰であるのか」と問わないではおれなくなります。
 この問いこそ、福音書の秘義です。福音書は、イエスの働きや教えの言葉、その生涯を語り伝えます。実はそれによって、イエスとは誰かという問いを世に突きつけているのです。そして、その問いに対する答え、イエスとは誰かという秘義を、隠しながら現しているのです。「隠しながら」というのは、イエスは実は神を現すために地上に来られか方であるのですが、そのことをイエスの一人の人間としての姿の中に隠しているのです。神の栄光が地上の人間の中に隠されているのですから「秘義」なのです。
 この「秘義」は、「人の子」についての発言に見られるように、イエス御自身が断片的に示唆されたこともありますが、最終的にはイエスが復活されることによって初めて世に明らかに告げ知らされることになります。ですから、イエスの復活を信じない人には、この秘義は理解されることはなく、謎のまま残ります。たとえだけでなく、イエスの言葉も奇跡の働きも、イエスという方の全体が謎になります。