市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第40講

44 「ともし火」のたとえ(8章16〜18節)

「ともし火」のたとえ

 ルカはマルコ福音書四章にまとめられている多くのたとえの中から、代表的なたとえとして「種を蒔く人」のたとえを取り上げ、たとえで語る理由とそのたとえの説明を続けるという形でマルコに従っています。こうして形成したイエスのたとえに関する区分(八・四〜一八)を「ともし火」のたとえで締めくくります。

 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。(八・一六)

 この「ともし火」のたとえは、マルコ(四・二一)では「ともし火が来るとき、ますの下や寝台の下に置かれることがあろうか。燭台の上に置かれるではないか」(私訳)となっています。「ともし火が来る」という特異な表現は、イエスが御自身の世への到来を光の到来として語っておられることを示唆しており、この比喩はもともとは、イエス御自身が光として世に入ってきた以上、その光を枡をかぶせて消したり、台の下に置いて隠すことはできない。どのように圧迫されようと、光を高く掲げて世を照らさなければならない、というイエス御自身の使命に関する比喩であると考えられます。
 しかし、ルカはマルコの表現を変えて、「人がともし火をともしたとき、それを・・・・・する人はいない」と、初めから人の動作を描く文章にしています。これはルカがマルコの語録をイエスの言葉を聴いた者たちへの訓話として理解した結果です。ルカの表現は、イエスに従う弟子たちは、イエスのたとえの奥義をよく理解して、その光を覆い隠すことなく世に輝やかさなければならない、と諭していることになります。ルカはこのたとえを別の文脈でも用いていますが(一一・三三以下)、そこでの用い方も、弟子たちが内面の光を覆い隠すことなく輝かすようにという教えになっています。マタイ(五・一四〜一六)も、この比喩を弟子たちが立派な行いによって光を世に輝かすようにという教えの文脈に置いています。

隠されたものは顕われる

 この「ともし火」のたとえの後に、「神の国」についてのイエスの重要な語録が置かれています。

 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。(八・一七)

 この言葉は当時広く用いられていた格言ではないかと考えられますが、イエスはこれを「神の国」の姿を描く宣言とされます。すなわち、いま「神の国」は地上のイエスの中に隠された姿で到来している。それが神の支配、神の働きである以上、その神の支配の現実は必ず顕わになる。今は秘められた姿でイエスと僅かの弟子たちに中に働いているが、それは必ずすべての人が直面する公の現実になるのだ、という宣言です。

この格言が「神の国」到来の原理を宣言するものであることについては、拙著『マルコ福音書講解T』208頁「神の国の顕現」の項を参照してください。

 この宣言は、イエスが御自身の光として使命について告白されたものとして理解した場合、マルコの形での「ともし火」の語録によく続きます。イエスは、今自分の中に到来している「神の国」という光は、世では圧迫されて覆い隠されているようであるが、「神の国」の現実は必ず栄光の中に顕現する時が来るのだ、と宣言しておられることになります。
 「ともし火」のたとえをルカの形で理解した場合は、隠されたものは必ず顕わになるのだから、受けた光は覆い隠さず、公に言い広めよ、という意味になります。この格言は、「ともし火」のたとえの勧告を理由づける文としてはやや無理が感じられます。

持っている人は更に与えられる

 この後、マルコ(四・二四〜二五)では、「何を聞いているかに注意しなさい」という警告の後、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と続き、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という宣言が来ます。それに対してルカは、秤の比喩はすでに他の文脈で用いたので(六・三七〜三八)、その部分は飛ばして、次のような言葉で、イエスのたとえを注意深く聞くように呼びかけます。

 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。(八・一八)

 イエスは繰り返し、「聞く耳のある者は聞きなさい」と警告しておられます。イエスのたとえをただの物語として素通りさせてはならないのです。そのたとえが今自分に何を意味しているのかを真剣に受け止めなければなりません。もしわたしたちが聞く耳をもたず、イエスが語られることを軽視したり無視するならば、神もわたしたちを軽視し無視されるでしょう。「神の国」の奥義は与えられず、もともと神から与えられているよいものも失っていきます。それに対して、聞く耳をもってイエスの言葉に真剣に耳を傾ける者は、神も真剣に扱ってくださり、時に応じて「神の国」の奥義を示し、それによって霊的理解力を増し加え、ますます多くのよき賜物を与えられることになります。
 ここで先に見た「あなたたちには神の国の奥義《ミュステーリオン》を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話す(=謎になる)のだ」という言葉に戻ってみましょう。そこで語られている「奥義を悟る」とはどういうことでしょうか。ここでの文脈からすると、イエスが語られたとされる「種を蒔く人」の意味の説明が「神の国の奥義」ということになりますが、そうでしょうか。そうであるならば、弟子たちがこのたとえをこの説明のように解釈したとき、彼らは「神の国の奥義」に達していたということになります。「神の国の奥義」とはその程度のことなのでしょうか。
 先にも述べたように、この語録は「たとえ」という語に引きずられて、たとえで語る理由を示す位置に用いられていますが、本来はイエスの活動全般について語る語録であったと見られます。この語録は、たとえ話だけでなく、イエスの働きと教え全体に関わっています。「神の国の奥義」の中でもっとも重要な秘密は、イエスはいったい誰なのかというイエスの人格の秘密です。それは、「人の子」の秘密としてイエス御自身によって地上で語られていますが、その秘密は、「イエスに従う者に賜る聖霊」を受けて始めて悟ることができます。聖霊によって、イエスが生きておられた絶対恩恵の場を体験するのでなければ、「貧しい者は幸いである」とか「敵を愛せよ」という言葉も、謎のまま残ります。聖霊だけが「神の国の奥義《ミュステーリオン》」を悟ることを許します。御霊をもち、御霊に従う人は、ますます豊かに恵みの賜物を与えられますが、御霊をもたない人は、人間が本来もっていると思われているものまでも失っていくことになります。