市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第41講

45 イエスの母、兄弟(8章19〜21節)

巡回伝道に同行する母と兄弟

 この光景を、マルコはたとえ集の直前に置いていますが、ルカはマルコの順序から離れて、それをたとえについてまとめた区分の直後に置いています。これはおそらく、たとえを扱った区分の基調である神の言葉を正しく聴いて行うようにという呼びかけの結びとしてふさわしいと、ルカが判断したからではないかと考えられます。

 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。(八・一九)

 誕生物語を別にすれば、イエスの母マリアがルカの二部作で言及されるのは、福音書ではここだけで、他に使徒言行録一章一四節があるだけです。兄弟たちについても、同じくここと使徒言行録一章一四節で言及されるだけです。イエスが公の活動を始められたときには、父親のヨセフはすでに世を去っていたと考えられます(マルコ六・三からもそう推定されます)。
 イエスの母と兄弟たちは、弟子たちと一緒にイエスのガリラヤでの巡回伝道に同行しています(ヨハネ二・一二)。その事実は、イエスの母と兄弟たちはイエスの活動に批判的ではなく、協力的であったことを意味します。事実、使徒言行録一章一四節が語るように、母と兄弟たちは、イエスの十字架と復活の後、弟子たちや他の女性たちと一緒にエルサレムに移住し、復活されたイエスが栄光の中に来臨するのを待って祈るグループに加わっています。これは、母や兄弟たちがイエスの生前から協力的で、イエスの巡回伝道に同行していたのでなければ理解できないことです。したがって、母と兄弟たちが何か用事があってイエスのおられるところに来るのは自然なことです。ところが、イエスを取り囲む群衆のために近づくことができませんでした。ここでは、次節の「外に立っておられます」という句が示唆するように、イエスは家の中で病人をいやしたり、御言葉を語っておられたと見られます。

ここでルカは、母と兄弟たちが何のために来たのか動機とか目的は語っていません。マタイ(一二・四六)は「話したいことがあって」と説明しています。ところがこの箇所は、イエスを危険な活動から引き離すために「身内の者は・・・取り押さえに来た」というマルコ三・二一との関連から、そこと同じような目的が推察されることが多くあります。 ― わたしの『マルコ福音書講解T』も同じで、この推察は訂正しなければなりません。 ― しかし、母と兄弟たちが最初期のエルサレム共同体で最初からの有力なメンバーであることを知っているルカは、母と兄弟たちをネガティブに描くことはありません。ベルゼブル論争の記事(一一・一四以下)でも、マルコ三・二一の文言は注意深く削っています。しかし、もともとこのマルコ三・二一の「身内の人たち」という訳が問題です。この点について、前著『パウロ以後のキリストの福音』440頁の注記を、以下に再録しておきます。
マルコ三・二一で「身内の人たち」(文語訳から新共同訳、岩波版に至るまで、拙著の『マルコ福音書講解』も含め、すべての日本語訳)と訳されているギリシア語《ホイ・パラ・アウトゥ》は、「彼と共にいる人たち」と言う意味の表現であって、必ずしも家族を指すわけではありません。マルコ福音書ですぐ後に現れる「イエスの母と兄弟たちが来て・・・」(三・三一)と一組にされて、21節の句が家族を指すと理解されて、「身内の人たち」と訳されたのだと考えられます。しかし、文脈からすれば直前の十二弟子の選びが「自分の側に置くため」(三・一四)ですから、この「彼と共にいる人たち」は十二弟子を指すと見る方が自然です。「身内の人たち」という訳は再検討されなければなりません。
また、「あの男は気が変になっている」と言っていたのは、「彼と共にいる人たち」ではなく世間の人たちであり、ここをイエスに対する家族の批判的な態度を示す根拠とすることはできません。ヨハネ七・五の「兄弟たちはイエスを信じていなかったのである」という表現も、ヨハネが求める意味での信仰ではまだないのであって、その意味では十二弟子も同じく「イエスを信じていなかった」と言わなければなりません。弟子たちはイエスがエルサレムに入られるならば、人々の前に大いなる働きがなされると期待していたように、兄弟たちもイエスにエルサレムで公に活動することを期待したに過ぎません。家族がイエスの「神の国」宣教活動に批判的ではなく協力的であったことについては、ペインター(John Painter)が その著 " Just James, The Brother of Jesus in History and Tradition " Fortress 1999 の Ch.1 で説得的に論じています。

「わたしの母、わたしの兄弟」

 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。(八・二〇〜二一)

 並行するマルコ福音書(三・三一〜三五)ではイエスと周囲の人たちとの対話が劇的に描かれていますが、それに較べるとルカは随分簡潔にして、二一節のイエスの語録を伝えるだけの記事にしています。マルコの記事を踏襲する場合には、ルカは描写を簡潔にする傾向がありますが、ここもその一例です。
 イエスの言葉は、「神の言葉を聞いて行う人たちこそ、わたしの母、わたしの兄弟である」とも訳せます(協会訳)。このイエスの言葉は、マルコによると、「あなたの母上とあなたの兄弟姉妹方が外であなたを捜しておられます」という言葉に対して、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とお答えになった後に続く言葉ですから、この訳の方が分かりやすいようです。
 「神の言葉を聞いて行う人」とは、宗教的道徳的律法を完全に守り行う者のことではありません。その点については模範的であったファリサイ派の人たちは、イエスの家族ではなく、むしろ敵でありました。ここでイエスが「神の言葉を聞いて行う人たち」と言われるのは、御自分と同じ質の命に生きる者を指しておられるのです。イエスを通して語られる恩恵の言葉を聴いて、父の恩恵に身を委ねて生きている人たちのことです。イエスは、そのような人たちこそが、自分と同質の命に生きている人たちであり、自分の母、兄弟であると宣言されます。
 たとえイエスの肉親であっても、それはイエスが生きておられる神の子としての命を保証するものではありません。イエスはここで、二種類の命を明確に区別しておられます。わたしたちが生きている生まれながらの命は、親子とか兄弟の肉親関係を形成します。しかし、その肉親関係に見られる命の同質性は、神を父としイエスを長兄とする霊の家族に入ることを保証しません。霊の家族を形成する命は、自然の命とは別種の命です。このことを、イエスはここで宣言しておられるのです。